重ならない想い
夕食は、母親に教えてもらったじゃがいもの煮っころがしにした。昔から私が好きで、よく作ってくれていたものだ。ここに来てからは、週に一度は夕食の時に作っている。
初めて作った日に、近藤さんを始め、皆さんとても気に入ってくれた。
いつもの事だけれど、夕食の時間にはほとんど全員が顔を合わす。今日は、その中に楠さんの顔もあった。何事もなかったかのように、部屋の一番隅の席につき、それを横目に私一人だけが落ち着かない。戻ってきた時からそうだけれど、普段通りすぎるほど昨日と何も変わらない。
配膳が終わり広間を見回すと、沖田さんの姿がなかった。あれからまだ戻ってきていないのだろうか。
沖田さんの分のじゃがいもの煮っころがしは、ご飯と一緒にお盆に乗せて台所の分かりやすい場所に置いておいた。
外を見ると、雨は弱まってきたものの、乾いた音を立てて降り続いている。
夕食の後片付けを終え、部屋に戻るなり大きく息をついた。畳の上に寝転び、薄暗い天井を見上げる。そうしながら、気付けば沖田さんの事ばかり考えていた。けれど次第に、関心は例の女性へと変わっていく。
出来る事なら、あの日見た二人の姿を記憶から消してしまいたい。
目に見えない何かに挟まれて身動きの取れない状況に、自分でそうしているにも関わらず、抜け出す方法が分かっていないのだからどうしようもない。
それに、楠さんの事もある——
彼には私が誘ったと言われたけれど、もちろんそんなつもりなど一切なかった。この時代で言うお茶屋さんは、現代で言うところのラブホテルのような場所なのだろう。しかもあの時、厭らしい意味はなかったとしても、着物を脱いだ方がいいとまで言った。あの場所でそんな事を言われたら、勘違いしない方がおかしい。
また、ため息が出た。
いずれにしても、あの時の楠さんは本気だった。本気で私が誘ったと思い、そういった行為に及ぼうとしていた。
自己嫌悪から、涙がこぼれた。
首に手を添える。ちくりと痛んだその箇所を、指でなぞってみる。触っただけではそこがどうなっているのか分からないけれど、聞き覚えでこれがどういったものなのかくらいは分かる。
起き上がり、化粧ポーチからコンパクトを取り出し、窓の近くに寄る。そして、見たくはないそれを、鏡越しに見つけた。唇を、きゅっと噛む。
小さな赤いそれは、間違いなく私のそこにあった。
着物の襟をぐっと寄せてみるけれど、不自然な上に全く隠れない。試行錯誤しながら、なんとか自然に見えるよう、いつもは上の方で束ねている髪の毛を、片側に寄せて下の方で結んだ。
気にしているから余計に目立って見えるのかもしれない。もう一度、そこに手を添える。
涙が止まらなかった。
こんな時、誰に助けを求めればいいのだろうか。もしもこの事を近藤さんに相談でもしたなら、楠さんはここにはいられなくなるかもしれない。
大切な事の優先順位が難しい。
自分の事なのか、他人の事なのか、今の私には決められなかった——
翌朝、台所に置いておいた沖田さんの分の夕食は、前日に私が置いたままそこに残っていた。沖田さんとは、今朝もまだ顔を合わせていない。
少し前、平助くんに相談していた不安な気持ちが、再びお腹の底あたりから沸き上がってくるような感覚を覚えた。
「くれはさん」
久しぶりの晴れ間に、重なり合うほどの洗濯物を干していると、柔らかい声で名前を呼ばれた。背伸びをしたまま振り返ると、そこには楠さんが立っていた。
「お、お疲れさまです……」
分かりやすく動揺してしまった。
「お疲れさまです。もう終わりましたか?」
口調がいつも通りすぎて、頭が混乱する。かといってよそよそしくされるのも、それはそれで同じくらい困りそうだ。できるだけ、彼の調子に合わせる事にした。
「あとは、そこにある分だけなので、もうすぐ終わりますよ」
洗濯物を干しながら答えた。
「じゃあ、それが終わったら散歩でもしませんか?」
反射的に聞き返しそうになり、背中越しに一旦感情を押し殺す。
言葉の意味は分かるけれど、理由が分からない。楠さんの中では、昨日の事はなかった事になっているのだろうか。
今、ものすごくほしいのは、断る理由だった。
「何か他にも頼まれてるんですか?」




