変化3
「くれは、遠慮しなくてもいいんだぞ」
得意気に顎を突き出し、見てくれと言わんばかりに仁王立ちをしている。目のやり場に困り、思わず後退りをした。
「あ、あの。私、またあとで来ますね」
そう言って立ち去ろうとすると、大きな手がそれを制した。
「ちょっと待てって! 俺はもう上がるから、くれはもゆっくり入ればいいよ」
手早く浴衣の帯を締めながらそう言うと、手ぬぐいを首にかけて、「お先っ」と片手を上げた。返事も忘れ、彼の背中を見送る。
「さすが永倉さん……」
思わず独り言が出るのは、彼の余韻がある意味独特なものだからだ。もちろん、決して悪い意味ではない。
後の二番組組長、永倉新八。新選組の中で一、二を争うほどの剣の腕前だと言われている。斉藤さんと同様に、大正時代まで生きた彼の文献は、他の隊士の方よりも数多く残っているけれど、その中でも、きっとテストには出ないであろうあだ名だけははっきりと覚えている。生活を共にする中で、本当に我武者羅と言う言葉がぴったりの人だと思う。
——がむしん……
口の中で呟いてから、笑ってしまった。
もちろん本人に向かって言った事はないけれど、機会があるのなら呼んでみたい気もする。その時、笑わずにいられるかどうかは自信がない。
肩までしっかりとお湯に浸かり、浴槽の縁に頭を乗せる。
自然と出る心地いい吐息に、身体中がほぐれていくのが分かる。
脱衣場を出てからも、あれやこれやが頭を過り、思い出し笑いを噛み殺していた。だから、部屋の前の縁側に沖田さんが腰を掛けている事に、声をかけられるまで気が付かなかった。
「良い事でもあったの?」
後ろに伸ばした両手にもたれるようにしている。
「え、いえ、何も……」
まさか思い出し笑いをしていましたとも言えず、適当にごまかして部屋の襖に手をかけた。
「ねぇ、君も座ったら?」
自分の隣を顎でしゃくった。
「え?」
「今夜は月が綺麗だよ」
言われて空を見上げると、まん丸な月が出ていた。
「本当ですね。それじゃあ、少しだけ」
彼の隣に腰を下ろし、浴衣を整えてから両膝を抱えた。
「君は相変わらず面白いね」
言ってから、ふっと笑った。
嫌みっぽくも聞こえるけれど、決してそうではないことが分かるそれだ。
「な、何が面白いんですか?」
聞くけれど、目を細めるだけで答えてはくれなかった。
思い返してみると、前にも同じような事を言われた事があった。確かその時も、理由を教えてはくれなかった。
「沖田さんはよく月を眺めたりするんですか?」
「ん、まあね」
「素敵な時間ですね」
そう言うと、穏やかな表情をした。
ここには、空に浮かぶ月を邪魔する灯りは何一つない。
「なんだか掴めそうですね」
言うなり月に向かって無意識に手を伸ばしていた。
当たり前だけれど、その手は宙をさ迷うだけだった。
「あ、沖田さん知ってます? ここから月までの距離」
不意に思い出し、得意になって言った。
「月までの距離?」
言葉を繰り返しながら、不思議そうに首を傾げている。
「はい」
「何それ、考えた事もなかった」
笑いを含んだ口調は、どちらかと言うと興味をもってくれているようだ。
「確かここから、三十八万キロ先です」
「それってどれくらいなの?」
「えっと、一キロを歩くのが十五分くらいとして、それの三十八万倍だから……いや、そもそも一キロをこの時代の距離で表すとどれくらいなんだろう……」
分かりやすく説明しようと考えるけれど、余計にややこしくなる。
「とにかくものすごく遠いって事でしょ?」
ある意味それが一番的確な答えのような気がした。
「そう、ですね」
「ここからの距離がどれくらいなのかは分からないけどさ、月は月でいいんじゃない? そういった知識も持ってるに越した事はないけど、誰と一緒に見るかって事の方が、僕には大事かな」
確かにそうだと思った。と同時に、大きなくしゃみが出た。すると、隣でくすっと笑うのが分かった。
「そろそろ中に戻ろうか」
「……はい」
昨日の夜、本当はもう少し沖田さんと一緒に月を眺めていたかった。縁側で、彼の隣で時間を共有するだけで心が癒された。欲を言えば、もっとたくさん話をしたかったけれど、彼の優しい気遣いにそんな事は言えなかった。それに、沖田さんが言った訳ではないけれど、一人の時間を邪魔してしまったのではないかと少しだけ不安に思った。欲張りな気持ちと、不安な気持ちがごちゃ混ぜになる——
「ご苦労様です」
急に声をかけられて体がビクッとなる。
「ごめん、驚かすつもりじゃなかったんだけど……」
しゃがんだままで顔だけを上げると、あの日からずっと名前を思い出せない隊士の方が立っていた。
「あ、いえ。お疲れ様です」
「掃除中ですか?」
「そうです」
桶の中の雑巾を絞り、それを片手に立ち上がる。
「この縁側、全部拭いてるんですか?」
「はい」
「大変じゃないですか?」
「いえ、体を動かすのは好きなので、全く問題ないですよ」




