夜
一日目。
犯人探しをする過程で、ちょっとしたお化け屋敷気分を味わった子供たちは、あまり学校に長居せず、早々に家へ帰った。
二日目。
叶が習い事で参加できないという事情はあったものの、他の子供たちはおおよそ楽しんでから学校を後にした。
三日目。
その日は雨が降っていた。朝から降り続いた雨は未だ止む気配を見せず、成海の持つ傘にもポツポツと弱い雨が打ちつけている。
学校から少し離れた街灯の下で、成海は他の四人を待っていた。真上からスポットライトを浴びるような形で、足元には傘の色が透けて赤みがかった影が落ちる。
雨のお陰か、いつもならうるさい羽音も今はしない。雨の音だけが続く。
両親たちには天体観測をすると伝えているのに、この雨の中で家を出るのは大変だった。
とりあえず観測に使った機材を片付けるため、と言っておいたが、次はないだろう。おそらくこれが最後になる。
雨足がポツポツからザーッと強まり始めた。成海がもっと遅い時間に来れば良かったと思い始めた頃、遠くの街灯に目立つ色合いをした傘がいくつか見えた。
傘を差しているのは三人で、一人は成海と同じ色の、より濃い赤色の傘。もう一人は街灯の明かりに紛れるような色をした黄色の傘。そこにもう一人、二人を導くように緑色の傘が見える。
成海は普段から一緒に登下校する関係で、濃い赤色の傘が遥、黄色が叶ということはわかった。だが、勇ましく先陣を切る緑色の傘は見たことがなかった。
なので、三人が近づいてきたときに緑色の傘の下に目を凝らすと、そこには見知った顔があった。というか、ついさっき家を出るときにも顔を合わせた人物だった。
三人が雨音を差し引いても声の届く距離まで来ると、緑色の傘を持った啓が成海に声をかけた。
「姉ちゃん、今日はよろしくな」
その言葉を受けて、成海は弟に言葉を返すよりも先に友人二人に『何でケイがいるの?』という目配せをする。
それを感じて、遥はなぜか胸を張り、叶は困った顔で視線を地面にズラした。
遥では客観的な事実はわからないと感じ取った成海は、申し訳なさを覚えつつも叶に話を振る。
「あの、何でケイがいるの?」
困惑した顔の成海に聞かれた叶は、こうなった経緯を頭の中で組み上げているのか、一瞬視線を泳がせた後、たどたどしく成海に説明した。
曰く、叶と遥の二人で集合場所に向かっていたら、道中でばったり啓に出くわしたらしい。
それで、その子が成海の弟であることを知っていた二人が啓に話しかけると、どうにも姉の後をつけて夜の学校へ行くところだった、と。
成海は叶の説明を受けて、改めて啓に対峙する。こうなってしまってはいろいろと聞かないといけないだろう。
「それで、ケイはお父さんとお母さんに学校へ行くことは言ったの?」
それが、直近の問題だった。成海よりも幼い啓が夜中に外出することを両親は許したのだろうか。
啓は姉を不安にさせていることや心配させていることには気づかず、元気な声で
「うん。母ちゃんには姉ちゃんと一緒のことやってくるって言った」
と、簡潔に答えた。それを受けた成海は明白に表情を崩すことはしなかったものの、長年の友人二人にはわかる程度に顔を曇らせた。
というのも、姉として、年長者として啓を守らなければならないことは、成海も頭でわかっている。
だが、肌感覚では啓が母を狙い撃ちにして外出許可を得たことは用意に想像でき、その意識か無意識かわからない打算に、成海はわずかな苛立ちを覚える。
成海は姉として、年長者として、その不満を口にすることはない。
もう少し時間が立てば、聡い彼女は弟が悪いのではなく、両親の不平等、ひいては誰も悪くないことにも気づくだろう。
とにかく、今は時間が必要だった。
そんな成海のわずかな感情の濁りを察した遥は努めて明るく話し始める。
「あ、そう言えば、昨日二年生の子から気になる話を聞いたんだけど、聞きたい人ー!」
「はいはい、オレ聞きたい」
啓が一目散に新鮮なネタに食いつく。それで、成海に向いていた啓の視線も遥に移る。それなりに長い期間を過ごした友人ならではの気遣いだった。
