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膨らむ誤解4





 彼の名前を口にした途端、鼻の奥がツンとなった。

 そのあとの出来事を、誤解がないように丁寧に伝えていく。もちろん、楠さんが悪いように思われないよう、無知だった自分を強く主張した。

 意外にも、沖田さんは黙って話を聞いてくれた。全てを話終えても、先ほどみたいな意地悪な事は言ってこなかった。


「だから、私が、悪いんです……」


 最後にもう一度そう言ったあと、なんだか少し、気持ちが軽くなった気がした。


「楠くんとは、本当に何でもないって事?」


 いつの間にか、その口調はいつも通りのそれに戻っていた。


「本当に何でもないです」

「この事誰かに話した?」

「いえ、沖田さんが初めてです」

「どうしてもっと早く言わなかったの?」

「……恥ずかしくて、言えませんでした」

「恥ずかしかったんじゃなくて、怖かったんじゃないの?」


 途端に涙が溢れた。

 口にしたくてもできなかった一言を事も無げに言ってしまうものだから、何かがぷつりと切れてしまった。

 本当は、怖かった——

 嗚咽が止まらない。

 両手で顔を覆っているものだから、沖田さんが今どんな顔をしているのか分からない。

 今の私には、遠慮ができるほどの余裕などなかった。

 一人でこっそり泣いた日、こんなにも涙が出るほど辛い事はないと思った。だけど今は、それ以上に涙が止まらなかった。

 少しして、雨音に負けないくらいのため息が聞こえたかと思うと、私の肩を掴んで自分の方へと引き寄せた。


「君って本当に——馬鹿だよね」


 言葉通りの意味なのだろうけれど、私にはそれが、そのままの意味ではないように聞こえた。馬鹿と言いながらもその声はとても優しく、慰めてくれているのだと感じた。そして今、ようやく私の言葉を信じてくれたと思った。

 しばらくの間、何を言うでもなく私にずっと付き合ってくれた。

 ひとしきり泣いたあと、沖田さんの胸に頬を付けたままゆっくりと呼吸を整える。


「だいぶ落ち着いた?」


 小さく頷くと、二の腕を掴んで体を離した。


「僕、女の子がこんなにも泣いてる姿初めて見た」

「すみません、私……」

「そうじゃなくて。同じ屋根の下にいるのに、全然気付いてあげられなくてごめんね」


 予想外の一言に驚いてしまった。まさか、沖田さんの口からそんな事が聞けるとは夢にも思っていなかった。


「楠くんにはそれきり何もされてない?」


 眉を下げてそんな事を聞くものだから、この際、全てを話そうと思った。


「あの……」


 胸に手を当て、大きく一呼吸する。そして、一言一言を確認するように言葉を繋げていく。

 その間も、ただ黙って話を聞いてくれた。

 途中、ようやく落ち着いてくれた涙が再びこぼれそうになったけれど、ぐっと奥歯を噛みしめて堪えた。沖田さんの何か言いたげな顔に、たまらなくなる。


「そっか……」


 ただ一言そう言うと、建物に背中をもたれさせた。


「あの、さっきも言いましたけど、この事は誰にも言わないで下さい。お願いします」


 沖田さんに向かって頭を下げる。すると、考え事をしているような横顔で、「ああ」とだけ返ってきた。

 私も同じように背中をもたれさせ、相変わらず降り続いている雨の中に視線を向けた。

 雨音に耳を傾けながら、ぼんやりとする頭で気持ちを整理する。

 楠さんとの事を忘れるのは難しいけれど、いつかきっと過去になるはずだ。ずっと立ち止まったままでいるよりも、前に進んだ方がいいに決まってる。


「……沖田さん」


 隣を見上げて呼ぶと、顔だけをこちらに向けた。


「最近はずっと忙しいんですか?」

「別に、特別忙しいってわけでもないよ。どうしてそんな事聞くの?」

「普段もそうですけど、食事の時にもあまり顔を見なかったので」


 本当に聞きたい事は、もちろん別にある。


「たまたま時間が合わなかっただけじゃない?」

「そう、ですか……」


 そう言われてしまえば、その通りかもしれない。


「何?」

「あ、いえ、何でもないです。あの、そろそろ屯所に戻りませんか?」

「そうだね。君の顔もましになってきたしね」

「え?」

「真っ赤な目のままじゃ、僕が泣かせたって思われるでしょ」


 冗談だと分かる言い方に、思わず笑ってしまった。もしかすると、すぐに戻ろうと言わなかったのは、私に気を遣ってくれていたからなのかもしれない。

 沖田さんが番傘を広げた。先ほどとは打って変わり、今は穏やかな空気が流れている。

 子猫に目を向けると、ぐっすりと眠っているようだった。

 自然と肩を寄せ合い歩き出す。

 ゆっくりとした歩調。歩く速度を合わせてくれるのは、やっぱり沖田さんだけだ。久しぶりのこの感覚に、頬が緩みそうになる。

 屯所までのわずかの間(あいだ)、言葉はなくても、一緒にいられるだけで嬉しかった。





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