第六話:密室
眩しさに、まぶたを動かした。
閉じた目の裏側に、熱い光が突き刺さるような感覚。昨夜までの、あの底冷えする地下施設の冷気とは正反対の、柔らかくて、どこか懐かしい温かさだった。俺はゆっくりと目を開ける。
視界に飛び込んできたのは、見慣れた天井だった。
薄汚れた白いクロス。隅の方にある、自分がいつ付けたのかも覚えていない小さな染み。そして、天井から吊り下げられた丸い照明器具。
俺は身体を起こそうとして、自分の身体がひどく重たいことに気づいた。まるで泥の中に沈み込んでいた身体を、無理やり引き剥がすような感覚だ。手足の先まで血液が巡り始めるのがわかる。指を動かしてみると、シーツのざらついた感触がはっきりと伝わってきた。
そこには、薬品の匂いも、無機質な機械の音もなかった。
代わりに、鼻をくすぐったのは、洗いたての柔軟剤の匂いだ。
少しだけ日差しを浴びた布製品特有の、乾燥した香ばしい匂い。そして、部屋のどこからか聞こえてくる、規則正しい生活の音。
トントントン、と。
一定の速さで刻まれる、硬いものと硬いものがぶつかる音。
それは、まな板の上で包丁が踊っている音だった。
台所の方から、じゅうじゅうという小気味よい音が聞こえてくる。何かを炒めているような、あるいは焼いているような音。それに混じって、換気扇が回る低い音が部屋の空気を震わせていた。
信じられなかった。
俺は、あの地下室で、ソラナの手によって頭を開けられたはずだ。ドリルの振動が頭蓋骨を揺らし、意識が遠のいていく感覚を、つい今さっきのことのように覚えている。あの生々しい死の予感は、一体どこへ消えたというのか。
俺はふらつく足取りでベッドから下りた。
床を踏む感覚は、驚くほど確かだった。フローリングの冷たさが足の裏から伝わり、自分の重心がどこにあるのかをはっきりと教えてくれる。
部屋を見渡す。
机の上には、開いたままの参考書。昨日まで枯れ果てていたはずの窓際の鉢植えは、なぜか青々とした葉を茂らせ、太陽の光を浴びて輝いていた。
そして、台所の方に目を向ける。
そこには、一人の少女が立っていた。
見覚えのある、背中。
肩まで伸びた、少し癖のある髪が、彼女が動くたびに軽やかに跳ねる。
彼女は黄色いエプロンを身につけ、楽しそうに鼻歌を歌いながら、フライパンの中身を木べらで混ぜていた。
俺の喉が、熱くなった。
声を出そうとしたが、上手く言葉にならない。
彼女は俺の気配に気づいたのか、作業を止めて、ゆっくりとこちらを振り返った。
「あ、先輩! やっと起きたんですか? もう、いつまで寝てるんですか、お寝坊さんですね!」
それは、俺が何度も夢にまで見た、弾むような明るい声だった。
若菜ユイ。
交通事故で死んだはずの、俺の後輩。
彼女は、あの頃と全く変わらない、屈託のない笑顔を浮かべて俺を見ていた。
「若菜……?」
「なんですか、その、幽霊でも見たような顔。ひどいですよ! せっかく私が朝から朝食を作ってあげてるのに。ほらほら、早く顔を洗ってきてください。もうすぐ出来上がりますから」
若菜は腰に手を当てて、ぷうっと頬を膨らませた。
その動作一つ一つが、あまりにも鮮明で、あまりにも現実的だった。
彼女が動くたびに、エプロンの裾が揺れる。台所からは、醤油と出汁の香ばしい匂いが漂ってきて、俺の空腹を刺激した。
俺は、夢を見ているのだろうか。
ソラナが言っていた、脳が見せる『最も望ましい現実』。
物理的に見当識を切り離し、薬と電気で誘導された、俺のための幸福な現実。
理屈ではわかっている。これがある種の現実逃避の先に生まれたものであることも、俺の冷めた部分は冷静に分析している。だが、俺の感覚は、目の前の光景を『真実』だと断定していた。
「……本当にお前なのか?」
「もう、さっきから何を言ってるんですか。若菜ユイ、現役女子高生、先輩の可愛いお嫁さん候補ですよ! それとも、寝ぼけすぎて私の名前まで忘れちゃいました?」
若菜はクスクスと笑いながら、フライパンを火から下ろした。
俺は吸い寄せられるように、彼女に歩み寄った。
一歩、また一歩。
彼女との距離が縮まるにつれて、彼女が放つ体温のようなものが伝わってくる。
「おい、ちょっといいか」
「え? なんですか?」
俺は、右手を伸ばした。
震える指先を、彼女の肩に置く。
服の布地越しに、確かな厚みと、弾力のある肉体の感触が手に伝わった。
冷たい機械でも、硬いプラスチックでもない。
柔らかくて、温かい、人間の身体の感触。