それに成海も気づいて、表情を整える。彼女はどちらかと言えば、顔色を変えるのが得意な方だ。
叶も成海に気遣うような視線を向けている。
二人が見ていないとは言え、変な空気にはしたくなかった。叶にはわかるように、声は出さずに口の動きで『大丈夫』と伝える。
その言葉の真贋を確かめるようにジッーと見ていた叶は、自分で見たものに納得したのか、控えめな笑顔を残して、成海ではなく、二人の話に加わる。
イレギュラーな四人での待ち合わせは、遥の噂話を中心に時間が進んでいった。
本来はいないはずの啓を含めた四人が待ち合わせ場所で時間を潰していると、遠くの街灯に夜闇に溶け込むような真っ黒な傘と、これまた街灯の明かりに照らされなければ見えづらい紺色の傘が見えた。
二つの傘たちが四人に近づいて合流すると、黒い傘が太一、紺色の傘が征馬だった。
二人と啓が話しているところをそこまで見たことがない成海は、内心ドキドキしていたが、それは杞憂だったようで、軽い事情説明の後、彼らは意気投合したように談笑していた。
そして、本来待ち合わせていた全員が揃ったことで、いつもの五人に啓を加えた六人は目的地である夜の学校を目指す。
六人の集まっていた街灯からほど近い、いつも通っている小学校は山裾にポツリと建っている。そこを目指して小学生たちは雨の中を進む。
田んぼのあぜ道に据えられた街灯を何本か通り過ぎると、学校が見えてきた。
そこには重苦しい空気を纏った夜の学校が口を開けていた。
昼ならば、子どもたちを温かく迎える校舎も、人がいなければ、空虚でそこに呑み込まれる誰かを待っているようだった。
六人は雨の中で足を止め、少し高いところにある校舎を見つめる。
常とは違う雨の夜ということもあって、皆の口数は少ない。それでも、自分たちで立てた計画のために、学校へ至る最後の坂を全員で上っていく。
ポツポツから強まり続け、もはやザーザーと盆をひっくり返したような強さになり始めた雨の後押しもあって、六人は戸惑うことなく、昇降口へ雪崩れ込んだ。
征馬が懐からジャラジャラとした学校の鍵を取り出し、学校の玄関を開ける。
啓の「速く、速く! 濡れちゃうよ!」という野次がありながらもその手つきは正確だった。
最後の一人が入口を潜って、ガラス張りのドアが閉められる。
普段なら不断に使われたガラスから朝日が差す昇降口にも、夜の闇と外の音を隔絶するような分厚いヴェールのような沈黙が降りる。
雨が打ちつける外と静まり返った校舎の中はまるで別世界だった。
各々傘に掛かった雨を払うと、一番近くにあった来賓用の傘立てに傘を収める。
ここで、『自分のクラスの番号が書かれた傘立てに傘を入れましょう』と声をかける教師は、今はいない。
全員の状態が落ち着いたところで、太一が全体に呼びかけた。
「よしっ! 皆、準備できたみたいだし、明かりつけるか」
そう言って、太一は背負っていた小ぶりなバックから武骨な赤い懐中電灯を二本取り出した。
そして、これまでならば、一本を成海に渡すところを、代わりに啓に手渡した。
「これで一緒に学校の中、探そうな」
そう言って、不気味な気配が蔓延る校舎の中をぐるりと照らした。
成海の横に立っていた啓はそれを見て、自分もやって見たくなったのか、早速辺りを照らしている。
学校の雰囲気に押され気味で、それとなく成海の近くに身を寄せていたのが嘘みたいだ。
それを見て、成海は太一の方を見る。
そうなることも折り込み済みだったのか、太一がウインクで『いいってことよ』と伝えてきた。
成海も少し太一に近づいてから啓に聞こえないよう小声で「ありがとう」と言った。
その様を約一名、彼女の親友がにんまりと邪な目で見ていたりもしたが、それもまたご愛嬌《あいきょう》。
恋に明るくない彼女はそういった視線にすら鈍感だったので、気づかず自然とスルーしていた。
「それじゃあ、行くか」
一連のやり取りを静かに見守っていた征馬が声をかける。二つのスポットライトがまだ見えない闇の先を照らした。
