噂
そこはのどかな場所だった。
夕暮れどきの涼やかな風に青々とした稲が波を描き、四方の山からは蝉の合唱が木霊する。
夏を待ちきれない蝉時雨に耳をすませば、田んぼのあぜ道にまだあどけない少女が二人。小さな身体にずっしりとした赤いランドセルを背負って、スキップでもするように青波をかき分けていく。
「うちのクラスのナミちゃん、五年生の先輩に告白されたらしいよ」
揺れる水面に言葉が広がる。まわりに人がいない通学路は、噂好きな少女にとって好都合のようで、その瞳はこのときを待っていましたと言わんばかりに輝いていた。
「へー、そうなんだ……それでオッケーしたの?」
しかし、誤算がひとつ。
「ううん。他に好きな人がいるって断ったって」
「……なんか大人だね。私なんかまだ好きな人ができたこともないのに……」
それは少女の憂いだった。さしもの噂好きな少女も隣を歩く友人の憂いまでは知りえなかったようで、横を歩く少女の顔はみるみるうちに曇っていく。
それを見た少女は自分がやってしまったことを内心で戒め、沈んだ様子の友人を慰めようと必死に言葉を考えた。
「ぜ、全然、ナルちゃんが気にすることじゃないよ!」
「でも、もう四年生だし……」
しかし、言葉は少女に届かない。
「そっ、それは……」
「それは?」
「きっと、これからなんだよ!」
苦し紛れの一言だった。
ムリがあるのは百も承知で、言った本人の口許もヒクついているが、俯いている少女の目に不自然な笑顔は映らない。
「これから、か……そうだよね、きっとこれから……だよね?」
しかし、意外にも、苦し紛れの一言が少女に届いたようだ。
「う、うん。きっとこれからだよ!」
すかさず合いの手を入れる。
「そっか、これからなんだ」
浮かない顔をしていた友人の表情に明るさが戻り、一緒に手をつないでいた少女もホッと胸を撫で下ろす。
噂好きな少女にとって恋は格好の話題だったが、友人にはまだ早かったようだと考えを改め、別の話題を切り出すことにした。
「そういえば、ナルちゃんはこんなウワサ聞いたことある?」
「もー、またハルカちゃんのウワサー?」
それは噂好きな少女の友人である成海にとって、耳が痛くなるほど聞いた台詞だった。
「まぁまぁ、そんなこと言わずにさ、ダマされたと思って聞いてみてよー!」
不利を悟った遥はダメ押しと言わんばかりに成海へ抱きつく。
抱きつかれた成海は、噂好きな遥が一度『ウワサをするぞ!』と決めてしまえば止まらないことを身をもって知っていたので、巻きついた腕にトントンと降参を伝え、話を聞くことにした。
「わかったよ。でも、こわくないやつね、この間みたいなやつはダメだよ」
遥の話を聞いた後、怖くて夜中のお手洗いにしばらく行けなくなったことは、成海だけの秘密である。
「えー、まぁ、仕方ないか」
遥は怖い噂が駄目になってしまったことに不満を覚えつつも、成海に巻きつけていた腕を離し、すごすごと引き下がる。
ようやく遥の腕から解放された成海は、不満そうにプラプラと揺れる遥の腕を見て、そっと手を差し出した。
それを見た遥が上機嫌に手を伸ばし、二人は手を繋ぎ直す。
「じゃあ、えっーとね、これは最近、学校で聞いた話なんだけど、学校に置いてある体操着とかリコーダーとかがいつの間にか失くなっちゃうんだって、それもたくさん」
「たくさん? 失くしたとかじゃないの?」
「そうそう、それでおかしいと思った子が何人かいて、先生に相談したりしても、よくわからないままで、失くしたまんまになってるみたい」
噂を口にしてどこか誇らしげな遥を尻目に、成海は噂について考える。
「ハルカちゃんはどこでその話を聞いたの?」
「職員室の近くだよ。先生に相談してる子から話を聞いたんだ」
「じゃあ、その子から聞いた話、覚えてる?」
「うん、覚えてるよ。なんか置きっぱなしにしちゃった体操着とか、リコーダーをお母さんに持って帰ってきなさいって言われて、大きい手提げ袋を持たされたのに、ロッカー見たら二つとも失くなってたんだって。あと、先生も最近みんなの失くしものが多いって言ってたよ!」
どうやら、遥はその子の話と先生の話をいい塩梅に混ぜ合わせた結果、『たくさんの体操着やリコーダーが学校で失くなっている』という噂を考えついたらしい。
そんな検討をつけた成海は『どう? すごいでしょ!』と明白なアピールを続けている遥に対して、これ見よがしに溜め息をついた。
それを見た遥は花が萎れるようにシュンとしてしまったが、そんなことではめげないのが遥のいいところである。
「じゃあ、このウワサは聞いたことある? 夜の学校のウワサなんだけど――」
この後、それは怖い話じゃないのかと疑う成海ととにかく噂を口にしたい遥の間で、ちょっとしたジャレ合いもあったが、しっかりとつないだ手は前後に揺れながらも少しずつ家路を進んでいく。
少女たちにまだ夜は早い。そう告げるように山並みに沈む夕日が、少女たちの帰り道を茜色に染め上げた。
その日の晩。
何事もなく家に帰った成海は、仕事から帰ってきた父を弟と共に出迎え、家族四人で夕食を囲んでいた。
