第九話:休日のぬいぐるみ
駅の構内から続く幅広い連絡通路を抜け、既存の複合商業施設に最近増設されたというエリアが見えてきた。
既存の施設に増設されたというその区画は、周囲の古い構造よりも明らかに新しい感じだった。そこにある開きっぱなしのドアが、大量の人間を飲み込み、そして吐き出していた。
「わあ、やっぱり広くてきれいですね! 先輩、早く入りましょう!」
若菜は俺の腕を引いて、その人の波の中へと進んでいく。
「ああ、分かった」
俺は彼女に引っ張られながら、新エリアの中へと足を踏み入れた。
「おい、そんなに引っ張るな」
「先輩が遅いだけです!ほら、雑貨屋さんはあっちです!」
若菜は俺の腕を軽く引っぱりながら、楽しそうな声を上げた。
彼女の指し示す先には、一階の広い面積を占めている生活雑貨の店舗があった。
俺は彼女に引っ張られながら、周囲の光景を観察していた。周囲の高い天井まで届くようなガラス張りの壁面。それが、自然光を過剰なまでに取り込んでいた。通路の中央にはベンチが配置され、休日の時間を消費するために集まった人間たちがそこに座り、スマートフォンを操作したり、中身のない会話を交わしたりしている。彼らにとって、自分たちが今立っているこの現実は、疑いようのない事象の連続だ。
しかし、俺だけがその連続性から切り離されている。
目覚めた時、俺は昨日までとは全く異なる前提を持つこの『休日のデート』という状況に接続されていた。昨夜、俺は彼女を自室に引き留めた事実。あの行動は、今ここにある現実には初めから存在していないことになっている。
その事実を認識するたびに、腹の底から重たい徒労感を感じた。
「ここです、ここですよ! 早く来てください!」
若菜は雑貨店の入り口で立ち止まり、俺をさらに引っ張る。
店舗の敷居を跨ぐと、空調の空気に混じって、人工的に作られた甘ったるい芳香剤の匂いがした。店内には木製の低い棚が迷路のように配置され、その上には様々な用途の商品がずらりと陳列されている。食器、タオル、文房具、クッション、そして用途の不明な装飾品。どれもが目立つ配色と形状だった。
若菜は棚の間に足を踏み入れるなり、目についた商品を次々と手に取り始めた。
彼女の行動には一貫性がない。先ほどまでは布製の小さな鞄を眺めていたかと思えば、すぐに興味を失って別の棚に移動し、今度はガラス製のコップを手に取っている。
それがまた、彼女らしいなと感じられた。
「先輩、見てください。このコップ、底の形がお花の形になってますよ!」
若菜は透明なコップを俺の目の前に突き出してきた。
ガラスの表面が、店内の明るい照明をキラキラと反射している。
「それがどうした。汚れが溜まりやすくて、洗うときの手間が増えるだけだろ」
「もう、またそういう可愛げのないことを言う。飲み物を入れた時に、上から見るとお花の形が見えて可愛いじゃないですか」
彼女は不満そうに唇を尖らせながら、コップを元の位置に戻した。
俺は彼女の背中を追いながら、自分が置かれた不気味な状況を反芻していた。
今、仮にここで俺が彼女に対して行う会話や、彼女が選ぶ商品に対するやり取りに、どのような意味があるのだろうか。俺が彼女の買い物を手伝い、言葉を交わしたところで、次に目覚めた時にはまた別の前提を持つ世界に放り出され、全てがなかったことにされてしまうかもしれない。
それは、まるで砂で山を作っては波にさらわれるのをただ見つめているような、果てしのない絶望。
「あ、これいい匂いがしますよ」
若菜は別の棚に移動し、小さな瓶に入ったルームフレグランスの蓋を開けて鼻を近づけていた。
彼女は俺の方を振り向き、その小瓶を俺の顔の前に差し出してきた。
「先輩も嗅いでみてください。ラベンダーの香りって書いてあります」
俺は促されるままに、瓶の口に顔を近づけた。
人工的に強い匂いがした。
「俺の部屋には必要ない」
「いいえ!必要です!」
「……」
「先輩の部屋、いつも無臭っていうか、生活感がないんですよね。少しはこういうのを置いて、リラックスできる空間にした方がいいと思いますよ。最近、なんだかすごく疲れているみたいですし」
彼女の言葉に、俺はわずかに止まった。
疲れている。
