第七話:明日へ向かって
テレビのスピーカーから、意図的に調整されたような高い笑い声が部屋の中に響き渡っている。
画面の中では、派手な衣装を着た芸能人たちが、あらかじめ用意された進行に従って大げさな身振りや声のトーンを繰り返していた。それを見る者の感情を特定の方向へ誘導するための、極めて人工的な娯楽の提供だ。俺にとっては、どれほどの時間をかけて眺めていても、一切の有益な情報を見出せない映像の羅列に過ぎない。
だが、俺のすぐ隣で床に座っている若菜ユイは、その映像を見て、口に手を当てながら楽しそうに笑い声を上げていた。
「あははっ、先輩、見ましたか今の。あの人の返し、最高におかしいですよね」
「俺には理解できない。あのような状況で転倒すること自体が不自然だ。明らかに事前に準備された段取りに従っているだけだろ」
「またそういう身も蓋もないことを言う! そういう裏の事情とかは考えずに、ただ目の前の出来事を楽しめばいいじゃないですか」
「嘘を見て笑うことの何が楽しいんだ。事実ではないものを事実のように見せかけられていることに、お前は不満を感じないのか」
「感じませんよ。だって、見ていて楽しいですから。先輩も、もっと肩の力を抜いて笑えばいいのに」
若菜は俺の方を振り返り、不満げに頬を膨らませた。
俺はベッドの端に腰掛けたまま、彼女のその表情を静かに見下ろしていた。
朝から、俺は彼女をこの部屋の外へ出すことを全力で阻止した。学校へ行くという彼女の当然の主張を、体調が優れない、一人でいるのが不安だという理由を並べ立てて退けたのだ。結果として、彼女は俺の説得に折れ、今日一日をこの狭い空間で俺と共に過ごすことになった。
俺の目論見は成功した。
窓の外では、時折、自動車がアスファルトを擦って走り去る音が聞こえてくる。あるいは、遠くで犬が吠える声や、見知らぬ誰かの足音が通過していく。
外の世界には、俺たちの行動を予測不可能な方向へとねじ曲げる要因が無数に存在している。何トンの重量を持つ鉄の塊が猛スピードで移動し、悪意や不注意を持った人間が行き交う空間。そこは、一歩間違えれば人間の命など容易に損なわれる、極めて不確実で危険な場所だ。
あの日、俺はその事実を最も残酷な形で突きつけられた。
だからこそ、俺はもう二度と、彼女を俺の視界の及ばない場所へ放り出すつもりはなかった。この部屋のドアを閉め、鍵をかけ、外の世界との接点を物理的に遮断する。そうすれば、あの理不尽な確率が彼女の身に降りかかる可能性をゼロにできる。
ここは、俺が管理できる安全で確固たる空間だ。
「先輩、どうかしましたか? ずっと黙って私の顔を見て」
「……いや、何でもない。お前が相変わらず単純な思考で生きていると感心していただけだ」
「もう、一言多いですよ! せっかく私が付き合ってあげているんですから、少しは優しい言葉をかけてください」
彼女は再びテレビの画面に視線を戻した。
俺は、小さく息を吐き出す。
彼女が生きている。俺の隣で、息をして、下らない番組を見て笑っている。
俺の脳が、薬剤や電気的な干渉を受けて再構築したこの世界は、どこまでも精巧で生々しかった。彼女の髪の毛一本一本の動き、布が擦れる音、そして俺の冷たい言葉に対する即座の反論。すべてが、俺の記憶にある彼女の反応と寸分違わず合致している。
これが作り物であろうとなかろうと、俺にとっては何の問題もない。俺の主観において彼女がここにいるという事象こそが、俺の求めた唯一の真実なのだから。
やがて、テレビの番組が夕方のニュースへと切り替わった。
アナウンサーが、どこかの街で起きた出来事や、明日の天気予報を淡々と読み上げ始める。
若菜はそれを見て、小さく伸びをした後、立ち上がった。
「そろそろ夕食の時間ですね。先輩、お腹空きませんか」
「俺は空腹を満たせれば何でもいい」
「またそれですか。本当に食に対する執着がないですね。えーっと、冷蔵庫の中身は……」
彼女は台所へ向かい、冷蔵庫のドアを開けた。
冷気が足元へ流れ出すのが見える。
「えーっと、ひき肉と……もやしがありますね。先輩、いつの間にこんなの買ってたんですか?」
「俺の冷蔵庫に何が入っていようが勝手だろ」
「ふふっ。じゃあ、これを使って何か作りますね。少し、近くのスーパーまで買い出しに行って、他の野菜も買ってきますから、先輩はここで大人しく休んでいてください」
彼女がエプロンを外し、玄関の方へ向かおうとした瞬間。
