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水槽の脳は君の夢を見るか?  作者: 速水静香


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第八話:いざショッピングへ


 布団の感触が、どこにもなかった。

 俺は垂直に立っていた。自らの二本の足で。


 ここは自宅ではなかった。

 今、目の前に見える光景は、曇り空だ。

 外だ。俺の周囲では、無数の人間が行き交っている。スマートフォンを片手に早足で歩く男。女性の二人組。円形のベンチに座って話し込む若者たち。

 彼らの足音。遠くで車両が動く音。そしてどこからか聞こえてくる電子的な案内放送が、不規則な騒音となって俺を襲ってくる。


 間違いない。ここは駅前の北口にある広場だ。

 俺は今、その駅前の人混みの中に立っている。


 どうして、ここにいるんだ。


 少なくとも、俺は、あの自室で寝ていたはずだった。俺は床の上に敷いた布団で寝て、俺の部屋のベッドには、若菜がいた。俺は彼女を外の危険から守るために、半ば強引に部屋に泊まらせ、玄関のドアに鍵をかけたのだ。

 

 俺はゆっくりと自分の身体に視線を下ろした。

 部屋着として着ていたはずの薄い長袖のシャツではない。今の俺は、外出用の私服を身につけていた。落ち着いた色合いの襟付きのシャツに、黒いズボン。肩からは、財布などを入れるための小さなショルダーバッグを下げている。靴も、履き古したいつものスニーカーだった。

 誰かが俺を寝ている間に着替えさせ、この場所まで運んだとでもいうのか。

 いや、そんなことは常識的にはありえない。俺の抵抗なしに服を着せ替え、鍵の閉まった部屋から運び出し、白昼の駅前まで連れてくる。どう考えてもあり得ない。

 俺はズボンのポケットに手を入れた。硬い感触があった。スマートフォンだ。

 俺はそれを取り出し、画面を点灯させた。

 表示されている時刻は、昼前。

 そして、画面の中央に表示されている日付の横の曜日は、昨日とは全く違った。今日は休日らしい。


 昨日から今日へという、当たり前の連続性すら成り立っていない。

 最後の記憶と、今俺が立っているこの状況が、あまりにも違いすぎる。


 記憶喪失か? 

 人間は過度のストレスや精神的な疲労により、記憶を失う。解離性健忘。たしかにあり得る。

 若菜の死と再会。最近は過大な負荷ばかりだった。それが俺の脳を麻痺させていた? あるいは、夢遊病のような状態で無意識のうちに数日間を過ごしていたのかもしれない。

 いや、違う。俺はあの地下室で、自らの脳に物理的な手術を受けたのだ。

 時間や場所、周囲の状況を正しく認識し、現実を固定するための機能――『見当識』。俺は手術で、それを切除した。ならば、今のこの状況はその狂った調整がもたらした副作用と考えるべきだ。

 しかし、なぜ一度眠りについただけで、昨日までとは全く別の前提を持つ『新しい現実』へと唐突に放り込まれてしまったのか。


 まったく分からない。


 俺はスマートフォンの画面をスワイプし、メッセージアプリを開いた。

 一番上にあるトーク画面には、若菜の名前が表示されていた。

 トークを開くと、そこには今日の朝に行われたやり取りが記録されていた。

『今日は楽しみですね! 十一時に駅の北口で待ってます!』という彼女からの文章に対し、俺のアカウントから『ああ、遅れないように行く』という短い返信が送信されている。


 若菜と一緒にショッピングに行く約束をしている休日。

 これが、今の俺を取り巻く状況らしい。

 混乱のため、呼吸が浅くなる。

 広場を行き交う周囲の人間たちは、俺の直面している混乱など知る由もなく、それぞれの目的地に向かって歩き続けている。彼らにとって、この現実に対して、何一つ疑うべき要素はないのだろう。ただ俺だけが、この世界へ唐突に放り出されたのだ。

 俺はその場に立ち尽くし、スマートフォンの画面を食い入るように見つめ続けた。


「先輩!」


 不意に、少し離れた場所から俺を呼ぶ声が聞こえた。

 弾むような、高くて明るい声。

 俺が顔を上げると、広場の入り口付近からこちらに向かって小走りで近づいてくる人物の姿があった。

 若菜ユイだ。

 彼女はいつも着ている学校の制服ではなく、休日のための私服に身を包んでいた。白いブラウスの上に薄手のカーディガンを羽織り、膝丈のスカートをはいている。肩まで伸びた髪はきれいに整えられ、休日の外出に対する彼女の気合いのようなものが伝わってくる服装だった。