だが、若菜は、俺が過去を引きずって混乱していることなど知る由もない。彼女はただ、目の前にいる俺の体調を純粋に気遣っているだけだ。
俺は彼女の顔を直視することができず、視線を棚に並んだ別の商品へと逸らした。
「……俺は疲れてなどいない。必要な睡眠時間は確保している」
「でも、今日待ち合わせの時に会った時、すごく顔色が悪かったですよ。今も、どこか上の空っていうか……私の話、ちゃんと聞いてます?」
若菜は瓶を棚に戻し、俺の顔を下から覗き込んできた。
もし俺がここで真実を口にしたところで、彼女を不必要に混乱させるだけだ。それに、これ以上過去との矛盾を追求していけば、彼女が俺の隣にいて話しかけてきているというこの結果すらも、手放してしまうような気がした。
「……周囲の人間が多くて、少し息苦しいだけだ」
俺は適当な理由を並べて誤魔化した。
若菜は少しだけ疑わしそうな表情をした後、小さく息を吐いた。
「人が多いのは仕方ないですよ、休日なんですから。でも、本当に辛くなったら言ってくださいね。すぐに休憩しましょう!」
彼女はそう言って、再び商品の並ぶ棚へと向き直った。
俺はそんな若菜を見ながら思った。そう、ここで過去の連続性が失われていようと、俺の行動が無意味に終わろうと、どうでもいいのだ、と。
俺が求めるのは、彼女が今ここで息をし、生き延びて、俺の視界の中で活動しているということだけなのだ。
若菜ユイの死――それだけは絶対的に受け入れることができない事象なのだから。
「先輩、これ、すごく可愛いです」
若菜が立ち止まったのは、小さな置物が並べられたところだった。
彼女の手には、木を彫って作られた不格好な猫の置物が握られていた。
「それを部屋に置いて、何かの役に立つのか」
「可愛いものを眺めているだけで、心が癒されるんですぅ~!」
若菜は手にした猫の置物を自分の顔の横に並べ、楽しそうに笑った。
「結局、それを買うのか」
「うーん……」
若菜は置物を様々な角度から眺め、値段の書かれた小さな札を確認した。
そして、少しだけ名残惜しそうに、それを元の場所に戻した。
「やめておきます。可愛いけど、ちょっと高すぎますから」
「買わないのなら、最初から手に取るなよ」
「見るだけでも満足できるんです!先輩にはこの楽しさが分からないんですか?」
「分からないな」
「本当に、先輩は可愛げがないですね」
若菜は呆れたように肩をすくめ、店舗の出口へと向かって歩き出した。
俺はその後を追い、店を出た。
結局、彼女は何も購入しなかった。様々な商品に触れ、俺に意見を求め、そして棚に戻す。その行為そのものを楽しんでいたようだ。
ああ、無意味だ。
そう、この俺の記憶のように。
その店舗を出て商業施設の広い通路に戻ると、相変わらず無数の人間が行き交っていた。
俺たちは、その人波の中を歩き続けた。
若菜は俺の隣を歩きながら、学校での出来事について話し始めた。クラスメイトの誰かがどうしたとか、次の授業の課題が面倒だとか、俺にとってはまったく興味のない話題の連続だった。
いつものありがちな会話だ。
ただ一点違うのは、今の俺は、彼女の話に対して具体的な返事ができないことだろう。
俺の記憶にある学校の状況と、この世界における学校の状況が合致している保証がどこにもないからだ。俺が不用意な発言をすれば、また前提の矛盾が露呈してしまう。
「そういえば先輩、来週の歴史の小テスト、範囲がすごく広くて大変ですよね」
若菜が不意にそんなことを口にした。
歴史の小テスト。
俺の記憶には、そんな予定は存在していない。だが、俺は表情を崩さず、無難な返答を選んだ。
「……ああ。無駄に範囲だけを広げても、生徒の理解度は上がらない。暗記を強要するだけの根性論だ」
「ですよね! 先生ももう少し考えてくれればいいのに。先輩、また勉強教えてくれますか?」
「お前は人に頼る前に、まず自分で努力する姿勢を見せろよ」
「うっ……厳しいですね。でも、先輩に教えてもらった方が絶対に点数が上がるんですから、お願いしますよ」
若菜は俺の腕を軽く押し、頼み込むような声を出した。
衣服越しに伝わる彼女の体温が、俺の皮膚に確かな熱を与えてくる。