少し大きめのダイニングテーブルに並べられた料理は、どれも母の手料理で、成海の横に座った弟はそれらを勢いよく口へ放り込んでいく。
ご飯。みそ汁。ご飯。唐揚げ。ご飯。肉じゃが。
一見すると闇雲にしか見えていなかった弟の動きも、しばらくするとメトロノームのように規則正しい動きであることがわかる。そして、ときどき口から溢れてしまったように「うまい、うまい!」と口にしている。
そんな息子の様子を笑顔で見守っているのは、その前に座る母だった。やはり、料理する人にとってよく食べる、おいしそうに食べる人というのは非常に気持ちがいいようで、終始笑顔である。
そして、母の横、成海の前に座るのが父だった。藤堂家の大黒柱である父は、寡黙というほどではないが、食事中に無理して話そうというほどお喋りでもない。
そうこうしているうちに、弟の茶碗が空になった。
「母さん、おかわり!」
「はいはい、大盛でいい?」
「うん!」
「わかった、ちょっと待っててね」
母が弟の分をよそうために席を立つと、暇になった弟は横にいる姉に話しかけた。
「姉ちゃん、またハルカ姉ちゃんのウワサ聞かせてくれよ!」
成海はまたもや聞いた噂の三文字に一瞬眉をよせたが、一つ年下の弟が純粋な興味で言っていることを思い起こし、すぐに不機嫌な顔を引っ込める。
「ケイはどんな話聞きたい?」
「うーん、昨日も聞いたからなー……今日もハルカ姉ちゃんからなんか聞いてない?」
「聞いたよ。でも、いつもの話とあんまり変わんないかも」
「それがいい! いつものハルカ姉ちゃんのウワサが聞きたい!」
弟である啓の瞳が噂好きな友人と同じように輝いているところを見るに、弟にはその素養があるらしい。
そんなことを考えていた成海は、一方で今日聞いた噂のなかで最も当たり障りのない話を吟味していた。
結果として、啓は姉を通して『最近、体操着やリコーダーが学校でたくさん失くなっている』という噂を知ることになる。成海にとって、嘘でもなければ、真実でもない噂は弟にちょうど良かったのだ。
成海が噂を話し終えると、ホカホカの茶碗を前にして啓は少し物足りない顔をしていた。
「うーん、なんか今日のウワサはイマイチな気がする?」
「そんなことないと思うけど?」
「いや、今日のはなんか違うっていうか、なんて言うか……」
「楽しくない?」
「そう、それ!」
成海は無難なところを選んだ思っていたが、よくよく考えれば、この話は遥から直接聞かなければ面白味が半減することに気付く。成海では、あのとき遥が見せたような『言ってやったぜ』感をほとんど再現できなかったのだ。それでは面白くない。
「でも、今日はこれでおしまいね」
「えー、もっと聞きたい!」
母の愛情を目一杯受けて育った弟はなかなかに甘えたさんだ。
弟をどう説得するか。成海が考えを巡らせていると、そこに待ったが入った。
「成海、今の話を父さんに詳しく教えてくれないか?」
さっきまで黙々と箸を進めていた父が、箸を置いて真剣な眼差しで語りかける。だが、そんなことで引き下がる弟でもなかった。
「父ちゃんは姉ちゃんの話聞いてなかったの?」
「いや、聞いていた……というより、成海の話が聞こえていた、と言った方が近いのかな」
父はそう簡単に揚げ足取りに引っ掛からない。伊達や酔狂で何年もこの四手村唯一の役場に勤めているわけではないのだ。
しかし、成海は少し不安だった。
「お父さんまでウワサってわけじゃないよね?」
「ああ、ただ父さんの方まで話が来てないのが気になってね」
父は顔が広い。四手のあらゆる噂が集まる役場に勤めているのだから、四手にまつわる多くのことを知っている。だが、そんな父でも小学校で起きたことまで知らないのは仕方のないことだろう。
「ハルカちゃんから聞いた話をなるべくそのまま話す方がいい?」
「そうしてくれると助かる」
弟はふてくされて食事に戻ったが、きっとそっちは母がなんとかしてくれる。そんな確信があった成海は、事のあらましをザックリと父に語った。
「そうか、小学校では今そんなことが起きているのか」
話し終えた成海が父の表情を窺うと、そこには普段あまり見せないような小難しい顔があった。
「何かわかった?」
「いや、これだけではなんとも言えないな」
「そっか……」
成海は少し残念そうに机の料理を見つめる。温かい料理たちは黙ったままで、何も応えてはくれない。
そんな成海を見ていた父は柔らかい言葉を心掛けて娘に話しかけた。
「成海、父さんに話してくれてありがとう」
成海は少しびっくりした。
父のそんな言葉を聞いた娘は、お父さんのそんな笑顔を向けられた成海は、いつもよりほんの少し嬉しくて幸せな気持ちになった。
母が父にうりうりと肘をあてている。
弟がバクバクと料理を頬張っている。
成海はそんな何気ない光景がいつまでも続けばいいと想いながら、よく味の染みたジャガイモを一口、口にした。
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