六人は来賓用の入口に靴を並べ、靴を入れた下駄箱から各々のスリッパを取り出し、足を通す。
校内を散策する用意が整ったところで、まずは肝心の下駄箱で上履きがなくなっていないかを確認する。
懐中電灯は二本あるので、一年生の下駄箱から見ていくのを啓、成海、叶の三人が。
今いる来賓、教師用の下駄箱、次に六年生の下駄箱から見ていくのを太一、征馬、遥の三人が担当した。
こういうときには女子同士、男子同士で固まりそうなものだが、今回は懐中電灯を持っているのが啓と太一ということで、男子二人に混じっても遜色なく話すことのできる遥が、啓の元に居てあげたい成海や緊張しいの叶の代わりに合流した。
最初こそいざ始まるという緊迫感で口数の少なかった両者も、これまでと同じように各下駄箱を見て回り、あのときより異常がないことを確認すると、談笑し合う余裕ができた。
当たり前のことではあるが、普段滅多に起こらないからこそ、異常は異常なのである。
そんなこんなで四年生の下駄箱で合流し、そこも異常がないことを確認すると、一団は各学年の教室を見て回ることにした。
ここではグループを分けるということはせずに、教室の異常、何かが不自然に失くなっていたりしていないかを探していく。
一同は啓を先頭、太一を殿として全ての教室をつなぐ廊下を歩く。
スリッパの床を擦るような音に木造校舎の軋む音が混じるが、窓を打ちつける雨の音もそれなりに大きく、音に驚く者はいなかった。
いや、驚いているわけではないが、音がする度に鋭敏な感覚でもってその方向に目を向けている者もいた。叶である。
先頭にいる啓の一歩後ろで叶と横並びに歩いていた成海も、その目線につられて一緒に見るような形になっていた。
しかし、毎度音がしたところを見るだけで特に不可思議なことは起こらない。
成海も薄々『見ちゃうんだろうな』とは思いつつも、疑問を解消するために叶に話しかけた。
「なんか見えた?」
「……何もいないけど、つい見ちゃって」
叶が照れ隠しも込めて、成海から視線を反らす。成海も「やっぱ、そうだよねー」と叶の立場に共感する。何かがあってもなくても気になる音は気になるのだ。
そんな会話があった後、六人は昇降口から一番遠い六年生の教室まで来た。
元々いる子どもの数がそこまで多くない四手では、学年ごとに複数のクラスはなく、一学年一クラスが採用されている。
教室の扉自体は施錠されておらず、部屋の前後にある出入口から無条件で入ることができ、一同は教室の後方にある出入口ではなく、黒板や電源のある前方の出入口から中に入る。
どこの教室でも基本的な物の配置は変わらず、そのことに気づいた啓が教室の電気をつける。
パチパチといくつかのスイッチをオンにしていくと、教室が区画ごとに明るくなっていく。
真っ白というよりはもう少し温かみのある色で満たされた教室に懐中電灯は必要なかった。
啓の一連の動きを見守るように観察していた五人のうち、ここでも太一が音頭を取る。
「そしたら、全員で何か失くなってないか探すか」
そう口にして、異論のない他五人はそれぞれ教室内を調べていく。
一人が調べた場所をもう一度調べてはならないということはなく、むしろ別の誰かが調べることで見落としを減らしていく。
と、言っても大抵の場合は時間短縮のために一度調べられた場所がもう一度調べられることは少なかった。例外を除いて。
粗方教室内を調べ終わり、各々何があったかを共有する中、太一が一人でそれなりの数の机を相手に悪戦苦闘していた。
机の中身自体は既に一度、遥によって調べられているが、太一の真剣な表情からも何か事情がありそうだった。
皆が情報共有する中、遥は輪の端からチラチラと太一を見ていた。
どうにも太一が心配で見ていると言うには少々落ち着きがなく、何かを少しずつ我慢しているようだった。
そんな遥を意識の隅で捉えていた成海は、その様子に心当たりがあった。
親友とも呼べる友人の悪癖、どうしても聞きかじった噂を言いたいときのソワソワに見えた。
