第3話:沈黙の晩餐と、暴かれた痣
朝の光の中に残っていた微かな甘さは、日が沈むとともに、冷え切った静寂に塗り潰された。
邸の食堂。十人は座れるであろう長大なテーブルの両端に、私とレオは向かい合って座っている。
銀の食器が触れ合うかすかな音だけが、高い天井に反響しては消えていく。
「……お口に合いませんか」
レオが、表情一つ変えずに口を開いた。
彼の前には、ほとんど手つかずのジビエ料理が置かれている。昨夜、私の部屋で見たあの悲痛な表情は、今や厚い氷の仮面の下に完全に隠されていた。
「いえ。……あまりに贅沢すぎて、毒が入っているのではないかと疑っているだけです」
皮肉を込めて返すと、レオは不敵に口角を上げた。
「毒など、まどろっこしい真似はしない。……貴様を殺したければ、その細い首を絞めるだけで十分だ」
その言葉とは裏腹に、彼の視線が私の手元――琥珀の指輪へ向けられる。
昨夜、彼が唇を寄せた場所。
指先が急に熱を帯びた。レオはすぐに視線を逸らし、ワイングラスを手に取る。
(……やはり、貴方は何かを隠している)
私は、ロザリンから渡されたナイフを握り直した。
この男は、私を「買った」と言った。絶望の中で生きろと言った。
ならば、なぜ私の好きな香草を並べ、かつての呼び名で私を呼んだのか。
「閣下、左手が」
給仕をしていた従者が、焦ったように声を上げた。
レオが持っていたグラスが、カチカチと音を立てて震えている。昨夜見たものよりも、ずっと激しい震えだ。
「……下がっていろと言ったはずだ」
レオの声には、隠しきれない苦悶が混じっていた。
彼は震える左手を隠すようにテーブルの下に下げようとしたが、その瞬間、グラスが指から滑り落ちた。
赤い液体が白いテーブルクロスに広がり、まるで不吉な血溜まりのように見える。
私は反射的に立ち上がり、彼の元へ駆け寄っていた。
「レオ!」
「……来るな! 触れるなと言っている!」
彼の怒声が響く。だが、私は止まらなかった。
今、目の前で苦しんでいるのは、冷酷な公爵ではない。私の知っている、かつての騎士レオだ。
私は強引に、彼の左手首を掴み上げた。
「離せ、エララ……貴様に何が……っ」
レオが言葉を失う。
掴んだ私の指先から、猛烈な熱が流れ込んできた。琥珀の指輪が、これまでにないほど赤く、脈打つように発光している。
そして、捲れ上がった彼の袖の下に、それを見てしまった。
「……何、これ」
彼の手首から肘にかけて、黒い血管が浮き出たような、不気味な痣が這い回っていた。
それはまるで、生き物のように彼の実を蝕んでいるように見える。
痣の形は、どこか見覚えがあった。……レトラ王家の紋章に似た、いびつな円環。
「これが、貴方が国を売って手に入れた『勲章』なのですか?」
私が問うと、レオは顔を青白くさせ、乱暴に私の手を振り払った。
同時に、彼の震えが止まる。
彼は荒い息をつきながら、忌々しげに袖を引き下ろした。
「……見てはならないものを見たな」
レオの瞳に、初めて明確な「殺意」に似た鋭さが宿った。
だが、その奥にあるのは、怯えだ。自分自身の体が変質していくことへの、拭いきれない恐怖。
「貴方は、病んでいるの? それとも、何かの呪いを受けているの?」
「……黙れ」
彼は立ち上がり、椅子の背を強く握った。
その握力で木材が悲鳴を上げる。
「これは、私が背負うべき『代償』だ。……貴様には関係のないことだ」
「関係ないはずがありません! 貴方は私を、公爵夫人としてこの館に縛り付けた。ならば、夫の秘密を知る権利があるはずです」
レオは、冷笑を浮かべた。
だが、その唇は僅かに震えている。
「権利、か。……ならば、教えてやろう。この痣が心臓まで届けば、私は死ぬ。……そして、その時が来るまで、私は貴様を絶対に離さない」
彼は私を射抜くような視線を向けると、そのまま食堂を後にした。
去り際、彼が歩く足取りは、どこか不自然に重く、引き摺っているようにも見えた。
一人残された食堂。
指輪の熱は引かず、私の指先にはまだ、彼の皮膚の下で蠢いていたあの「呪い」の感触が残っている。
(レオ、貴方は何を……何を代償にして、私を救ったの?)
指輪の輝きが、私の灰色の瞳を虚しく照らしていた。
食堂の影から、ロザリンが複雑な表情でこちらを見ていたことに、私はまだ気づいていなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
ついにレオの腕に刻まれた「呪い」の断片が明らかになりました。
国を裏切ってまで彼が手にしたものは、栄華ではなく、命を削るような黒い痣。
そして、エララの指輪がその苦痛に呼応しているという事実……。
少しずつ、パズルのピースが埋まり始めます。
ロザリンのあの視線の意味とは?
次話、第4話「招かれざる残党と、騎士の誇り」
邸の外からの脅威が、二人の危うい関係をさらに揺さぶります。
「レオの秘密が気になる!」「エララ、頑張って!」と思ってくださった方は、
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