会話のつじつまをあわせる。俺は、この綱渡りのようなやり取りに疲労を感じていた。
常に自分の発言を差し当たりなくして、若菜に合わせる作業。ここは俺の脳が選び出した現実のはずなのに、俺自身がそれに振り回されている。
しかし、その疲労感すらも、彼女が隣にいるという事実の前に比べれば些細な問題だとも思えた。
「少し、どこかで座らないか。歩き回って疲れた」
俺が提案すると、若菜はすぐに頷いた。
「いいですよ! あそこのジューススタンドで何か買って、そこのベンチで休みましょう」
彼女は通路の端にある小さな店舗を指差した。
俺たちはそこで冷たい果汁の飲み物を二つ買い、近くの空いているベンチに腰を下ろした。
プラスチックの容器に入った冷たい液体が、喉を通って胃に落ちていく感覚がはっきりとわかった。
「美味しいですね、これ」
若菜はストローをくわえながら、満足そうに目を細めた。
「糖分が多すぎる。ただの水の方が良い」
「またそんなこと言って。先輩も、ちゃんと飲んでくださいよ」
彼女は俺の容器を指差して急かした。
俺は無言のまま、再びストローに口をつけた。
ベンチに座って周囲を眺めていると、家族連れや若い男女が次々と目の前を通り過ぎていく。誰もが自分の人生に疑いを持たず、与えられた時間を消費している。
俺は彼らを見ながら、ふとソラナの無表情な顔を思い出した。
彼女はあの不気味な地下室で、俺の脳に見当識の切断という物理的な処置を施した。その結果がこれだ。俺の脳は、この休日の商業施設という適当な現実を選び出し、俺の意識をそこに接続している。
手術によって誘導された、俺はこの若菜がいる世界を漂い続けることになるのだろうか。
「先輩? また難しい顔をしてますよ」
若菜の声で、俺は思考の深みから引き戻された。
「……何でもない。ただ、人間が多いと観察対象が増えて疲れるだけだ」
「観察って……人間観察ですか? 先輩って本当に変わってますよね」
彼女は呆れたように笑い、容器に残った氷をストローでかき回した。
カラン、というプラスチックと氷がぶつかる軽い音が鳴る。
「次はどこへ行くつもりだ。無目的に歩き回るのは疲れるだけだぞ」
「うーん、そうですね……あ、上の階に行きましょう! ゲームセンターがあるはずです」
若菜は案内板の方を見上げ、嬉しそうな声を上げた。
「ゲームセンターか」
「たまには息抜きも必要ですよ! ほら、飲み終わったなら行きますよ」
彼女はベンチから立ち上がり、空になった容器を近くのゴミ箱に捨てた。
俺も立ち上がり、彼女の後を追った。
彼女は俺の袖を引っ張り、エスカレーターの方向へと向かった。
俺は抵抗することなく、彼女に引かれるまま足を進めた。
エスカレーターに乗り、上の階へと移動する。
徐々に高度が上がるにつれて、上の階から特有の騒音が漏れ聞こえてきた。
大音量の電子音。アップテンポの音楽。それらが、一つの巨大な音となって空気を震わせている。
エスカレーターを降りると、目の前には広大な面積を占めるゲームセンターの入り口があった。
店内は照明が落とされており、多数の機械が放つ色鮮やかな明かりが、空間を人工的に彩っていた。
俺はその空間に足を踏み入れた瞬間、周囲を冷めた視線で見渡した。
周囲には、機械に向かって一時の娯楽に講じる人間たちだけだ。狂乱。彼らは刺激に没頭し、周囲の状況など気にしていない。
「わあ、すごく広いです! 先輩、あっちにUFOキャッチャーのコーナーがありますよ」
若菜は俺の腕を掴んだまま、人混みを縫って奥へと進んでいく。
彼女の歩調は早く、この騒々しさを心から楽しんでいるようだった。
この、いつ消えるか分からない世界の中で、俺はここにいる。これほど無意味な時間の使い方は存在しないだろう。
しかし、俺の腕を引く彼女の手の力強さと、振り返って俺を見る笑顔の生々しさが、俺の思考を麻痺させていくように感じられた。
「先輩、見てください! これ、すごく可愛いです!」
若菜が立ち止まったのは、UFOキャッチャーの前だった。
デフォルメされた猫のぬいぐるみが乱雑におかれていた。
丸みを帯びた体型に、簡略化された顔のパーツが張り付いている。どこかで見たことがあるような、ぬいぐるみ。
