五月晴れ、恋
意識的に鯉のぼりを眺めたのは、たぶん、小学生の頃が最後だったと思う。この時代の鯉のぼりは、現代で目にするような色鮮やかなものではなく、真っ黒な真鯉が一匹描かれているだけのものだ。子供の健やかな成長を願う、という意味は現代と変わらないものの、時代背景なのか、近所の誰よりも立派な鯉のぼりを上げる、といった見栄の張り合いがあったとかなかったとか——
先日、沖田さんとの他愛ない会話の中で、もうすぐ土方さんの誕生日である事を思い出し、そのままを口にすると、沖田さんは関心なさそうに聞き流していたけれど、できれば何かプレゼントをしたいと思った。ただ、現代であればネットショッピングや百貨店、ショピングモールにでも行けば間違いなく見つかりそうなものだけれど、この時代にそんな便利なものはない。それに、渡すとすれば何が妥当な物なのかも検討がつかない。しばらくは一人で悩んでいたけれど、夕食後、井戸の側で後片付けをしてくれている斉藤さんを見つけ、こっそりと相談する事にした。
「斉藤さん。後片付けありがとうございます」
お礼を言うと、丁度終わった所なのか、すっと立ち上がり、濡れた手を手ぬぐいで拭いている。
「いや、構わない。そっちは終わったのか?」
「はい、終わりました」
「そうか」
そう言うと、足早に立ち去ろうとするものだから、考えるよりも先に斉藤さんの着物の袖を掴んでいた。
「あの……」
私の行動に驚いた顔をしたけれど、すぐにいつもの斉藤さんに戻った。
「どうした?」
「ちょっと相談があるんですけど、お時間大丈夫ですか?」
なんとなく、小声になった。
「ああ」
短い返事のあと、腕を組み、私に向き直った。
周りに誰もいない事を確認し、斉藤さんの方に少しだけ距離を詰めた。
「あの、もうすぐ土方さんの誕生日なのですが、いつもお世話になっていますし、いい機会なので何か贈り物をしたいと考えていて、それで、何かいい案があればと思いまして……」
その質問に、斉藤さんは意外と言った顔した。けれど、視線を上へ向け、何やら考えてくれているようだった。
数秒の間のあと、再び私に視線を戻した。
「手ぬぐいは、どうだろうか? 先日、そろそろ替え時だな、などと話をしていたところだ」
「そうなんですね、じゃあ、手ぬぐいにします」
「そうか、役に立てて良かった」
「こちらこそ、ありがとうございます。それと、ついでにもうひとついいですか?」
図々しいとは思いながらも、遠慮がちに見上げる。すると、表情だけで続きを促した。
「斉藤さんが良かったらなんですけど、手ぬぐいのお店に連れて行ってもらえませんか?」
話ながら語尾が消えそうになる。
「いいだろう。明日の午後からではどうだ?」
「はい、お願いします」
すぐにでも行きたい気持ちがあったので、申し分ない提案に、逆に驚いてしまった。
「外出の事は、俺から土方さんに話しておく。もちろん、今話した事は黙っておくから安心しろ」
「ありがとうございます。斉藤さんに相談にして良かったです」
「ついでに、俺の用事にも付き合ってもらうが構わないだろうか。時間は取らせない」
「はい、もちろんです」
「それでは明日、部屋に迎えに行く」
「分かりました」
私が返事をすると、目を細めて柔らかく微笑んでくれた。こんなに優しい顔の斉藤さんを見たのは、たぶん、初めてだ。
——久しぶりの外出はもちろん、久しぶりの買い物に、今日は朝から胸が弾んでいた。それも、分かりやすいほどに。
いつもより早く目が覚めたけれど、そこにはすでに沖田さんの姿はなかった。
そっと部屋を出て井戸へ向かう。顔を洗い、そのまま台所へ入った。
何でもそうだけれど、一番乗りは気持ちがいい。こんな日は、自然と手際も良くなるものだ。
「おはよう」
元気なその声は、背中越しでもすぐに誰だか分かった。
「藤堂さんおはようございます」
言ってから振り返る。
「今日はいつもより早いんだな」
私の隣に立ち、すでに出来上がっている味噌汁の味見をしている。
「はい、なんだか早くに目が覚めてしまって」
斉藤さんと出かける事は、なんとなく言わずにおいた。
「やっぱりくれはの作る味噌汁は最高だな!」
歯を見せて笑う藤堂さんに、お礼を言った。
「なあ——」
今度は漬け物をつまんでいる。
「その藤堂さんって呼び方、そろそろやめない?」
「え、どう言う事ですか?」
「だってさ、俺らほとんど歳変わんないだろ?」
「確かに、そうですけど」
「くれはも俺の事下の名前で呼べよ」
「でも……」
返事に困っていると、私の肩に手を置いた。
「いいからいいから。みんなも平助って呼ぶし、それに、藤堂さんて呼ばれるの慣れてないから変な感じなんだよ」
首を縦に振れないでいると、「頼むな」といつもの笑顔で言われた。
「それじゃあ、平助くん、でもいいですか?」
「お、上出来!」
歯を見せてそう言うと、出来上がった料理の配膳を手伝ってくれた。
今回に限らずだけれど、藤堂さん、改め平助くんは、他の隊士の方たちよりずっと話しやすい。歳が近いというのもあるのかもしれないけれど、平助くんの明るい性格に助けられている部分は間違いなくたくさんある。
いい意味で、遠慮せずに接してくれる事が本当にありがたい。
朝食が終わり、後片付けや洗濯を終え、部屋に戻ろうと庭を離れたところで斉藤さんに呼び止められた。
「おい」
始めからそうだけれど、斉藤さんにはまだ、名前を呼ばれた事がない。それでも、私を呼ぶ時のそれは、今ではすぐに気付けるようになった。
「斉藤さん」
「もう仕事は終わったのか?」
「はい、今終わったところです」
「そうか。それでは、部屋に向かえに行くと言ったが、先に表で待っている」
「分かりました。すぐに行きますね」
斉藤さんと別れ、急いで沖田さんの部屋に戻る。
沖田さんは、朝から巡察に出かけている。
たすき掛けの紐をほどき、着物をきちんと直す。
手鏡を覗き、それなりに髪の毛も整え、ずっと使っていなかったピンク色のリップを薄く塗った。久しぶりのそれは、さらに気持ちを高ぶらせてくれる。
「斉藤さん、お待たせしました」
そう言うと、半身だけ振り返り、私を確認するとすぐ、前に向き直った。
「行くぞ」と言うなり、歩き出す斉藤さんの後ろに付いて行く。
しばらくは、この相変わらずな町並みを、左右に首を動かしながら見ていたけれど、次第に斉藤さんの歩幅に合わせる事に疲れてきた。
——歩くの早いな……
思っていても、言えなかった。
周りに目をやる余裕すらなくなり、ただひたすらに斉藤さんの背中を追いかける事に必死だった。




