上履き
翌日。
あまり夢見の良くなかった成海は、普段よりも遅い時間に登校していた。というのも、家を出る直前まで弟の面倒を見ていたからだ。
弟の啓は朝に弱い。
弱いだけならまだしも、他が弱くなる分で甘えたがひどくなる。そんな弟の服を替え、朝食を口に運び、ランドセルを背負わせるのはいつも母がやっていたことだったが、今日の成海は昨日の啓に負い目を感じていた。昨日の夕食での一件だ。
そんなこんなで、弟の世話を焼いてみた成海ではあったものの、付け焼き刃の姉業が長年の甘えたに敵うはずもなく、あっという間に母から戦力外を受けて、今に至る。
成海は日頃から早めに学校へ行くようにしているので、遅刻ということはないが、一人で登校するのはそれなりに憂鬱だった。
まだ夜の気配が残るヒンヤリとした通学路を、その辺に落ちていた小石を蹴りながら進んでいく。
辺りには、朝を告げる野鳥の歌声と少女の小石を蹴りつける音が響き、彼らの二重奏を遮るものは何もない。
一方で、何度も何度も同じ小石を蹴り続けていた成海は、すっかりそっちの方が楽しくなって、朝のことなんてスッカリ頭から抜けてた。案外、人間なんてそんなものだ。
蹴っていた小石が水田に落ち、小石を選び直すという作業を何回か繰り返した後、成海は小学校にたどり着いた。
学校の周りに建物はなく、ただ古びれた平屋の校舎がぽっかりと口を開けて、今日も生徒たちを出迎えている。
いつもより遅い時間だからか、周りを歩く生徒に成海が知っている顔はそれほど多くない。
さほど立派でもない校門を抜け、昇降口に向かうと、下駄箱が並んだ玄関口にはやけに多くの生徒が集まっていた。
皆、どこか落ち着かない様子で、しきりに何か噂し合っている。成海が聞き取れたのは、「上履きが……」とか、「最近こんなこと……」とか、そんな内容ばかりだった。
成海はその騒がしさを不思議に思いながらも、靴を上履きに履き替え、自分のクラスへ向かった。
木造平屋、一学年一クラスしかないような小学校で、四年生のクラスはすぐそこにある。
閉まっていたドアを開け、成海が「おはよー」と言いながら教室へ入ると、パラパラと朝の挨拶が返ってきた。
そんなお返しを聞きながら、成海は背負っていたランドセルを入り口すぐ近くの席に置く。そこが成海の席だった。
すると、登校のタイミングを狙ってか、今朝は会うことのできなかった成海の友人二人が机に駆け寄ってくる。
「ナルちゃん、おはよー!」
「な、ナルミちゃん、おはよーっ!」
一人は昨日も一緒に帰った噂好きの遥で、もう一人は朝の挨拶になぜか緊張している少女だった。
「二人ともおはよー。今日はいつもの時間にいなくてごめんね」
そう言って成海は朝の不在を詫びる。
「全然いいよ。それに、今日はカナちゃんからいろいろ聞けたから、それでチャラだよ!」
「またハルカちゃんはそんなこと言って……カナちゃんは大丈夫だった?」
「う、うん。大丈夫、だったよ? 私の話、ちゃんと聞いてくれるのハルカちゃんとナルミちゃんくらいだから……それに、ハルカちゃんにはいつも占いに協力してもらってるし……」
神主の娘である叶は占いが得意な少女だった。それも下手の横好きではなく、ときどき他学年から占ってほしいという少年少女が訪ねてくるぐらいには的中率も高いことで知られている。かといって、自分に都合の悪い助言を聞き入れる者は少ないが。
「手伝いなんて全然いいよ。カナちゃんの占いで私もいろいろ助かってるし」
「そ、そんなこと……」
「あるある! カナちゃんのおかげですごい助かってるんだから!」
「そ、そうなんだ……」
照れがちに遥を見つめる叶。
満足気に叶を見つめ返す遥。
二人の瞳には互いの姿しか写っておらず、その場にいる成海のことなんてまるでいないかのような時間が流れる。実に麗しい友情だった。
しかし、成海はその友情にほんの少し違和感を覚える。伏し目がちの叶は気づいていないようだが、叶を見つめ返す遥の瞳には噂をするときのようなギラつきが見えたのだ。それはどう考えても不自然で、成海はその疑問を直接当人にぶつけた。
