重ならない想い3
楠さんの手が頬に触れ、きゅっと肩が上がる。刹那、唇が重なった。
一瞬何が起こったのか分からなかった。
目を伏せ何も言わない彼をじっと見つめたまま、我慢できずに涙が頬を伝っていく。
少しして、すっと息を吸い、私を見るなり目を見開いている。
「くれはさん……すみません、僕……」
何度も何度も謝るけれど、 今の私には彼の言葉は入ってこなかった。
楠さんの手をふりほどいて勢いよく立ち上がる。ここから逃げ出したい一心で走り出すけれど、裾が突っ張ってうまく足が前に出せない。背後から聞こえる足音に、簡単につかまってしまった。
「くれはさん待って下さい!」
力強くつかまれた二の腕が痛い。
「本当にすみませんでした。いきなりあんな——でも僕、本気です」
渋々といった感じではあるけれど、ようやく手を離してくれた。 薄暗い路地を、ひたすらに走る。こんなにも遠かったのかと思うほど、その真っ直ぐな道は永遠と続いているように感じた。
高辻通りを超えた辺りで一度後ろを振り返った。楠さんの姿はなかった。
通りの脇に寄り、濡れた頬を両手で拭う。
力なく歩きながら、壬生寺の前まで来ると自然と門をくぐっていた。誰もいない事を確認し、久しぶりに、あの日、自分の倒れていた場所に立ってみる。今ほど強く現代に戻りたいと思ったのは、初めてかもしれない。また、涙が溢れた。
遠くの山々を見るともなく眺めていると、以前沖田さんに言われた事を思い出した。
「誰でも彼でもいい顔してると、勘違いされるよ」、そのさじ加減は、ものすごく難しい。
「君がそんなつもりじゃなくても、相手はそうは思わない事もあるんじゃない?」
本当にその通りだ——
あの時、沖田さんの言葉をもっとちゃんと受け止めていれば良かった。
ため息が、遠くの山にこだまして聞こえる気がした。
思い返せばここで初めて楠さんとゆっくり話をした時、私に好意を持ってくれているような事を言われたのだった。けれどその時は、恥ずかしくて曖昧な返事をしただけで終わった。もちろんそれきりで、そのあとは普段通りだった。だから忘れていた。肝心な事を、今の今まで忘れていた。
「くれは?」
突然聞きなれた声に呼ばれた。振り返ろうとわずかに肩を動かしたところで思いとどまった。さすがに今は、顔を合わせられない。
「くれはだろ?」
その声の人は、次第にこちらに近付いてくる。
「は、原田さん? あの、今ちょっと動けなくて……」
砂利を蹴る足音が背中で止まったかと思うと、それはそのまま私の前に回り込んできた。
言うまでもなく、驚いた顔をしている。けれどすぐに、すっと目を細めた。
「この前巡察に出かけた時にな、祇園にあるきんつば屋の娘に恋文をもらったんだが、俺、その子の事をよく知らないんだよ」
「え?」
急な話に頭が付いていかない。
「恋文は、その子の知り合いから渡されて、それで、良かったら店に来てほしいって書いてあってな、無視するのも悪いし、これからその店に行こうと思ってたんだけど、くれはも一緒に来てくれないか?」
「はあ……でも、私が一緒だと、その方は困るんじゃないんですか?」
「いいじゃねぇかよ。な?」
「まあ、原田さんがいいなら私は別に」
そう言うと、歯を見せて笑った。
並んで壬生寺の門をくぐる。
「でも、どうしてここへ? 祇園へ行くなら逆方向ですよね」
何の気なしに思ったままを口にした。
「ん、お前の事探してた」
「私に何か?」
「いや、本当に一緒に行ってもらおうと思って探してたんだよ。屯所にいなかったから、壬生寺にいるんじゃないかと思ってな」
「そうだったんですね」
原田さんの気まぐれが、うまく理解できなかった。
屯所の前を通り過ぎ、大きな口を開けて笑う子供たちとすれ違う。
大通りに出てすぐ、見知った顔に挨拶をする原田さんを見て、とりあえずと頭を下げる。
遠くの空には、なんだか怪しげな雲が広がっていた。
不意に、何も違和感を感じない事に、逆に違和感を感じた。
よくよく考えてみれば、こうして原田さんと出歩くのは初めての事だった。それなのに、斉藤さんと一緒に出かけた時に感じた緊張感のようなものがない。人柄なのはそうだけれど、だからと言って斎藤さんを悪く言うつもりはない。
原田さんの持つ空気感はまるで友達といるようで、だからつい、楠さんの事を話してしまった。
「ええ!? 本当かよ?」
「は、はい。でも、なんと言っていいのか分からなくて、そのまま逃げてきてしまいました」
さすがにキスをされた事は言えなかった。もちろん、お茶屋さんでの事もだ。告白された事だけを簡単に話すと、腕を組み、考えるようにして前を向いた。
「言いにくいって言うのはよく分かる。でも、好きなら好き、好きじゃないならはっきりそう言ってやんないと、相手も困るだろ」