「そうか」
「そうか、じゃないですよ!これからこれを取るんですよ!」
若菜はUFOキャッチャーのガラス面に顔を近づけ、中を覗き込んでいた。
「特にあの一番上に乗っているやつ、私を呼んでいる気がします」
彼女が指差した先には、他のぬいぐるみの上に不安定な角度で乗っている一体があった。
俺はそれを見て、小さく鼻を鳴らした。
「お前を呼んでいるわけがない」
「夢がないですよ!先輩、やってみてくださいよ!」
若菜は俺の方を向き、両手を合わせて懇願するような仕草をした。
「自分でやらないのなら諦めろ。俺はこういうのには金を使わない主義だ」
「お願いします! 一回だけ! 百円は私が出しますから!」
彼女は自分の財布から百円硬貨を取り出し、俺の手のひらに押し付けてきた。
「おいおい、やめろよ」
金属の冷たい感触と、彼女の指の柔らかな感触が同時に伝わってくる。
「やめません~!」
俺は、小さく息を吐いた。
「……分かった。やろう。百円くらい、俺が出す」
「ええっ~、いいんですか!やったー!」
仕方なく俺は、百円を若菜に戻し、自らの財布から百円を取り出す。
「えっへへ~。ありがとうございます、先輩!」
俺は機械の前に立ち、投入口に百円硬貨を入れた。
ピロリん。電子音とともに、操作パネルが動き出す。
俺は操作レバーに手を伸ばした。
プラスチックの硬い感触。
ルールは簡単だった。横方向と奥方向への移動を行い、爪を下降させて景品を掴む。
しかし、アームの保持力が意図的に弱く設定されており、景品を持ち上げても途中で落下するように調整されているはずだ。
正直、初めから結果が分かっていることに金を投入する意味が分からなかった。
しかし、後輩はニコニコとこちらを見ている。
「先輩。もう少し右です」
若菜が横から口を出してくる。
俺は彼女の声を無視し、レバーを操作して爪を移動させていく。
効果音とともに、アームが移動する。
俺は、目標の真上で移動を止めた。そして、下降ボタンを押し込んだ。
「いっくよぉ~!」UFOキャッチャーから、そんなキャラクターの声が聞こえた。
「かわいい!」
後輩が騒いでいる。はあ、とため息をつく。
この機械がかわいいのか?
そんなことを思っている間にも、アーム、三本の爪がゆっくりと下がっていく。
アームの爪が開いた状態でぬいぐるみを捉え、再び閉じる。予想通り、爪がぬいぐるみの布地に食い込んだが、力が足りないようで、ぬいぐるみの位置をずらしただけで元の山の上に残った。
爪だけが虚しく上昇し、元の位置に戻っていく。
「ああっ、惜しい! もう少しで掴めたのに!」
若菜が残念そうな声を上げた。
「惜しくはない。最初からアームの力が不足している。設定の段階で、数回に一回しか強い力が出ないようになっているんだよ」
俺は機械から手を離し、彼女に事実を告げた。
しかし、若菜は諦めきれない様子で、再び自分の財布を開いた。
「でも、さっきので少し位置が変わりましたよ。次は絶対に取れますよ!」
彼女は再び百円硬貨を取り出し、俺に差し出した。
「はぁ……」
「いいから、もう一回だけお願いしますよぉ~!私、どうしてもあの子が欲しいんです」
泣き落としだ。
こうなった若菜は、どうやっても動かないことを経験的に知っていた。
「分かった。じゃあ、この百円もらうぞ」
「はい!先輩!」
俺は百円を投入し、レバーを握った。
先ほどの操作で、ぬいぐるみの重心が僅かに傾いているのを確認する。
俺はアームを調整して、爪がぬいぐるみの最も太い部分を深く挟み込むような位置にアームを動かす。
下降ボタンを押す。
「いっくよぉ~!」UFOキャッチャーから、先ほどとおなじ間抜けなキャラクターの声が聞こえる。
そのままアームが下がり、爪が閉じていく。
今度は、先ほどよりも強い力で爪が閉じているのが分かった。どうやら、UFOキャッチャーが設定した強い力の周期に偶然当たったらしい。
アームは、ぬいぐるみを抱え込むようにして閉じた。
ぬいぐるみは持ち上げられ、そのまま横方向への移動を開始する。
獲得口の真上まで運ばれ、爪が開いた。
ボトッ、という鈍い音。そして、デフォルトされた猫が獲得口の底に落ちた。
「やったぁっ!! 先輩、すごいです!」
