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第70話:重なる背中と、溶けゆく氷

 五年前の『死の心臓』。

 赤黒く淀んだ空の下で、ガレスの絶望が生み出した無数の魔族の幻影を、アッシュたちは血と汗に塗れながら押し返していた。


「オラァッ!! ベリンダ、右が空いてるぞ!」

「分かってるわよ! モルドレッド、前に出すぎないで!」

「うるせェ! 俺の血雷で全部まとめて消し炭にしてやる!」


 美しい陣形など何もない。悪態をつき、泥を跳ね上げ、互いの死角を強引にカバーし合う不格好な乱戦。

 だが、彼らは決して背中を抜かせなかった。五年前、本物のガウェインとボールスがたった二人で背負い、そして力尽きたこの絶望の荒野で、彼らは確かに『生きて』押し返しているのだ。


「……ありえない」


 空中に浮かぶガレスは、震える声で呟いた。

 彼女が注ぎ込んだ莫大な魔力によって、幻影の魔族たちは際限なく湧き続けている。しかし、あの泥だらけの偽物たちは、一歩も後ろに下がらない。


「兄様が……あんなにも気高く、強かった兄様が越えられなかった絶望を……なぜ、あんな無様な連中が……っ!」


 ガレスの心が、限界を迎えていた。

 『兄様は完璧だった』という彼女の五年間の絶対的な信仰が、眼下で泥に塗れて暴れる偽物たちの熱気によって、根底から激しく揺さぶられている。


 その心の乱れが、魔術のコントロールを決定的に狂わせた。


 『――グォォォォォォォォッ!!』


 突如、神殿のシステムがガレスの制御を離れ、暴走を始めた。

 魔族の幻影たちが一斉に赤黒いオーラを放ち、その凶悪な殺意の矛先を、泥まみれの彼らから『空中の一点』へと向けたのだ。


「……え?」


 ガレスがハッと息を呑む。

 見下ろすと、数十匹の巨大なガーゴイルとオークの幻影が、術者である自分自身を敵と認識し、一斉に飛びかかってきていた。


「ガレス卿!!」

 地上からエレンが叫ぶ。

 魔力を使い果たし、心も千々に乱れていたガレスに、それを迎撃する力は残っていなかった。


 (……ああ。ここで、終わるのですね)


 無数の氷の槍と、丸太のような棍棒が、四方八方から自分に迫る。

 ガレスは抵抗を諦め、そっと目を閉じた。

 これでいい。これでやっと、大好きな兄様のところへ行ける。そう思った、その時だった。


「――寝ぼけてんじゃねえぞ、雪虫(クソガキ)!!」


 ドォォォォォォォォォォンッ!!!!!


 鼓膜を破るような、極限の排熱の轟音。

 ガレスがゆっくりと目を開けると、そこにあったのは、凄まじい熱風を放つ、分厚く、泥臭い背中だった。


「……な、ぜ……」


 アッシュが、自らの体を盾にして、ガレスに迫っていた数十の凶刃をすべて受け止めていた。

 真紅の戦闘外套はボロボロに引き裂かれ、肩や背中から大量の血が噴き出している。だが、右腕の黒陽シリンダーを限界まで赤熱させた彼の一撃は、ガレスを狙った幻影たちを、文字通り一瞬で蒸発させていた。


「……チッ。クソ痛ぇ……」

 アッシュは血を吐きながら、ガレスを庇うように立ち塞がったまま、ゆっくりと振り返った。


「妹なんだろ。なら……バカみたいに突っ立ってないで、大人しく兄貴の背中に隠れてろ」


 ガサツで、ぶっきらぼうで、柄の悪い笑み。

 それは、彼女の記憶にある高貴で美しい太陽の騎士の微笑みとは、全く違うものだったはずだ。

 なのに。


 『――泣くな、ガレス。ここは俺に任せて、お前はみんなを連れて先に逃げな!』


 五年前の、あの日。

 自分を逃がすために盾となり、安心させるように笑って見せた、あの温かい背中。

 泥だらけの偽物のシルエットが、ガレスの中で、世界で一番大好きな『兄の背中』と完全に重なり合った。


「……あ、あぁ……っ」


 ガレスの両手から、ポロリと白銀の双剣が滑り落ちた。

 五年間、誰の言葉も届かず、ただ一人で兄の死という絶望に凍りついていた少女の瞳から、大粒の涙が溢れ出す。


「……兄様、兄様ぁ……っ!!」


 ガレスが、子供のように声を上げて泣き崩れた。

 その瞬間。

 暴走していた『死の心臓』の絶望の幻影が、ガラスが割れるようにパァァンッと音を立てて砕け散り、光の粒子となって消えていく。


 ガレスの時を止めていた絶望の氷が、アッシュの不器用な熱によって、完全に溶かされたのだ。


 幻影が晴れ、元の中腹の氷の神殿へと景色が戻る。

 静寂を取り戻した氷の結界の中で、血まみれのアッシュは「……やれやれだぜ」と短く息を吐き、静かに大剣を雪の床に突き立てた。

第67話、お読みいただきありがとうございます。

遅い時間に更新してしまい、ごめんなさい!

ストックがつきてしまいました!

ですが、力の限り更新を継続していきますので引き続き応援していただけると嬉しいです!!


少しでも『面白い』『続きが気になる』と思っていただけましたら、ぜひページ下部よりブックマークや星での評価をよろしくお願いいたします! 執筆の大きな励みになります。

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