過去へ13
こんなに心地の良い沈黙は初めてかもしれない。ましてや男性と二人きりでのそれは、経験がないだけに不思議な感覚だった。
普段あまり見る事のない素顔の沖田さんは、優しくて、穏やかで——巡察に出かける前の人物とはまるで別人だ。
細い髪の毛が指の間をすり抜ける感触に、私まで癒される。
川のせせらぎ、草木の揺れる音、橋の上を往来する人たちの足音、女性同士の楽しそうなお喋りに、店の主人の活気ある声。この時代の日常の音に耳を傾ける。誰もが、今を一生懸命に生きている。そう思うと、自分の悩みなどちっぽけに思えた。
しばらくの間、何をするでもなくただぼんやりとしていると、寝息が聞こえ始めた。視線を落とし、手を止める。
「寝ちゃった……」
気持ち良さそうな寝顔を見ていると、その無防備な姿に自然と頬が緩む。
この時代では、男は男らしく、女は女らしくが当たり前で、小さな子供以外、男性に対して可愛らしいなどと言った言葉を向ける事はない。そんな事を言えば、きっと嫌な顔をされるだけだ。だけど、この寝顔を見て、可愛い以外に言い表しようがない。
再び、細い髪の毛をすくようにして頭を撫でながら、先ほど言われた「君なら歓迎するよ」と言う言葉通り、遠慮なく寝顔を見つめた。
次第に喧騒から意識が遠退き、彼の寝息に聞き入っていた。そうしていると、小さなあくびがひとつ出た。この時間が、穏やかすぎるほど穏やかなものだから、ここがどこで、彼らが誰なのか、一瞬でも忘れてしまいそうになる。
すると突然、沖田さんの手が伸びてきて、私のそれに重なった。手を止め、どうしたのかと様子を伺う。
彼は、目を閉じたままだった。
「……沖田さん?」
名前を呼ぶけれど、返事はなかった。代わりに、重ねた手を優しく握られた。
そこでようやく、穏やかな気持ちから一変、急に緊張感に包まれる。私の手を握るだけではなく、ゆっくりと指を絡めた。小指と薬指の間で、彼の人差し指が柔々と動きだす。くすぐったいような、恥ずかしいような、なんだかとてもふわふわとした気持ちになる。
「ねぇ——」
沖田さんは、目を閉じたままだ。
「こうしててもいい?」
「え、はい……」
今さらと思いながらも、その言葉は寸前で飲み込んだ。
「君の手、思ったより華奢なんだね」
言うなりくすっと笑った。
「当たり前か」
独り言のように呟き、再び口を閉じた。
対岸の垂れ柳に目を移す。それは、ここへ来た時からずっと眠そうに揺れている。
——どれくらいそこにいたのだろうか。当たり前だけれど、時計のような時間の分かる物はここにはない。太陽だけが、今がいつなのかを知っている。
不意に、握っている手をぎゅっとされ、沖田さんに視線を落とした。
「そろそろ戻ろうか」
眩しそうに片目だけで私を見上げている。
「は、はい」
こんなに近くで見つめられ、胸の奥がきゅっとなる。
「ん?」
「いえ、なんでもないです」
「本当はまだここにいたいんだけどね」
「私も、です……」
素直に答えたつもりが、言葉に詰まってしまった。そんな私の心情を知ってか知らずか、沖田さんは柔らかく笑った。
「君の上、寝心地いいから」
追い討ちをかけるみたいにさらりとそんな事を言うものだから、自分でも分かるほど頬が熱くなる。
私から離れてのろのろ起き上がると、大きく伸びをしている。
来た道を、来た時と同じように彼の後ろに付いて歩く。だけど、今の方がほんの少しだけ沖田さんとの距離が近付いている気がした。
四条通りを真っ直ぐに歩き進む。目立った会話はないけれど、居心地が悪いとは思わなかった。
坊城通りに入り、屯所が見えたところで沖田さんが足を止めて私に向き直った。
「さっきも言ったけど、無理はせずに、君らしくいればいいんだから」
言葉もそうだけれど、少しだけ丸めた背中に優しさを感じた。その瞬間、確かな何かが、私の中に芽生えた気がした。




