どうやら帝国最強の魔導卿が三秒で帰ってきたようです
執務室に積み上がった書類の山は、まだ半分も減っていなかった。
ゼノスはミラを膝の上に乗せたまま、片手でさらさらと署名を書き進めている。
その動きは恐ろしく速いのに、もう片方の腕は一瞬たりともミラを離さない。
「……主様」
側近の低い声が落ちた。
「陛下がお待ちです。瞬間移動の門はすでに開きました。
これ以上の遅延は、さすがに看過できません」
執務室の隅には、淡い光を揺らす転移門が開いている。
だがゼノスは、ちらりとそちらを見ただけで、すぐにミラの肩へ頬を寄せた。
「……後回しでいい」
「よくありません」
即答だった。
「主様が陛下を放置している間にも、社交界では『魔導卿がミラ様に夢中で塔から出てこない』と噂が広がっております」
「事実だろう?」
「開き直らないでください」
側近のこめかみに青筋が浮く。
ミラはゼノスの膝の上で苦笑した。
「あはは……ゼノス様、さすがに行ってきた方がいいんじゃないですか?」
「嫌だ」
即答だった。
「君を置いていきたくない」
「子どもみたいなこと言わないでください」
「子どもでも何でもいい。君を手放すくらいなら、僕は――」
「主様」
側近が遮る。
「今すぐ行かれないのであれば、私にも考えがあります」
静かな声だった。
だが、そこに滲む圧は凄まじい。
「……何だい」
「ミラ様ご同伴のうえ、陛下の御前まで強制連行いたします」
「それはダメだ」
ゼノスはようやく真顔になった。
ミラを王城へ連れて行くなど論外だと、その表情が物語っている。
側近は淡々と畳みかける。
「でしたら、主様お一人で行ってきてください。
ご安心を。私が命に代えても、主様が戻られるまでミラ様をお守りいたします」
「……その言い方、全く安心できないんですけど」
ミラが小さく突っ込むと、側近は一礼した。
「ご安心ください。主様以外の危険からは、です」
「そこ区切るんだ……」
ゼノスは苦々しげに側近を睨み、それから腕の中のミラへ視線を落とした。
逡巡。
未練。
執着。
それら全部を煮詰めたような目で、しばらく見つめる。
そして、ようやく。
断腸の思いといった様子で、ミラを膝の上から下ろした。
「……ミラ」
「はい?」
「三秒で戻る。いいかい、その場を動いてはいけないよ。
僕以外の男と話すのも禁止だ。分かったね?」
「はいはい。早く行ってきてください、魔導卿様」
ミラが軽く手を振ると、ゼノスはまるで生き別れのような顔をした。
そのくせ、次の瞬間には光の門へ足を踏み入れる。
「……待っていて。すぐ戻る」
「はいはい」
ミラが笑う間に、ゼノスの姿は門の向こうへ消えていった。
残された執務室に、ほんの一瞬だけ静寂が落ちる。
その直後だった。
ばたんっ!
扉が勢いよく開いた。
「ミラ様! 今、主様はお出かけですよね!?」
「今のうちに、あの『うさぎ』の編み方を教えてください!」
なだれ込んできたのは、魔塔の若き魔導師たちだった。
昨日の光る毛玉騒動と、ミラうさぎの自律行動。
その両方を目撃した彼らは、ミラの編み出す術式にすっかり魅了されていたのだ。
「えっ? ああ、あのうさぎですか?」
ミラの目がきらりと光る。
職人魂に、火がついた。
「いいですよ。あれ、実は指先の感覚がすごく大事なんです」
側近が小さく眉を寄せたが、止めるより先に、ミラはゼノスの机に残っていた魔力の残滓をそっと掬い上げていた。
細く引き延ばす。
交差させる。
捻る。
引き抜く。
魔力が銀の糸みたいに形を持ち、ミラの指先で生き物のように編み上がっていく。
「ここは三回捻ってから、内側へ通すんです。
そうすると、自律魔法の核が安定するんですよ」
「おおぉ……!」
「な、なんて構造だ……!」
若い魔導師たちは息を呑み、我先にと身を乗り出した。
「ミラ様、その耳の立ち上がりは!?」
「核の固定位置、そこなんですか!?」
あっという間に、ミラの周りへ人だかりができる。
執務室はいつの間にか、『魔導卿の聖域』から『熱血クラフト教室』へと姿を変えていた。
ミラは楽しそうに笑う。
「そうそう、そこは力任せじゃダメなんです。
優しく、でも逃がさない感じで――あ、ゼノス様みたいに重いと編み目が潰れます」
「重いんですね、主様……」
「ええ、まあ……かなり」
くすくす、と小さな笑いが広がった。
その時。
空間が、バキリと割れた。
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