場所やその場にいる人員を鑑みて泣く泣く遥の噂を断ることもあるが、今は特に聞かせることに問題のある人がいるとも思えなかった。
視界の端に置いていた遥を真ん中まで持ってきて、視線を向ける。
「遥、大丈夫?」
名前を呼んだことで遥の視線が五人の集まりに戻る。
「え? 何が?」
遥は惚けているというより、直前の会話を聞くことに集中できておらず、五人の会話についての何かを聞かれたと思っている。
特に重要なことが話されていたわけではないので、そこはスルーしていく。
「太一の、取って置きのウワサあるんでしょ?」
まさか自分のソワソワしている様子を見られているとは思いもしない遥にとって、それは虚を突かれた形になった。
「そ、そんなことないよー」
これは遥の良いところなのだが、良くも悪くも噂についての嘘をつけないところが彼女の美点だった。
現に成海と話しているというのに、視線は教室の天井に向きそうなほど泳いでいる。あまりにも誤魔化しが下手だった。
成海は手間を惜しまず、丁寧に今なら噂を言っても良いんじゃないかと遥に伝えた。
それを聞いた遥は実に嬉しそうに、遠慮なく、それでも太一には聞こえないように口火を切った。
「これはね、最近聞いたウワサじゃないんだけど、太一の好きな人がね、六年生にいるらしいんだー」
何を言うのかと思えば、色恋かと成海の興味はほとんど失われた。遥の噂の中でも恋にまつわるものは成海とあまりにも距離が遠い。
だが、遥の話を聞いた他の三人は成海の立場とは違ったようで、それぞれ太一を気遣ってか、明白に太一の方を見る回数が増えている。
所謂、生暖かい視線というやつで、そうなると太一の方でも視線を無視出来なくなる。
「? なんかあったか?」
視線の多さに気づいてか、一度机の中を改める手を止めて、こちらに聞いてくる。その後の反応は様々でわかりやすい反応もあれば、なかなか巧妙な反応もあった。
その様を見て、なんとなくこうなることが予想できていた成海と遥は、互いに同じような忍び笑いを浮かべていた。
お互いを見ていることが、今笑いを堪えている自分を見ているようで、他の四人に笑っていることを気づかれないようにするのは至難の技だった。
太一の机点検はその後順調に進み、一同は六年生の教室の電気を消してから、五年生の教室へと向かった。
また、電気のスイッチがある教室の前側から入ると、今度は征馬が教室を明るくした。
教室の造りは学年によって変わることがないので、一同は慣れた手つきでなくなっているものがないか探し始める。
成海は手近なものから点検し始めたが、教室を見回すと、啓が遥の横で自分のことをやりつつも、遥から噂についての話を聞いていた。
遥は一つのことに集中する癖があるので、啓に噂を話すことで精一杯になっている。
啓の嬉しそうな様子や遥の誇らしげな表情を見て、成海は手元が疎かになっていることを指摘出来なかった。
その分、自分が動けば良いと言わんばかりに先ほどよりも素早く、でも同じ丁寧さで教室を見ていく。
その成海の働きの甲斐あってか、五年生の教室の確認は前の教室よりも早く終わった。おそらく、太一の余分な机確認を省いても、さらに早いと思われる。
六人で教室の一か所に集まり、自分では失くなっているのかいないのか判断しかねた点を挙げていく。
議題に挙がったものについては、出されたその場でそれはおかしいのかおかしくないのか決まっていく。
そこでも異常とされることは発見されず、一同はのそのそと次の教室へ移る動きを始めた。
そんな中で一人、集まりが終わってからスーッと教室の後方に渡り、掲示物が貼られた壁の上の方を見る人物がいた。
あまり目立つ動きでもなかったので、叶の不思議な行動に気づいた成海が近寄って声をかける。
「何かあった?」
声を聞き取った叶は成海と顔を合わてから、先ほどまで見ていた一点を指差す。
「あの習字、すごくキレイで前はなかったと思うんだけど……」
自信のなさを表す尻すぼみな言葉に耳を傾けつつ、成海の中では叶が前回の探索で休んでいたことが思い出されていた。