俺は弾かれたようにベッドから立ち上がり、彼女の腕を掴んだ。
「行く必要はない。外に出るな」
「えっ? でも、これだけじゃまともな夕食になりませんよ」
「俺が作る」
「……え?」
若菜は目を丸くして、俺の顔を見上げた。
「おおっ!? せ、先輩が料理を作ってくれるんですか!?」
「あの日、約束しただろ。今度は俺が料理を作るって」
俺の言葉に、若菜は一瞬きょとんとした後、嬉しそうに顔をほころばせた。
「そうでしたね! じゃあ、今日の夕食は先輩にお任せします!」
「ただ、材料がひき肉ともやししかないからな。もやしハンバーグになるが、文句は言わせないぞ」
「文句なんて言いませんよ! でも、やっぱり少し買い足した方が……」
「だから、外には出るなと言っているんだ」
俺は掴んだ腕の力をわずかに強めた。
若菜は不思議そうな顔をして、俺の手と顔を交互に見比べる。
「先輩、今日はずっと過保護ですね。すぐそこですよ? 走れば五分で着く距離です」
「距離の問題じゃない。外に出るという行為そのものが不確定な要素を呼び寄せるんだ。日が暮れかかっている今の時間は、歩行者と車両の接触事故の発生率が高い。不注意な自転車が突っ込んでくる可能性もある。そんな場所に、お前を一人で行かせるわけにはいかない」
「あの……先輩、なんだか大げさすぎませんか? 私、そんなに子供じゃありませんよ。道路を歩くときはちゃんと左右を確認しますし」
「人間の注意力には限界がある。お前がどれだけ気をつけていても、他人がルールを守るとは限らない。俺は、そういう予測できない事態を極力排除したいんだ」
俺の言葉は、早口で余裕のないものになっていた。
自分でも、論理が飛躍していることは理解している。だが、彼女を失うことの恐ろしさが、俺の理性を上回って言葉を紡がせていた。
若菜は小さくため息をつき、俺の手をそっと撫でてから、腕を離させた。
「わかりましたよ。そこまで言うなら、今日は買い出しに行くのはやめます。先輩のもやしハンバーグで我慢しますから、そんなに怖い顔しないでください」
「……ああ。それが一番合理的だ」
俺は安堵の息を漏らし、台所へ向かった。
若菜は俺がエプロンをつけるのを、興味深そうに見つめている。
「先輩って、昔からそういうところありますよね。冷たいふりして、本当は私のことすごく心配してくれているんですから」
「俺は事実に基づいた確率の話をしているだけだ。感情で動いているわけじゃない」
「はいはい、そういうことにしておきます。でも、なんだか嬉しいですよ。先輩にそこまで引き留められるなんて、滅多にないですから」
俺はボウルにひき肉ともやしを入れ、塩胡椒をしてこね始めた。
玉ねぎもパン粉もない、純粋な肉ともやしだけの塊だ。形を整え、熱したフライパンに並べる。肉が焼ける音と、脂が弾ける匂いが部屋に広がっていった。
俺は、フライパンの前に立ちながら、背後で楽しそうに俺の作業を眺めている彼女の気配を感じていた。
彼女が俺の部屋にいて、料理が出来上がるのを待っている。あの約束の光景が今、現実としてここにある。俺はこの光景を維持するために、どんな手段でも行使する。外の世界との繋がりを断ち切ってでも、彼女をここに留めておく。
「お待たせしました! 一条先輩特製もやしハンバーグですね!」
若菜が明るい声を上げ、机の上に二つの皿が並べられた。
立ち上る湯気とともに、香ばしい匂いが漂う。
俺たちは向かい合って座り、箸を手にした。
ハンバーグを切り分け、口に運ぶ。
肉の旨味ともやしの食感が合わさる。決して豪華ではないが、俺が作った確かな味がそこにあった。
「んー! 意外と美味しいです! もやしのシャキシャキ感がいいアクセントになってますね。でも、やっぱり明日は絶対にスーパーに行きますからね、先輩」
「明日のことは明日考える。とりあえず今は、目の前の食事に集中しろ」
「先輩はいつも今のことしか考えてないんですから。将来の計画とか、もっと真面目に立てた方がいいですよ」
「不確定な未来の計画を立てる労力は無駄だ。今日という一日を無事に終えること。それだけが重要なんだ」
「またそんなこと言う。未来があるから、人間は頑張れるんじゃないですか」
若菜はハンバーグを口に運びながら、楽しそうに反論してくる。
俺はそれに短く返しつつ、食事を進めた。
この不毛な議論のやり取りが、俺の心をひどく落ち着かせてくれる。彼女の存在が、俺の空っぽだった内面を満たしていく。