 彼女は俺の目の前まで来ると、息を弾ませながら立ち止まった。


「もぉー、早いですね先輩!もういるなんて」


 彼女は悪戯っぽく笑いながら、俺の顔を下から覗き込んできた。

 その声、その表情、そして彼女の周囲の空気が軽く動く感覚。

 俺は彼女の言葉に対して、即座に反論を返すことができなかった。

 声帯が麻痺したように、喉の奥が張り付いて音が出ない。


「どうしたんですか、そんなぼんやりした顔をして。もしかして、私の私服姿に見惚れちゃいましたか?」


 俺は彼女の姿を上から下まで観察した。

 ブラウスの皺、髪の毛の一本一本の揺れ、そして俺に向かって向けられる視線。どれをとっても、俺の記憶にある若菜ユイと全く同じだ。


「……先輩?」


 俺がずっと無言で立ち尽くしているのを見て、若菜は不思議そうに小首を傾げた。


「何か、怒ってますか? 私、時間より早く着いたはずなんですけど」


 彼女の顔から笑顔が消え、不安げな表情が浮かぶ。

 俺はどうにかして声を絞り出さなければならなかった。


「……いや。怒ってなどいない」

「本当ですか? なんだかすごく顔色が悪いですよ。体調でも悪いんですか」

「なんでもない。ただ、少し考え事をしていただけだ」


 俺はスマートフォンの画面を消し、ポケットに押し込んだ。

 手のひらにかいた汗が、ズボンの布地に吸い取られていく。

 俺はここで、彼女に対して俺の記憶にある『出来事』を確認すべきだろうか。


『お前、この前俺と一緒に学校を休んで、俺の部屋に泊まっただろ』と。


 しかし、もし彼女の中に、俺の部屋に泊まったという事実そのものが存在していなかったとしたらどうなる。

 あの出来事がまったく意味をなさないものになってしまう。


 もっと言えば……。

 いや、それ以上は……もうやめよう。


 俺は息を深く吸い込み、慎重に言葉を選んだ。


「……そういえばお前、この前、学校を休んで俺の部屋にいた日があっただろう」


 俺の口から出たのは、そんな探りの言葉だった。


「え? どういうことですか」

「その……俺の部屋に泊まった日のことだ。慣れない場所で、ちゃんと疲れは取れたのかと気になってな」


 遠回しな聞き方だった。だが、彼女の反応を見れば、あの日の事実がこの世界に存在しているかはわかるはずだ。


「もう、急に何を言い出すかと思ったら。私、最近学校なんて休んでないですよ!それに、先輩の部屋に泊まったことなんて一度もないです。なんですかそれ!」


 彼女は呆れたように笑いながら答えた。


「……学校も休んでいないんだな?」

「はい。毎日ちゃんと行ってましたよ。ふふふ、今度は先輩の家にお泊りってことですか!えへへ~」


 彼女は浮かれたように自分の世界に入っていた。

 