若菜はキャッキャと喜んでいる。そして、獲得口に手を入れてぬいぐるみを取り出した。
「本当に取れちゃいました! 私、これ宝物にします!」
彼女はそれを両手で大事そうに抱え、満面の笑みで俺の方を向いた。
「単に機械の周期設定の当たりを引いただけだ」
「またまた!」
若菜はぬいぐるみに頬擦りをして、その柔らかさを堪能しているようだった。
俺は彼女の様子を淡々と見ながらも、どこか静かな安堵を得ていた。
彼女の笑顔を引き出すことができた。その事実が、俺の荒んだ精神を僅かに落ち着かせるのかもしれない。
「そういえば、この子の名前を決めなきゃですね」
若菜はぬいぐるみをじっと見つめ、何かを考えるような仕草をした。
そして、急に顔を輝かせて俺を見た。
「決めました! 今日からこの子の名前は、『れーじちゃん』です!」
俺は言葉を失った。
「……はっ?」
「だから、れーじちゃんです! 先輩の名前から取りました!苗字はあんまりなので名前にしました!」
「いやいや、俺の名前を付けるのはおかしいだろ」
「いいじゃないですか! 先輩が取ってくれたんだから、先輩の分身みたいなものです。ね、れーじちゃん」
若菜はぬいぐるみに向かって話しかけ、楽しそうに笑っている。
俺は呆れ果てて言葉を返す気力もなくなった。
俺の名前が付けられたぬいぐるみを抱え、周囲の目も気にせずに喜んでいる彼女の姿。
それは、あまりにも日常的で、平和な光景だった。
「ほら先輩、れーじちゃんが挨拶してますよ。こんにちはって」
若菜がぬいぐるみの前足を動かし、俺に向かって振ってみせた。
「……馬鹿馬鹿しい。さっさと行くぞ」
俺は背を向け、通路の方へと歩き出した。
後ろから、彼女の弾むような足音がついてくるのが聞こえる。
そう自分に言い聞かせながら、俺は冷たい空気の流れるゲームセンターの出口に向かって歩き出した。
その後も、俺たちは商業施設の中を当てもなく歩き回った。
若菜はぬいぐるみを抱えたまま、アパレルショップのショーウィンドウを覗き込んだり、本屋の雑誌コーナーで立ち読みをしたりと、休日の時間を存分に消費していた。俺は彼女の少し後ろを歩き、彼女の視線が向く先をただ無言で追っていた。
その若菜の行動、思考、それらはすべて俺が知っている若菜そのものだった。
しかし、連続性はない。この日も、あの日、彼女の死後、初めて再会した日と同じように、どこか遠くへといってしまうのだろうか?
俺は再び湧き上がろうとする疑問を、意識的に遮断した。
「先輩、そろそろ帰りましょうか」
若菜が立ち止まり、満足そうな顔で俺を振り返った。
窓の外を見ると、分厚い雲に覆われた空が、さらに暗さを増していた。休日の昼間特有の活気は落ち着きを見せ始め、施設内の人間たちも、帰路につくための動きを見せている。
「ああ。そうだな。これ以上歩いても、無意味に疲労が増すだけだ」
「もぉ、最後まで一言多いですね。でも、今日は本当に楽しかったです。先輩にぬいぐるみも取ってもらえたし」
彼女はぬいぐるみを俺の顔の前に掲げてみせた。
「ずいぶんと気に入ったようで、何よりだ」
「ええ!だって、これ、私の宝物ですから!」
俺たちはエスカレーターを下り、商業施設の出口へと向かった。
自動ドアを抜けて駅の構内へと続く連絡通路に戻ると、空調の冷気から解放され、外の少し淀んだ空気が俺たちを包み込んだ。
駅の改札へと向かう人々の流れに乗り、俺たちは並んで歩く。
俺の隣を歩く若菜の横顔は、今日一日の出来事に満足しきっているように見えた。
彼女の髪が歩くたびに揺れ、微かにシャンプーの匂いが漂ってくる。
「先輩、明日も学校で会いましょうね」
改札の手前で、若菜が笑顔で手を振った。
明日。
その言葉が、俺の耳にひどく残酷に響いた。
俺には、明日がどうなるのか全く分からない。
しかし、俺は表情を崩さず、短く返事をした。
「……ああ。気を付けて帰れよ」
俺の言葉を聞いて、彼女は嬉しそうに頷き、改札の向こうへと消えていった。
俺は彼女の後ろ姿が見えなくなるまで、その場に立ち尽くしていた。
周囲の喧騒が、俺の耳を通り過ぎていく。
俺は深く息を吸い込み、自分自身の帰路へと向き直った。