食事が終わり、若菜が食器を洗い終えると、彼女は自分の鞄からノートと教科書を取り出し、机の上に広げた。
「さてと。今日は学校を休んじゃいましたし、明日の授業の予習をしておかないと。先輩、また教えてくれますか?」
「お前は本当に学習意欲だけは立派だな。結果が伴っていないが」
「うっ……それは言わない約束です! 私だって頑張ってるんですから」
彼女はノートを開き、シャープペンシルを握った。
俺は彼女の隣に移動し、教科書の内容をのぞき込んだ。
数学の確率の分野だった。
「サイコロを振って特定の目が出る確率か。単純な計算だろ」
「それがわからないんです。なんでこういう式になるのか、全然頭に入ってこなくて」
「事象の総数に対して、目的の事象がどれだけ発生するかを割合で示しているだけだ。公式に数字を当てはめればいい」
「だから、その公式の意味がわからないんですってば。もっと分かりやすく説明してください」
俺は彼女の手からシャープペンシルを取り、ノートの余白に図を書き込み始めた。
「いいか。すべての出来事は、発生する確率と発生しない確率に分けられる。そして、分母となる試行回数が増えれば増えるほど、確率は一定の数値に収束していく。どんなに低い確率の事象でも、試行を繰り返せば必ずいつかは発生する」
「はあ……」
「だから、俺は試行回数そのものを減らすべきだと考えているんだ」
「え? なんの話ですか、先輩。数学の問題ですよね?」
「現実の話だ。例えば、外を歩くという試行を毎日繰り返せば、いつか必ず事故という事象に遭遇する。それを防ぐには、外を歩くという行為そのものをやめるしかない」
「先輩、話が飛躍しすぎですよ! そんなこと言ってたら、誰も外に出られなくなっちゃいます。事故に遭う確率なんて、すごく低いじゃないですか」
「低くても、ゼロじゃない。そして、そのゼロではない確率が現実のものになった時、人は取り返しのつかないものを失うんだ。俺は、その不確定な要因が入り込む余地をなくすことが、最も安全で合理的な選択だと言っている」
俺の言葉は、熱を帯びていた。
若菜は少しだけ戸惑ったような顔をして、俺の顔を見つめた。
「先輩……やっぱり、今日の先輩、少し変ですよ。ずっと外に出るのを怖がっているみたい。何か、嫌なことでもあったんですか?」
「何もない。ただ、事実を述べているだけだ」
「……先輩がそう言うなら、これ以上は聞きませんけど。でも、あまり考えすぎるのはよくないですよ。心配事があるなら、私に話してくださいね」
彼女は優しく微笑み、俺の腕に軽く触れた。
俺はその温もりを感じながら、小さく頷いた。
俺の恐れを、彼女が理解する必要はない。俺が彼女を守り、この安全な空間に留めておけば、それで事足りるのだから。
俺は再び数学の問題の解説に戻り、小一時間ほど彼女の勉強に付き合った。
彼女は何度か計算を間違え、消しゴムで力強く文字を消しながらも、どうにか課題を終わらせた。
「あー、疲れました! これで明日の授業もなんとかなる気がします。ありがとうございます、先輩」
若菜はノートを閉じ、大きく伸びをした。
外はすっかり暗くなり、窓ガラスには室内の様子が映り込んでいる。
テレビの番組も、夜の遅い時間帯のものへと変わっていた。画面の中では、ニュースキャスターが一日のまとめを語っている。
若菜は机の上のスマートフォンを手に取り、画面の表示を確認した。
「もうこんな時間ですね。私、そろそろ帰らないと。親が心配しちゃいます」
彼女が立ち上がり、自分の通学鞄に教科書をしまい始める。
その光景を見た瞬間、俺の身体は無意識のうちに動いていた。
俺は足早に玄関へ向かい、ドアの前に立ち塞がった。
「帰るな」
俺は、低く、しかし明確な意志を持った声で告げた。
若菜は鞄を手にしたまま、目を見開き、口元に手を当てた。
「えっ……と、先輩? どいてくださいよ。帰るなって、どういう意味ですか」
「今日は、ここに泊まっていけと言っているんだ」
「と、泊まる!? 先輩の部屋にですか?」
彼女の顔が、驚きでわずかに赤くなる。
「だ、ダメですよ! いくら幼馴染だからって、高校生の男女が同じ部屋に泊まるなんて……それに、親になんて言い訳すればいいんですか。絶対に怒られます!」
「適当に言えばいい。友達の家に泊まって、一緒に勉強の復習をしているとでもメッセージを送れ」
「そんなの無理です! 家はすぐそこなんですから、帰りますよ。ほら、そこをどいてください」