 その彼女を見ながら、俺は絶望を感じた。

 ――虚無。虚構。

 そう、俺があの日、初めて再会し、彼女と過ごした時間。そして、彼女を失う恐怖から必死に守ろうとしたあの行動は、今のこの世界には最初から存在していないらしい。


 先ほど無理やり蓋をしたはずのどす黒い虚無感が広がり始めていた。


 この再接続する世界では、すべてがゼロとなり、別の前提にすり替わる。

 この目の前にいる若菜は、俺があの密室で接していた若菜と同一の存在なのか。


 いや、そもそも死んだ若菜と――。


 俺は足元が不意に崩れ落ちるような感覚に襲われた。

 広場の喧騒が、急に遠くの出来事のように聞こえ始める。

 俺は再び沈黙し、足元のコンクリートタイルを見つめた。


「あれ?先輩、本当にどうしたんですか?元気ないですよ?やっぱりどこか具合が悪いんじゃ……」


 気が付くと、若菜が俺の顔を覗き込み、心配そうに手を伸ばしてこようとした。

 俺は無意識に、彼女の手を避けてしまった。


「えっ……」


 彼女は空を切った手を引っ込め、傷ついたような表情を見せた。


「あ、いや……違う。その」

「先輩、私、何か気に障ることしましたか?」


 彼女の声が小さくなる。

 俺は激しい自己嫌悪に苛まれた。

 俺は何をしているんだ。

 彼女は何も知らない。彼女の中では、休日の買い物の約束をして、指定通りにここへ来ただけだ。

 唐突な前提の切り替わりと、この世界に直面して混乱しているのは俺だけであり、彼女を傷つける理由などどこにもない。

 俺は自分が極度のパニックに陥っていることを自覚しなければならなかった。

 このままでは、俺自身の手でこの状況を破壊してしまう。

 俺はゆっくりと大きく息を吐き出した。


「すまない。本当に、寝ぼけているだけだ。お前のせいじゃない」

「……寝ぼけているんですか? だったら、今日は無理しないで帰った方が」

「いや、帰らない」


 俺は顔を上げ、彼女の目を見た。


「帰る必要はない。予定通りに行こう。俺は大丈夫だ」


 俺は言葉を切り、無理やりにでもいつもの冷めた態度を装うことにした。

 これ以上、俺が事実を追求したところで、得られるものは何もない。

 確かなことは、今、目の前に若菜ユイが存在し、俺を心配してくれているということだけだ。

 俺の知らない俺が立てた予定に乗っかるのは、非常に不快だ。しかし、彼女が隣にいるという結果が得られるのなら、俺の脳が勝手に設定した新しい前提であろうと、俺はそれに順応するしかない。

 もしここで俺が逃げ出せば、事象の無意味さに耐えきれずに思考を止めれば、俺はまた彼女に会えなくなるかもしれないという強迫観念があった。


「本当に、無理してないですか?」

「ああ。俺の健康管理はお前がしているはずだろ。お前が気付かないような不調など存在しない」

「もう、そういうところだけは口が回るんですね。わかりました、先輩がそう言うなら信じますけど、途中で辛くなったらすぐに言ってくださいね」


 彼女はようやく少しだけ安堵したように息を吐き、いつもの明るい表情を取り戻した。


「それじゃあ、気を取り直して行きましょうか! まずは新しくできたところに行きたいんです。そこの一階に入っている雑貨屋さんで、見たいものがあったんですよ」


 若菜は俺の返事を待つことなく、俺の腕に自分の腕を絡ませてきた。

 布越しに伝わってくる、彼女の柔らかな感触と確かな体温。

 いつも通りだ。


「雑貨か。実用性のないものを無駄に買い集める趣味は理解できないな」

「実用性がすべてじゃないですよ。部屋に可愛いものがあるだけで、気分が上がるじゃないですか。先輩のあの殺風景な部屋にも、少しは彩りが必要だと思いますよ」

「俺の部屋は機能性を重視している。余計なものを置けば、それだけ掃除の手間が増えるだけだ」

「またそんな理屈ばっかり。昨日だって私が片付けてあげたじゃないですか」


 彼女の口から出た『昨日』という言葉に、俺は再び内面で激しく動揺した。


「昨日……?」

「ええ、昨日。放課後に先輩の家に寄って、夕ご飯を作ってあげたじゃないですか。その時に、散らかってたプリント類を私がまとめたの、もう忘れちゃったんですか?」


 彼女は呆れたように俺の顔を見上げた。

 俺は必死に表情を崩さないよう努めた。

 彼女の中では、俺たちは『昨日』の放課後に会い、一緒に時間を過ごしていたことになっているらしい。

 俺の記憶にある昨夜とは全く状況が違う。俺の記憶では、彼女は夕食を作った後、そのまま部屋に泊まったのだ。しかし彼女の認識では、夕食を作り、プリントを片付けた後、家に帰ったことになっているのだろう。

 俺の脳が、昨日とは前提の違うこの『休日のデート』という新しい現実を選び出し、俺の意識を強制的に接続した。そして、この世界の辻褄に合うように事象にしているんだろう。


「……ああ、そうだったな。お前が勝手に人の物を触るから、どこに何があるか分からなくなった」

「ひどい言い草ですね! せっかく親切でやってあげたのに。次からはもう手伝ってあげませんからね」


 若菜は不満そうに頬を膨らませたが、すぐにまた機嫌を直して歩き始めた。

 俺たちは並んで駅前の広場を抜け、駅に併設されている複合商業施設へと向かった。

 構内には、休日の時間を消費するために集まった多くの人間がひしめいていた。家族連れ、友人同士の集団、そしてカップル。誰もが自分の日常に疑いを持つことなく、目の前の娯楽に向かって足を進めている。


「先輩!先輩!」

「ああ、聞いている」


 彼女が話しかけてくるたびに、俺は短い言葉で返答を繰り返した。

 差し当たりのない答え。

 俺はこの彼女が知る最近の出来事など知らないのだから。話を合わせるしかない。

 ただただ、今の俺は、彼女のペースに合わせて歩き続けるしかなかった。


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