「ハルカちゃん、ハルカちゃん。どうしてカナちゃんの占いでハルカちゃんが助かるの?」
二人の世界から戻ってきた遥が、声の聞こえた方へ振り返ると、そこには底知れない笑みを浮かべた成海が立っていた。咄嗟に不味いと思った遥だったが、沈黙の時間が長引くほどに成海からの圧が高まるのをヒシヒシと感じて、とにかく言葉を並べ立てる。
「そ、それはねー。カナちゃんの占いがよく当たるからだよー」
遥がそう答えると、その答えは成海のお眼鏡に適ったようで凄絶な笑顔は少し和らいだ。
なんとか乗り切った。遥はそんなふうに思ったが、そうは問屋が卸さなかった。
「どうして、ハルカちゃんはカナちゃんの占いに協力してるの?」
尋問は終わっていなかった。というか、こんな中途半端で終われない。
当然、時間に比例して、成海の笑顔は深まっていくが、遥には成海を止める算段がなかった。藁にもすがる思いで、隣にいた叶を見てみるものの、叶は二人の間でアタフタしていて、これに巻き込むのはあまりに忍びなかった。
「そ、それは……」
「それは?」
「か、カナちゃんから占った人の話を聞けるから!」
もう限界だった。遥は成海の圧に耐えきれず、事の真相を白状してしまった。
人は抑圧していたことから解放されると、一瞬の満足を得られるが、それは遥も例外ではなく、言うまいとしていたことを言ってしまったことで、妙に清々しい笑顔を浮かべている。
「へー、それだとカナちゃんからの話も使って、考えたウワサもあるんだね……」
成海の方も一定の結論を得たからか、少し考え込んでしまう。そうなると、困るのは叶である。友人二人が二人して己の世界に浸っているため、叶だけが取り残されてしまった形だ。
叶自身は自分がそれほど人と円滑に意志疎通できないことを知っている。それが友人相手に起こることもなんとなく知ってはいたが、いざその場面に出くわすと、思った以上に言葉がうまく出てこない。占いの結果ならば、聞かれずともスラスラと言えるのに、だ。叶はそんな自分があまり好きではなかった。
朝から混沌とした様相を見せる三人だったが、やってしまった感に浸っていた遥が一番最初に立ち直って、こんな話題を口にした。
「そ、そういえば、ナルちゃん。今日の朝の話は知ってる?」
「ううん。知らないよ」
成海は今朝の下駄箱の様子を思い出していたが、あえてそのことを口にする気はなかった。
「そっか、そっか! じゃあ、私がナルちゃんに教えてあげるよ」
そう言って遥が今朝の出来事を言おうとしたところで、まったく別のところから邪魔が入った。
「お! それ上履きの話だろ?」
横槍を入れたのは、成海たちの近くで友人と話していた少年だった。
いかにも、スポーツ好きですという格好で、通う学校がこんな辺鄙なところでなければ、きっと大モテになれただろう素質を感じさせる少年だった。
しかし、そんな彼に異を唱える者がいた。
「でも、その話は本当かどうかハッキリしないんだろ? なら、まだ話すべきじゃない」
スポーツ少年に比べると、メガネでも似合いそうな見た目をした少年で、その外見通りと言えば良いのか、的確で冷静な物言いをする少年だった。
だが、噂好きな少女の話を遮り続けるとどうなるかまでは勘定に入れていなかったらしく、もはや爆発寸前でプルプル震えている遥までは見えていない。
そんな遥を一瞥した成海はとりあえず自分が少年二人の相手をすることにした。
「えっと、タイチくんとイクマくんはハルカちゃんの話を知ってるの?」
成海の問いかけに対して、スポーツ少年の太一が答える。
「オレたちが知ってるつーよりも、たぶんこの学校の全員が知ってることだな。なんせ、何個も上履きが失くなったんだ。これで、同じ学校に通ってるやつが知らないわけがない。まあ、ナルミは別かも知れないけど」
