第36話:鉄の寝台と、銀の従騎士の吐露
「痛ッ……! おいエレン、もう少し優しく消毒できねえのか! 傷口が燃えるように染みるぞ!」
「……大魔将の斧を真正面から受けて、内臓が破裂しなかっただけマシと思いなさい。それに、少しは痛い思いをしないと、貴様はまた無茶をするでしょう」
荒野を進む移動要塞『ガウェインの鉄靴』。
その奥深くにある、油の匂いが染み付いた薄暗い医務室で、アッシュは分厚い鉄の寝台の上に上半身裸で寝かされていた。
大魔将との死闘を終えた彼の体は、文字通り満身創痍だ。全身に巻かれた包帯には生々しい血が滲み、新しくなった黒陽の右腕だけが、熱を持ったまま鈍く重たい存在感を放っている。
エレンは、ランタンの暖かくも頼りないオレンジ色の光の下で、アッシュの傷口に薬草のペーストを塗り込んでいた。
普段は一切の乱れもない彼女の白銀の軽鎧は汚れ、几帳面に結い上げられた銀糸の髪も、今は疲労でハラリと頬にかかっている。
その繊細で細い線画のような横顔には、いつもの「胃痛に耐える険しい表情」ではなく、どこかひどく脆く、思い詰めたような影が落ちていた。
ふと。エレンは、薬草を塗る手をピタリと止め、うつむいた。
ランタンの光が、彼女の長い睫毛に色濃い影を落とす。
「……ごめんなさい」
静かな、消え入るような声だった。
アッシュは少しだけ目を丸くし、寝台から上半身を起こそうとしたが、「動かないで」とエレンの細い手で肩を押さえられた。
「あの方の死を隠蔽し、人類の希望を繋ぐため……最初は、それしか方法がないと思ったわ。でも、ただの村人だった貴様に、あの『大魔将』のような本物の化け物と殺し合いをさせるなんて。……私の我儘で、貴様に、こんな地獄を歩ませて良かったのだろうか」
アッシュの肩を押さえるエレンの指先が、微かに震えていた。
王都の息苦しい謀略から逃れるために旧大陸へ向かったが、ここはそれ以上に過酷な、命の保証などどこにもない絶対の死地だ。
本物の太陽が残した因縁。それを全て、この泥だらけの偽物に背負わせてしまっている。その圧倒的な罪悪感が、彼女の強固な防壁を内側から溶かしていた。
「……なんだ、そんなことかよ」
アッシュは、骨が軋む痛みを堪えて体を無理やり起こし、ベッドの縁に腰掛けた。
そして、煤で汚れた大きな手で、エレンの震える頭をポン、と無造作に撫でた。
「なッ……ちょっと、汚い手で私の髪を……!」
「お前なぁ。俺が『ただの村人』に見えるか? 今の俺は、火の粉を撒き散らして、あの大魔将を退けた『最高にやかましい泥犬』だぜ」
アッシュは、包帯だらけの体で、獰猛に、しかしひどく優しく笑った。
「確かに最初は、処刑されるのが怖くてハッタリかましてただけだ。……でもな、お前が毎日胃に穴を開けそうになりながら、俺を『英雄』に仕立て上げようと必死に足掻いてるのを見てたら……俺だけ逃げ出すわけにはいかねえだろ」
「アッシュ……」
「それに、俺はあのガラスの大地で決めたんだ。誰に言われなくたって、俺自身の意志で、あの太陽の残した『本物の光』の高みまで登り詰めてやるってな。……だから、お前が謝る必要なんか、どこにもねえんだよ」
アッシュは、鈍く黒光りする右腕を見つめ、静かに排熱弁を開いた。
プシュゥゥゥ……。
極めて小さく、精密に制御された暖かい蒸気が、ランタンの光に溶けていく。
それは全てを焼き尽くす暴力的な熱波ではなく、凍える夜に寄り添う『暖炉の火』のような、温かな熱だった。
「あの光には、まだ遠く及ばねえ。でも……俺のこの泥臭い火の粉で、お前の歩く道くらいは照らしてやるよ、エレン」
その、不器用で真っ直ぐな言葉。
薄暗い鉄の部屋で、ざらついた重厚な包帯の男と、繊細な銀の少女の間に、静かで確かな熱が共有された瞬間だった。
エレンは、少しの間だけ目を伏せ、やがて顔を上げた。
その瞳の奥には、涙を堪えたような潤みと、いつもの気高く美しい光が戻っていた。
「……本当に、馬鹿ね。ただの偽物のくせに、いっぱしの騎士のような口を叩いて」
エレンはフイッと顔を背け、立ち上がった。
だが、その口元には、アッシュには見えないように、柔らかく、ひどく美しい微笑みが浮かんでいた。
「傷の手当ては終わりよ。少しでも熱が出たら、すぐに私を呼びなさい。……死なれたら、私が困るのだから」
「へいへい。了解だ、鬼の従騎士殿」
ランプの火が、静かに揺れる。
絶望的な旧大陸の最深部――【死の心臓】へと向かう果てしない旅路の中で。
いびつな共犯者だった二人は、互いの背中を預け合う『真の相棒』として、その静かな夜を越えていく。
……はずだった。
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