変化4
柔らかく笑ったその人を見て、あっと名前を思い出した。
「楠さんは、今日はお休みですか?」
「ん、まあ、そんなとこかな」
「そうなんですね。それじゃあ私はもう少し掃除が残っていますので」
失礼しますと言って軽く頭を下げ、桶を持って立ち去ろうとすると、すれ違いざまに腕をつかまれた。
「あの、このあとも何か予定が入ってますか?」
斜め上に見る彼は、どこか楽しそうな顔をしている。
「えっと、今日は久しぶりに壬生寺に行く予定です」
「そう。じゃあ、先に行ってますね」
そう言うと、私が口を開くよりも先に踵を返し、足早に行ってしまった。
立ち尽くしたまま、楠さんの言った言葉の意味を考えてみたけれど、どう考えても私の事を待っていると言う意味だろう。
勝手に決めたのは彼だけれど、待たせるのも悪いと思い、残りの掃除を手際良く済ませてから壬生寺へと向かった。
屯所から壬生寺までは目と鼻の先だ。
歩いて数分とかからない距離を、整えた着物を崩さないよう気を付けながら早足で歩いて行く。右手に正面の門が見えてくると、何やら賑やかな声が聞こえてきた。その声に引き寄せられるように門をくぐると、近所の子供たちなのか、数人がそこにいた。
その中には、大きな口を開けて笑っている楠さんの姿もあった。普段見る事のない彼の姿を見て、声をかける事を戸惑ってしまった。もちろん、悪い意味のそれではない。
どうしようかと二の足を踏んでいると、彼が私に気付いて片手を上げた。それからすぐ、その場にしゃがむなり子供たちに何かを話している。その内容までは聞こえないけれど、子供たちは手を振りどこかへ行ってしまった。それを見送り、私に向かって手招きをすから、ほとんど自然に彼の元へと向かっていた。
「早かったんですね」
言いながら、乱れた着物を直している。
「はい、もうほとんど終わっていましたから」
「そうだったんですか。いつもありがとうございます」
「そんな、大した事ではないですから。気にしないで下さい」
「そこ、座りませんか?」
彼に促されるままに、本堂の隅に並んで腰を下ろした。ここからは、壬生寺の門が正面に見える。
改めて境内をぐるりと見回すけれど、これと言って特別何かを感じる事はなかった。
「くれはさん」
「はい」
「そう言えばさっき、久しぶりにここへ来ると言っていましたけど、ここへは何をしに?」
「ああ、えっと……」
何を、と言われ返答に困った。
私の事情を知るのは近藤さんを始め、一部の人間だけだからだ。
「息抜きですか?」
「まあ、そんなところです」
その答えは、今となればあながち間違いではなかった。
「そうですよね。くれはさんだってたまには一人でゆっくりしたいですよね」
大人びた気遣いに惑わされるけれど、歳は私よりも三つほど下だ。
「楠さんはここへはよく来られるんですか?」
「よくってほどじゃないですけど、来ればさっきみたいに子供たちと遊んだりしてます」
「子供が好きなんですね」
「はい。でも、正確には僕が遊んでもらってるようなものですけどね」
そう言っていたずらっぽく笑うから、その幼さにほっとした。
「楠さんの息抜きは、子供たちと遊ぶ事なんなんですね」
「まあ、確かに。遠からずってとこですかね」
「子供たち帰ってしまいましたけど、私、邪魔ではなかったですか?」
「そんな、気にしないで下さい。僕が帰るように言ったんです」
「え? そうなんですか」
「……その、くれはさんと、ゆっくり話がしたかったから」
照れくさそうにそう言うと、あからさまに頬を赤く染めている。
「話、ですか?」
確認するように聞き返すと、遠慮がちに頷いた。
「くれはさんが来てから屯所の中が以前よりも明るくなりました。やっぱり、女の人はいるだけで全然違います」
私には大げさに聞こえるけれど、本人は至ってまじめに言ってくれている。
何と返せばいいのか分からず、とりあえずのお礼を言った。
「僕は、近藤さんや他の皆さんの考えや志に共感し、厳しい事も辛い事も覚悟の上で入隊しました」
楠さんの顔は、真剣そのものだった。
「ただ——」
そこで一呼吸ついてから、再び話を続けた。
「くれはさんの事を思うと、胸が苦しくなって、不思議な気持ちになるんです。だから、稽古の最中、不意に心が乱れると言うか……」
彼の言うそれの正体にすぐに気が付いたけれど、私の口からは言えるはずもなく、曖昧な相づちを打つ事しかできなかった。
「——お、お休みの日は、ここへ来る以外は何をされてるんですか?」
どうにか話題を変えようと、当たり障りのない質問をした。すると、斜め上辺りに視線を泳がせながら小さく唸った。