それに、叶は対面でオドオドとしていることも多いが、その観察眼はピカイチで成海も見習わなくてはならないとならないと思ったことが何度もある。
とにかく百聞は一見に如かずという考えもあって、叶が指差している方向の掲示物に目を凝らす。
すると、確かに一つだけ周りから浮いて見えるほど達筆で『光る朝日』と綴られていた。
一枚の半紙へ二行に渡って綴られたそれは一度目に入ると、それ以外の文字が目に入らないほどの異彩を放っていた。
成海は叶の『すごくキレイな習字がある』という主張は認めつつも、『前回はなかった』という点についてはその場所を見ていたのが自分ではなかったので判断出来なかった。
そこに状況を察してか、電気を消そうとしていた太一と征馬がやってくる。最初に声をかけたのは太一だった。
「何かあったか?」
気安い調子で声をかけてきた太一に、成海が件の習字を示しながら状況を説明する。
「この辺って前回おまえが見てなかったか?」
そう言って太一が話題に挙げたのは、太一の横で話を聞いていた征馬だった。
征馬は話を聞いている間に、前回の様子を思い出しておいたのか、それほど時間もかからずに答えは返ってきた。
「いや、自分の記憶が確かなら、前回はそんなものなかった」
実際に前回の調査で征馬が調べたときにそんなものはなかった。
ありきたりな漢字とひらがなの組み合わせが並ぶだけで、今目の前にあるようなある種の異様なものはなかった。
何故前回はなく、今回はあるのか。そこには絡繰があるはずだ。
「それなら、知ってるよー」
そんな話をしていた四人に遥が声をかけた。
太一たちが寄ってきたときには、教室後方の出入口付近で啓と多少の噂について話していたものの、普段から発揮されている噂に関して臭覚というか地獄耳で話を聞き、内容はわかっていた。
そんなことだけは同時に処理できる遥だが、一つだけ有益な噂を今回も知っていた。
「書いたの五年生の天野さんでしょ? それなら、普段は体調悪くて学校来れないから、家でやった課題を出したのが、叶が来られなかった回の後だったんだよ」
実に有益な情報だった。名前を聞いたときに習字の左脇に書かれた名前と一致するか確認した成海はおおよそ遥からもたらされた噂が真実であると確信していた。
というのも、小さな町の小さな学校なので、学年が違くとも大雑把な情報は成海でも知っている。
その中で、一つ上の学年に学校に来れない人がいることは知っていた。それがあそこまで達筆だとは知らなかったが、それは成海の限界ということだ。
現に、何らかの方法で遥はそのことを噂として知っていた。
遥の噂によって、懸念は解消された。物がなくなるという本筋とは少し異なることではあったものの、とにかく何らおかしなことは起きていなかったのだ。
わずかに緊張していた空気を緩ませ、六人は五年生の教室の電気を消してから、次の教室へと進む。
向かった四年生の教室は成海たち五人が普段通っている教室だ。これまでの教室と違い、勝手知ったる様子で教室に入っていく。
その気心の知れた、ある意味で落ち着いた様子を目にしている啓は、言葉にはせずとも周りにいる兄、姉の年齢にあたる五人に安心感を覚えていた。
一同はこれまでと同じような手順を踏んで教室を回り、各々が消失物や他にもおかしな点がないか探し始めた。
成海はこれまでの教室と変わらないペースで探すことで、勝手知ったる教室での探索の質を上げようとしていた。
そのうち、集中していくにつれて、だんだんと啓のことが意識の内から外れていく。
何もそれは悪いことではなく、集中が途切れた際に教室を見回すと、遥と啓が談笑していた。
あの二人で談笑となれば、十中八九噂を話しているのだが、成海としてはそれで両者の手が完全に止まることがなければ、それで良かった。
弟で変に気を回す必要がなくなり、成海の手が速まる。
それは啓以外の者たちにも言えて、普段使っている教室ということあり、これまでよりも速く調査が進んだ。
そう時間のかからないうちに四年生の教室、成海たちの教室の調査が終わった。