若菜は俺の脇を通り抜けようと一歩踏み出した。
俺は腕を伸ばし、ドアの横の壁に手をついて、彼女の進路を完全に塞いだ。
「外は危険だ。夜道は昼間よりもさらに視認性が落ちる。車を運転している人間の注意力も散漫になる時間帯だ。そんな不確定な空間に、お前を放り出すことはできない」
「先輩、本当にどうしちゃったんですか? 家まで歩いて十分もかからないですよ。今までだって、もっと遅い時間に普通に帰ってたじゃないですか」
「今までが運が良かっただけだ。今日、無事に帰れるという保証はどこにもない」
俺の言葉は、切羽詰まったものになっていた。
俺の過剰な防衛本能。あの日、彼女を無防備に帰してしまったことへの拭いようのない後悔が、俺の思考を支配している。
「頼む。俺の目の届かないところへ行かないでくれ」
俺の必死な訴えを聞いて、若菜は動きを止めた。
彼女は俺の真剣な顔をじっと見つめ、やがて困ったように大きく息を吐き出した。
「……先輩って、本当に変な人ですね。そこまで真剣な顔で言われたら、強行突破するわけにもいかないじゃないですか」
「じゃあ……」
「わかりましたよ。今日だけですからね。親には、仲のいい女の子の家に泊まるって連絡しておきます」
彼女はスマートフォンを操作し、素早い指付きで文字を入力して送信した。
「これでいいですか? 本当に、今日だけですからね。明日からはちゃんと自分の家に帰りますから」
「……ああ。恩に着る」
俺は腕を下ろし、ドアの前から退いた。
俺の目論見は、ひとまず成功した。彼女をこの安全な部屋に留め置くことができたのだ。明日になれば、また新たな理由を見つけて引き留めるだけだ。
「よし、泊まるとなったら、寝る場所を決めないとですね。この部屋、ベッド一つしかないじゃないですか」
若菜は部屋の中を見渡し、腕を組んだ。
「俺が床で寝る。お前がベッドを使え」
「そんなのダメですよ! 先輩の部屋なんですから、先輩がベッドを使ってください。私は床で寝ますから」
「客を床に寝かせるわけにはいかない。俺の言う通りにしろ」
俺は押し入れを開け、かつて親が置いていった薄い予備の布団を取り出し、フローリングの上に敷いた。毛布を適当に丸めて枕の代わりにする。
「ほら、これで寝床は確保できた。お前はベッドを使え」
「うーん……わかりました。じゃあ、お言葉に甘えさせてもらいますね」
若菜は渋々と頷き、洗面所へ向かった。
顔を洗う水音が聞こえる。俺の部屋の洗面所に、彼女が夜を越すための準備をしている痕跡が刻まれていく。
俺は床に敷いた布団の上に座り、その音を聞きながら、静かな安堵を感じていた。
やがて、若菜が洗面所から戻ってきた。
「それじゃあ、そろそろ寝ましょうか。先輩、電気消しますよ」
彼女が壁のスイッチを押す。
部屋の照明が消え、暗闇に覆われた。
冷蔵庫の低い稼働音だけが、空間の静寂を際立たせている。
俺は床の布団に横たわり、目を閉じた。
ベッドの上から、若菜が身動きをして布が擦れる音が聞こえてくる。
「先輩、起きてますか」
暗闇の中から、彼女の小さな声が届いた。
「ああ。どうした」
「今日は、なんだか変な一日でしたね。学校を休んで、ずっと部屋にこもりっぱなしで」
「そうだな。だが、外の無駄な騒音や危険に晒されずに済んだ」
「ふふっ、先輩らしいですね。でも、たまにはこういうのも、悪くないかもしれません」
彼女の穏やかな声。俺は言葉を返さず、ただ彼女の言葉の続きを待った。
「また、明日もこんな感じがいいな」
その言葉を聞いた瞬間、俺の胸の奥で、張り詰めていた緊張が解けていくのを感じた。
彼女自身が、この空間での日常を肯定してくれたのだ。
これ以上、何を求める必要があるだろうか。
「……ああ。そうだな。明日もここにいればいい」
俺は短く、しかし確かな意志を込めて同意した。
やがて、ベッドの方から彼女の規則正しい呼吸音が聞こえ始めた。
彼女は深い眠りに落ちたのだ。
俺は暗闇の中で、静かに自分の内面と向き合う。
あの不気味な医科大学の地下室で、俺は自分の脳への手術を受け入れた。その結果として、今、俺は彼女が生きているという現実を認識している。
外の世界の不確定な事象も、理不尽な確率も、この部屋の中には存在しない。
彼女が隣で呼吸をしている。この温もりが明日も続くのであれば、俺の現実はこれで余すところなく満たされる。
俺は、彼女の呼吸音を子守唄のように聞きながら、自らの意識を深い眠りへと沈めていった。