最後に余計な一言を添えてくれたのが玉に瑕だったが、それでも成海はぐっと堪える。こんな物言いでも、太一を含めた五人はたまに集まって遊ぶ仲なのだ。それに、今はもっと情報が知りたかった。
「ハルカちゃん、もう一回さっきの話教えてくれる?」
『教える』という言葉がキラーワードだったのか、話の腰を折られて若干不貞腐れかけていた遥が息を吹き返す。
「ナルちゃんが教えてほしいなら、いくらでも! ……でも、何の話だっけ?」
成海は遥の将来が心配になった。心配になったのは、より遥の近くにいた叶も同じらしく、そっと助け船を出す。
「は、ハルカちゃん、さっきまでハルカちゃんが話そうとしてたのは、今日の朝の話だよ?」
叶からの絶妙なパスに遥は何かも思い出す。
「ハッ、そうだった! それで、ナルちゃんはまだ朝の話を知らないんだよね?」
「そうだよ」
「よし! なら、私が教えるね!」
✳
これは今日の朝のことなんだけど、私とカナちゃんがいつもみたいに朝一番で学校に着いて、教室でナルちゃんのことを待ってたら、同じクラスのナミちゃんが登校してきたの。
でも、なんかいつもより元気がなくて『どうしたの?』って聞いたら、上履きが失くなっちゃったんだって。
それで、ナミちゃんにいろいろ聞いたんだけど、昨日持って帰った上履きを忘れちゃったとかじゃなくて、今日学校に来たら上履きが失くなってたみたい、ヘンな話だよね。
それで、ナミちゃんとカナちゃんの三人で失くなった上履きを探したんだけど、下駄箱を探してるときにカナちゃんがもっとヘンなことに気づいたんだよ。
カナちゃんが言うには『同じ場所の上履きが失くなってる』って。
最初はカナちゃんが何のことを言ってるのかわからなかったんだけど、カナちゃんが言うように下駄箱を遠くから見たら、ナミちゃんのところ以外にも何ヵ所か上履きのない下駄箱があって、それもホントに全部決まった位置の上履きがないことに気づけたんだ。
それで、その決まった位置って言うのが下駄箱の上から三番目……やっぱりヘンな話だよね。
そのあと、三人で先生に上履きのことを相談したんだけど、先生が何かする前にみんなが登校して来ちゃって……それで、やっぱり上履きがないことに気づいちゃう子もいて、みんなの間に上履きは失くなるってヘンなウワサが広がっちゃったんだよ。
✳
「これが今日の朝、起きた話だよ」
遥の話が終わった。
成海は遥が話している間、遥がわからないように昨日も今日も話に出てきた同じクラスのナミちゃんの足元を確認していた。
どうにも悪い予感がしたのだ。
せめて、ナミちゃんが今も上履きを履いていてくれば、目の前で遥が語っている話は嘘だと断ずることができる。そんな思いから教室を隈なく探した成海だったが、ついぞナミちゃんの上履きは見つけることができなかった。
なぜなら、成海の見つけたナミちゃんは来客用のスリッパを履いていたからだ。上履きは確実に、そして噂通りになくなっていた。
成海の中で悪い予感が加速した。
「ナルミ、大丈夫か?」
成海が声のした方へ顔を向けると、大人しそうな見た目をした少年、征馬が心配そうな顔でこちらを見ていた。成海は自分が大丈夫であることを伝えようとしたが、うまく表情を取り繕うまで時間がかかった。
「大丈夫、大したことないよ」
「いや、大丈夫だったら、そんな顔はしないだろ?」
征馬は言葉だけでなく、洞察力まで鋭い。そんなことをすっかり忘れていた成海は、それでも言葉を返した。
「でも、大丈夫。大したことじゃないから」
「……そうか」
征馬はこれ以上深掘りするのは藪蛇だと思ったのか、呆気なく手を引く。
それ以降も上履きの話は続いたが、太一の「これ、誰か盗んだやついるよな」という言葉をきっかけに、場の流れは成海の予想しえないものになった。
結果として、成海を含めた五人は夜、誰もが寝静まった時間の学校で上履き泥棒を待ち伏せることになった。
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