特に異常や共有点もなかったため、六人は流れで三年生の教室、啓が普段使っている教室へと向かった。
三年生の教室の前に立った六人の中で一人、今か今かと期待している者がいた。
それはもちろん、自分の教室をこれから調査する啓なのだが、その期待はいささか歪んでいた。
成海から見た啓は甘えたであったが、啓から見た成海は決して折れることのない光、芯のある強さを持っていた。
それを尊敬しているところもあれば、強すぎる光を恐れるように、どこか畏怖しているところもあった。
端的に言えば、啓は最後の最後に決して自分の思い通りにはならない成海を恐れていた。
そのために、おそらく本人には自覚はないが、こうして自分が主導権を握れる場では積極的に前へ出て、姉に先んじようと考えていた。
成海からすれば、良い迷惑だが、啓自身がまるっきり悪性ということもなく、それで成海自身が大した迷惑を被ったこともないので、特に手をつけていなかった。
太一がそれまでのように教室の前、普段板書用の文字が書かれる黒板がある方の扉を開ける。
「オレがつけるよ」
啓が前に出て、教室の電気をつけた。
啓が先頭にいた太一に代わって電気をつけたことに何らかの意図を感じた者もいたが、ほとんどが特別な意味を見出せなかった。
満足そうな啓を尻目に、成海は全体の進行を早めようと声をかける。
「また、この教室も調べようか」
それにほとんどが応え、何度か繰り返したように教室の各所へ散っていく。
太一と征馬は、今までが一人ずつ黙々とやっていた分、会話ができる距離で話しながら手を動かしている。
遥は叶に声をかけて、一緒にやっているし、なんとなく啓と成海が、距離は離れながらも一纏まりになって、教室に異変はないか調べていた。
成海が全体を進行したときに、啓は少し膨れ顔ではあったが、今は変なところはないかちゃんと探している。
昔ならば、面倒なことを二言、三言告げられてから行動し始めていたことを鑑みると、進歩ではあった。
そんなことを考えていた成海も啓に揚げ足取りをされないように作業を始めた。
太一と征馬の何気ない話が聞こえることもあれば、遥と叶の、と言っても大抵は遥が喋ってはいるのだが、調子の良い話が聞こえることもあった。
会話の間には雨足が強くなることもあり、何らかの音が教室を満たしていたが、その一瞬それ以外の全ての音が弱まった。
ギッコ。
それは教室の外にある廊下から、全員にとてもはっきりと聞こえた。
ギッコ。ギッコ。
それが廊下の軋む音で、何かが近づいてくる。そう感じた一同は目配せをして、迅速に隠れた。
太一と征馬が掃除用のロッカーに。
遥と啓が教卓に。
叶と成海が先生のデスクに身を隠していた。
啓と叶が直前のペアから入れ替わっているのは成海の咄嗟の判断で、いざというときに啓がすんなり聞き分けるのは、実姉の成海よりも純粋に憧憬を集めている遥なのではないかと考えたからだ。
啓への心配はあったが、遥への信用が上回っていた。
ギッコ。ギッコ。ギッコ。
パッと隠れて耳を澄ませている間も音は一定の間隔で続いている。早くも遅くもならず、廊下を渡っているのか、音量だけは徐々に大きくなっている。
成海たちの誰一人として、咄嗟に隠れてしまった理由を説明することはできなかったが、身体が頭が、その音を聞いたときには隠れるということを実行していた。
ギッコ。ギッコ。ギッコ。ギッコ。……。……。
音が止まった。教室の前で、止まった。
得体の知れない何か。神経を逆撫でするような音が聞こえなくなったことは朗報ではあったが、まず間違いなく教室の後方から入る扉の前で音がぷっつりと聞こえなくなった。
成海は一音でも聞き分けて、今の現状に生かそうとしていたが、教室の扉の方へ顔を向けていたことで、静かに震える叶の手が目に入った。
心情といくらかの打算があって、成海が叶の手を取る。それまで木目の床を虚ろに見つめていた叶の瞳が成海を捉えた。それで震えは止まった。
ギシッ、ギシッ。
致命的な音が聞こえた。
ギシッ、ギシッ。
ギシッ、ギシッ。ガタッ、バタンッ。
