強がり、嫉妬4
「お気遣いありがとうございます」
数件先を左へ曲がり、さらに数件越えたところで、促されるようにその店に入った。すると、入口に立っていた店主の方が、どうぞと手振りを付けて頭を下げた。
先に上がった楠さんのあとに付いて行くと、一つの部屋に通された。
後ろ手に襖を閉めながら、部屋の中をぐるりと見回す。がらんとしたそこに、私たちが入ったのとほぼ同時にお茶が運ばれてきた。それを受け取り、部屋の真ん中辺りに置いた。
「楠さん、本当に寒くないですか?」
「大丈夫ですよ」
お盆の前に座り、湯呑みにお茶を注いだ。
「お茶を飲む間だけでも、着物を脱いでおいたらどうですか?」
「えっ、と……」
「ああ、いえ! そのままだと寒いと思ったので。あの、私の事なら気にしないで下さい!」
早口にそう言うと、ふっと笑って私に背中を向けた。
窓を開け、帯をほどくと着物の裾を窓の外に出して絞っている。
「私、何か羽織る物を借りてきましょうか?」
「いや、大丈夫ですよ」
窓に背中を向けると、着物の裾を後ろに払い、帯は締めずに簡単に襟を合わせて座った。
「どうぞ」
言いながら差し出した湯呑みを受け取ると、そろそろと口に運んでいる。
「温かくて美味しいですね」
一口飲むと、じんわりと体に染みる。思ったよりも、自分の体が冷えていた事に気付かされた。
「くれはさん……」
呼ばれて顔を向けるけれど、彼はあぐらを組んだ足元を見つめている。
「楠さん?」
黙ったまま、持っていた湯呑みをお盆の上に置くなり、腕を掴まれた。驚いて彼の顔をじっと見つめる。すると、ゆっくりとした動きではあるけれど、私の方へ体を寄せてきた。
「楠さん、どうしたんですか?」
「……どうって、どういう意味ですか?」
わけが分からないと言った顔を向けるものだから、自分の質問が間違っていたのかと考えていると、そっと肩を押され、背中が畳にぶつかった。
「え……」
この状況を理解できず、目で訴えるけれど、楠さんは黙ったままだ。
「あの……」
着物の擦れる音がしたかと思うと、彼の手が、私の脚に触れた——その瞬間、楠さんの目の色が変わった。それは、初めて見る顔だった。普段見るそれとは、似ても似つかない。
急に彼が怖くなった。
膝からふとももへと、その手を滑らせた。
「……いやっ」
ようやく出た言葉は、今にも消えてしまいそうなほどか細いものだった。
彼の胸を押し返すと、その手を掴まれ畳に押さえ付けられた。
「この状況で、嫌ってどういう事ですか?」
「え……」
「僕の事、からかってるんですか?」
真剣な眼差しが、余計に混乱する。
「……そうなんですか?」
色んな感情がいっしょくたになったような、そんな顔をしている。
「私……」
何をどう言えばいいのか分からなかった。それに、途中から彼とは何かが噛み合っていない気がした。
「誘ったのは、あなたです」
言うなり顔を近付けるものだから、何をしようとしているのかをすぐに察し、思い切り顔を逸らした。一瞬動きが止まったものの、そのまま私の首元に顔を埋め、そこに唇を押し当てられた。何度も、何度も。
いよいよ本当に怖くなり、どうにか抵抗するのだけれど、組伏せられたままでのこの体勢では全く身動きがとれないでいた。
声を上げる事もできず、代わりに涙が込み上げてくる。ただ、泣いてしまうとこの状況を受け入れた事になりそうで、唇をぎゅっと噛んだ。けれど、耳に彼の唇が触れた途端、とうとう我慢できなくなり、まばたきをした瞬間に涙がこぼれてしまった。すると彼は、伝う涙を丁寧に指で拭ってくれた。
一瞬見えた優しさに、勘違いしそうになる。
薄く笑うと、襟に手をかけるなり大きく横にずらした。
「やめて……」
声にならない声で抵抗する。
そのあとは、必死だった。
彼の下から抜け出そうと身をよじり、掴まれた両腕に力を込める。すると、首筋に小さな痛みが走り、体がビクッとなる。
彼が、のろのろと体を起こした。とは言え変わらずに私の上にいる。そこで分かりやすく一呼吸つくと、ゆっくりと口を開いた。
「僕では、だめですか?」
薄く開いたままの唇が、微かに震えている。
うまく答えられないのは、彼が悪い人ではない事を知っているからだ。だからと言って、この状況を笑って許せるほど大人ではない。けれど、屯所に戻れば嫌でも顔を合わせる。それを考えると、言葉に困った。
「あの、とりあえずここからどけてもらえませんか?」
ものすごく、遠慮がちに言った。すると、渋々と言った感じではあるけれど、体をずらして私の足の方へ腰を下ろした。
片膝を立て、背中を丸めている。
重たい空気と、どうしようもない沈黙が続く。
部屋の中にまで届く雨音が、ここへ来る前よりも強まっているように感じた。
「どうしてですか?」
雨音に消されてしまいそうなほど、彼の声は気力のないものだった。
「どういう、意味ですか?」
「どういうって。あなたが誘ってきたんでしょ?」
その口調からは、どの感情で言っているのかすぐに分かった。
「すみません。あの、私、楠さんが言ってる意味が分からないんですけど……」
「それ、本気で言ってるんですか?」
戸惑いながらも、ゆっくりと頷いた。
すると彼は、目を見開き、そのあとすぐに決まりが悪そうな顔をした。言葉を選んでいるのか、考えるようなそぶりを見せると、私に向き直った。
「ここは、そういう場所です」
言葉こそ少ないものの、彼の言うそういう場所がどういう場所なのか、ようやく理解した。知らなかったとは言え、自分の浅はかな言動に後悔するしかなかった。
「すみませんでした。私、知らなくて……」
頭を下げ、同時に、着物の袖をぎゅっと掴んだ。
「そろそろ戻りますか? これ以上ここにいても仕方ないですから」
淡々とそう言うなり立ち上がると、部屋の隅に置いていたかごを今度は彼が持ってくれた。遠慮の言葉も見つからず、そのままあとに続いて部屋を出た。
暖簾をくぐると、雨は相変わらず降り続いている。一本の番傘に、来た時と同じように肩を寄せ合った。
始めこそ、ぽつりぽつりと会話はあったけれど、次第とそれもなくなった。
傘にぶつかる雨音が、今は余計と耳に障る。次第に重くなるその音に、耳を塞ぎたくて仕方なかった——
屯所の門をくぐり、玄関先で立ち止まる。
「僕はこれを台所に置いてきますから、くれはさんは濡れた着物を着替えてきて下さい」
その口調はすでに普段のそれだった。唖然とまでは言わないけれど、そう言って微笑むから、あの部屋での事が嘘のように思える。
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
足元はびしょ濡れで、着物はずっしりと重たい。それは、彼も同じ事だ。けれど、気遣う言葉が出てこなかった。
部屋に戻り、濡れている着物に手をかける。新しい着物に袖を通した時、襖が開くのが分かった。
「沖田さん?」
呼びかけると、「ああ」と短い返事が返ってきた。




