第4話:招かれざる残党と、騎士の誇り
指先に残るあの黒い痣の、悍ましい感触が消えない。
食堂での嵐のような対峙から一夜明けても、私の心は混迷の淵にいた。
レオは、死に向かっている。
私をこの邸に閉じ込め、「絶望の中で生きろ」と告げた男が、自分自身もまた、底の見えない沼に足を取られている。
「……奥様、そんなに難しい顔をしていたら、せっかくの美貌が台無しですよ」
図書室の窓際で、ロザリンが退屈そうに短剣を弄んでいる。
彼女は私の監視役だが、その態度はどこか友人に対するものに近い。あるいは、死を待つ者への慈悲だろうか。
「ロザリン。貴女は知っているのでしょう? あの人の腕にある、あの痣のことを」
私の問いに、ロザリンの動きが止まった。
彼女は窓の外、灰色の雲が垂れ込める空を見上げ、ふっと短く息を吐く。
「……さあね。私はただ、閣下に雇われただけの身。けれど一つだけ言えるのは、あの人は『お嬢様』が思っているよりもずっと、馬鹿正直で不器用な男だってことくらいかな」
馬鹿正直。
国を売り、王を殺した男に、もっとも似つかわしくない言葉だ。
言い返そうとしたその時、邸の門の方から、静寂を切り裂くような怒号が聞こえてきた。
「裏切り者のハスカールを出せ! 亡国の王女を、我らが聖女を返せ!」
心臓が跳ねた。
私はロザリンが止めるのも聞かず、バルコニーへと駆け出した。
邸の鉄柵の向こうに、十数人の男たちが集まっていた。
汚れ、綻びた軍服。彼らが掲げる旗の紋章を見て、私は息を呑む。
――レトロ王国、近衛騎士団。
かつて、レオと共に私を守ると誓ったはずの、私の同胞たち。
「レオ・ハスカール! 帝国に魂を売り、姫様を慰み者にする恥知らずめ! 今すぐ門を開けろ!」
罵声が響き渡る。
そこへ、玄関から一人の男が静かに姿を現した。
レオだ。彼は昨夜の疲弊を感じさせない、完璧な公爵の礼装に身を包んでいる。
「騒々しいな。……野良犬どもが、何の用だ」
レオの声は冷たく、そして酷く退屈そうだった。
その態度が、男たちの怒りに火を注ぐ。
「貴様……! よくもそんな顔で! 王を殺し、我らの誇りを泥に塗った大罪人が!」
一人の男が、落ちていた石を投げつけた。
石はレオの頬を掠め、鮮血が伝う。だが、彼は避けることさえしなかった。
ただ、暗い琥珀色の瞳で、かつての戦友たちを見下ろしている。
(……やめて。そんな顔で、石を投げられないで)
私の知っているレオは、誰よりも誇り高い騎士だった。
彼がどんなに罵倒されても無言で耐え忍ぶ姿を見るのが、耐えられなかった。
気づけば、私はバルコニーの手すりから身を乗り出し、声を張り上げていた。
「そこまでになさい!」
場が凍りついた。
男たちが一斉に見上げる。レオもまた、驚いたように顔を上げた。
「エララ様……! ああ、ご無事でしたか!」
「姫様、今すぐその男を殺して、貴女をお救いします!」
彼らの言葉に、私は首を横に振った。
胸が張り裂けそうだった。彼らは私を救おうとしている。けれど、彼らがレオを傷つけることは、なぜか私の心を、あの指輪以上に熱く焦がす。
「ハスカール公爵は、私の夫です。……彼に対する無礼は、私に対する無礼と見なします。今すぐ、立ち去りなさい」
冷徹な声。王女としての、偽りの威厳。
男たちの顔が、驚愕から絶望へと変わる。
「……嘘だ。姫様、貴女まであの裏切り者に毒されたのですか!?」
「そんな……我々を、見捨てるのですか!」
恨みがましい言葉が私を刺す。レオは私を見つめたまま、一言も発しない。
ただ、彼の左手が、再び激しく震え出しているのが見えた。
「……行け」
レオが、地を這うような声で言った。
「これ以上私の妻を惑わせるなら、次はその首を門に飾ることになる。……消えろ、亡霊ども」
帝国軍の守備隊が動き出し、残党たちは呪詛の言葉を吐きながら退散していった。
嵐が去った後のような沈黙。
レオは私に一度も視線を戻すことなく、邸の中へと消えていった。
私は崩れ落ちるようにバルコニーの床に膝をついた。
守った。レオを、守ってしまった。
私を絶望に突き落としたはずの男を、同胞を切り捨ててまで。
「……お嬢様、あんなこと言っちゃって。もう後戻りはできませんよ?」
背後でロザリンが呆れたように言った。
わかっている。
けれど、あの石を投げられた時のレオの瞳が、あまりに虚無に満ちていて。
――私は、彼が死ぬのを、ただ見ていることなんてできない。
その夜、レオの部屋から、何かが壊れる激しい音が響いた。
駆けつけた私の目に飛び込んできたのは、血を流す拳を壁に叩きつけ、獣のように蹲るレオの姿だった。
「なぜだ……エララ……。なぜ、私を庇った……!」
彼の腕の痣が、今までになく赤黒く光を放っている。
そしてその輝きに導かれるように、私の「灰色の瞳」に、かつて失ったはずの不吉な情景が、一瞬だけ蘇った。
(……予言が、戻ったの?)
見えたのは、レオが私の剣で、自らの心臓を貫く未来。
「嫌……。そんなこと、させない」
私は彼に駆け寄り、その血まみれの体を、迷わず抱きしめた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
同胞を拒絶し、ついにレオの「共犯者」としての道を歩み始めたエララ。
しかし、彼女の目に映ったのは、あまりにも残酷な「未来の断片」でした。
レオを救うために国を捨てたはずの彼女が、今度は彼自身の死を止めるために立ち上がります。
不器用すぎるレオの絶望と、覚醒し始めたエララの力。
物語はここから、さらに加速していきます。
次話、第5話「覚醒の銀、死神の誓い」
ついに二人の「過去の約束」が一つ、明らかになります。
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皆様の熱量が、エララとレオの運命を変える力になります!