木が歪むような力が加えられ、横開きの扉がレールから外れて倒れた。
実際に目にすることはできないが、デスクの下から流れ込む教室のものとは違う空気がそれを想像させた。
ピッタ、ピッタ。
歩いている。近づいている。
ピッタ。ピッタ。
明らかに靴の音でも上履きの音でもなく、裸足の音。素足と廊下よりはマシな床材が触れては離れる音だった。
ピッタ。……。……。
近づいていた音が止まり、耐えきれずに再度震え出していた叶の手も震えが小刻みになる。
教室の中は明るい。
皆が皆、一斉に隠れたために電気を消す時間もなかったし、そんなことを考える余裕もなかった。
息を殺す。
辺りにはどこか窓が開いているんじゃないかと思われるような雨の香りが広がり、今いる何者かが学校の外から来たことを示していた。
いっそ覗いてしまおう。
焦れた成海の頭にそんな考えも浮かんだが、震え続ける叶の手や他にも隠れている仲間を思えば、独断することができなかった。
なんとかして正体だけでも。
そう考えながら、教室の中心へと目を向けていた成海は教室の真ん前、黒板の直ぐ前に隠れた遥たちからメッセージを受け取る。
成海たちから見て真横にある教卓からニュッと手が伸びて、グッドのサインを作った。それだけで終わらず、教室の真ん中へとその立てられた親指が何回か向けられる。
おそらくは『自分たちが行く!』ということだろう。日に焼けた腕からそれが啓のものであること、遥と何か良からぬ通じ合いがあったことは想像に難しくなかった。
大人しく止めておいた方がいいと判断した成海は数回、自由な方の腕を振り下ろすような動きで『辞めてくれ』と言ってみたが、チラリと見えた遥と啓、特に啓の瞳は爛々と輝いて、止まりそうになかった。
かくして、それは実行される。
啓と遥がほぼ同時に教卓から飛び出し、啓が何かを言おうとした。
「だっ……。っ……」
音が続かない。
『誰だ!』とでも言おうとしたのだろうか。
言葉の続きが紡がれることはなく、音にならなかった言葉がパクパクと口を過ぎるだけだった。
デスクから身を乗り出し過ぎず、二人の様子を聞いていた成海も何かがおかしいと気づいた。
身を乗り出せば、得体の知れない何かに姿を見られてしまう。だが、啓と遥が大立ち回りしてしまった今となってはそんな心配は無用だと、頭で気づく。
成海は一瞬で決断し、手を離すために叶の目を見た。
瞳には溜まった光が『行かないで』と示していたが、小声で「ごめん」と言ってから叶の手を離す。とにかく今は情報が欲しかった。
そして、成海はそれを目にする。
目にすると言っても教室の中央には何もいなかった。
いや、正確には成海の目には何も写らなかったが、教室の後ろの引戸は倒されているし、何かいることだけは確かで、成海の目にはそれが写らなかった。
残酷なことに遥や啓、ロッカーに隠れている征馬には異形の化物が見えていたが、おそらく見えてしまうために見ようとしない叶や元々見えない太一や成海の目にはその姿を捉えられなかった。
しかし、見えないために成海はその場で動くことができたし、見えてしまったために勇気を振り絞った者もいた。
バンッ。
掃除ロッカーの扉が勢いよく開かれ、太一と征馬が出てくる。それは本来見えてはいけない何かが見えてしまった征馬が勇気を振り絞った結果だった。
出てきた二人のうち、征馬は化物を見続けたことでグッタリしてしまったのか、険しい顔をしていたが、太一は違った。
下手をすると、成海以上にそこにいる何かの気配を感じ取れないのか、不敵な笑みで征馬と顔を合わせる。
そして、それが二人の間での合図になっていて、太一が手身近な椅子を選び、軽々と持ち上げてから、教室の中央へ投げつけた。
その間に、なんとか息を整えた征馬が、こちらに届くような大音声でこれからすべきことを伝える。
「ナルミはケイと逃げろ! ハルカはカナと逃げろ! 僕らが時間を稼ぐ。とにかく、ここから逃げろ!!」
その声を聞いて、成海は咄嗟に遥を見た。
ついさっきまで教室中央の何かを見てしまったせいで放心状態に陥っていたが、征馬の声を聞いたことで、何とか動けるようになっていた。
それとは逆に同じような立場の啓はまだ気圧されているのか、心ここにあらずの状態が続いていた。
ガタンッ。
太一の投げた椅子が床に転がる。
太一が投げつけた方向から、教室中央で何らかの力が加えられ、掃除ロッカーからは対面ではないはずのデスクの手前で勢いを失っていた。
成海はいずれ自分も恐怖に足を取られてしまうことを想像し、立っていたデスク付近から叶の手を取り、立たせてから教卓まで走る。
そこで叶の手を離し、代わりに啓の手を取って、遥かに伝言する。
「叶をお願い」
成海でも二人の手を引っ張っていたら、まともに走ることはできない。
それは一人を引っ張るのでも同じことではあったが、既に太一と征馬がどうなるかわからない状況でこれ以上の犠牲は、成海が耐えられなかった。
本来は遥や叶の手も引いて行きたいところをぐっと堪え、啓の手を引いて駆け出す。
教室前方の扉を開き、廊下を渡り、昇降口でスリッパを脱ぎ捨てて、走る。
後ろは振り返らない。
仲間を信じているのもあったが、何よりも信頼できる仲間を信じている自分を信じていた。
帰り道は一本。
足を回す。
砂利が刺さる。
雨が降っていても構わなかった。
前だけを見て走る。
いくつもの街灯を越え、荒くなった息も無視して、固く握った手だけを頼りに走り続ける。
ついにそれは見えた。
夜に同化した黒い屋根に真っ白な壁。
待ち望んだ我が家が見えていた。
それでも足並みは緩めない。
後ろを振り返る余裕もなかったし、太一や征馬が作ってくれた時間を一秒たりとも無駄にはできなかった。
家から、玄関の小窓から明かりが漏れている。
家を出るときには暗くなっていたから、誰かが家の中で起きている。
成海は自分で持っていた鍵を出す手間を惜しみ、力任せに玄関の扉を開こうとした。
鍵はかかっておらず、扉は成海の勢いをいくらか和らげながらも思い通りに開いた。飛び込んだ成海の視界を家の明かりが埋め尽くす。
騒がしい音が聞こえたのか、家の奥から人が出てくる。真っ先に駆けつけたのは成海たちの母だった。
心配そうな表情が成海の顔を見つけると、安堵のものに変わった。成海もそれを見て、状況を伝えようとする。母も何か話している。
しかし、成海が何かを話そうとすればするほど種々の情報がせめぎ合い、一つの言葉にならなかった。
悲鳴が聞こえた。
伝えなければならない成海にとって、その悲鳴はどこか遠くから聞こえていた。それでも、遠くから聞こえていてはいた。
成海が悲鳴の聞こえた方へ意識を向けると、先程まで安堵を浮かべていた母の表情が、怒りと苦痛と憎悪の入り雑じったものになっていた。それも成海に向けて。
理解が追いつかない。
一度、伝えることを思考の彼方に追いやって、母を捉え直すと、母が成海を見て恐れているのではなく、成海から少しずれた啓と握った手を見ていることがわかった。
母が踵を返して、成海の前から去る。
「ねえ、ケイ」
残された成海はここまで一緒に走ってきた啓に声をかける。そこでもう手を握り合う必要はないなと思い出し、手を緩める。
ボトッ。
鈍い、柔らかい音がした。
硬い床に何かが落ちた。
成海は落ちたものに目を向ける。
手が転がっていた。
実に無造作に、いつも送り迎えされる玄関に人の手首から先が転がっていた。
それは石膏でできた紛い物ではなく、かつて血が通っていた、日焼け跡のある手だった。
既知。未知。暗礁。
何かを理解した成海の意識は耐えきれず、夜の深い深い暗闇に投げ出された。
成海が憶えているその日の記憶は、そこで途切れている。
お読みくださり、ありがとうございます。
この作品が文芸【ホラー】のジャンルで日別、週別にランクイン。一時的にはなりますが月別にもランクインいたしました。
これもお読みくださる読者様のお陰です。
本当にありがとうございます。
次回の投稿は2026年11月25日になります。
最終話、というよりはエピローグという形ですので、ご興味のある方はぜひお読みください。