若菜は、一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに茶目っ気たっぷりの笑顔を浮かべた。
「わっ、先輩、いきなりなんですか? もしかして、寝起きのスキンシップですか? 大胆ですねえ。でも、そういうのはちゃんと私の許可を取ってからにしてくださいよ!」
彼女はそう言って、俺の手に自分の手を重ねた。
触れ合った手のひらから、ドクンドクンという、生きている証拠のような脈動が伝わってくる。
嘘じゃない。
俺の脳がどう解釈していようと、今、俺の手の中にあるこの温もりは、間違いなく本物だ。
俺が求めていた、たった一つの、かけがえのない事実。
「……ああ。そうだな。悪かった」
「ふふっ、顔が赤いですよ、先輩。可愛いところあるじゃないですか。ほら、そんなところで固まってないで、テーブルに座ってください。冷めないうちに食べましょう!」
若菜は俺の背中をポンと叩くと、器用に皿を二つ並べた。
テーブルの上には、俺が以前、あいつに勝手に買わされたあのグレーのマグカップと、黄色い花柄のマグカップが並んでいた。
昨日まで、棚の奥で埃を被っていたはずのそれが、今は湯気を立てるお茶を満たして、そこにある。
俺は言われるままに椅子に座った。
向かい側に、若菜が座る。
彼女は「いただきます!」と元気に手を合わせると、美味しそうに厚焼き玉子を口に運んだ。
俺も、箸を手に取る。
目の前にあるのは、何の変哲もない朝食だ。
玉子焼きに、ほうれん草のお浸し。それに、炊きたての白いご飯と味噌汁。
一口、玉子焼きを食べてみる。
少しだけ甘すぎる、若菜特有の味付け。
その味が口の中に広がった瞬間、俺の胸の奥で、何かが決壊したような感覚があった。
「どうですか? 今日の卵焼き、ちょっと自信作なんですけど」
「甘すぎる。俺はもう少し出汁を効かせた方が好みだと言っているだろ」
「もう! そこは素直に美味しいって言うところですよ。先輩は本当に文句が多いですね。せっかく私が早起きして作ってあげたのに」
「頼んだ覚えはない。お前が勝手に上がり込んできただけだろ」
「私が来なかったら、先輩は朝ご飯を抜くか、適当なパンで済ませるじゃないですか。私が先輩の健康を管理してあげているんですから、もっと感謝の言葉を口にしてください」
彼女は唇を尖らせて不満を口にしながらも、ウインナーを美味しそうに咀嚼している。
この不毛な会話のやり取りすら、俺にとってはかけがえのないものだった。
俺の言葉に対して、彼女が感情を伴って反論してくる。ここは偽物なんかじゃない。
「そういえば先輩、昨日の夜にやっていたクイズ番組、見ましたか? あの最後の問題、すごく難しかったですよね」
若菜が話題を変えてきた。
昨日の夜のクイズ番組。俺の記憶には、そんなものを見た覚えはない。俺の直近の記憶は、あの高度な医療機器が整然と配置された部屋での手術の光景で途切れているからだ。
だが、この世界における「一条レイジ」は、昨日もこの部屋で何らかの時間を過ごしていたという設定になっているのだろうか。
「いや、見ていない。俺はあのような、知識のひけらかしを娯楽に変換する番組には興味がない」
「またそんな理屈っぽいことを言って。たまには一緒に見ましょうよ。私、あの司会の人、けっこう好きなんですよね」
「お前の好みの基準がわからないな」
「愛嬌ですよ、愛嬌! 先輩にも少しは見習ってほしいくらいです」
俺は適当に話を合わせながら、食事を進めた。
記憶の不整合については、俺がうまく立ち回れば問題はない。どうせ、ここは俺の脳が作り出した世界なのだから、致命的な論理の破綻は起きないように処理されているはずだ。
食事が終わり、若菜が手際よく食器を台所へ運び、スポンジに洗剤をつけて洗い始めた。
水道から水が流れる音が、部屋に響く。
俺は椅子に座ったまま、その光景を静かに見つめていた。
この時間が、永遠に続けばいい。
何の変化も必要ない。ただこの部屋で、彼女が食事を作り、俺が文句を言いながらそれを食べる。そのサイクルの反復だけで、俺の人生は完全に満たされる。
「さてと、片付けも終わりましたし、そろそろ行きますか」
若菜は手をタオルで拭きながら、部屋の隅に置いてあった自分の通学用の鞄を手に取った。
「先輩、早く着替えてください。今日は朝礼に遅刻しちゃいますよ」
彼女の言葉を聞いた瞬間、俺の思考に急激なブレーキがかかった。
行く。どこへ。
学校へだ。
学校へ行くということは、この部屋を出て、外の道を歩き、駅へ向かい、電車に乗り、多数の人間が存在する空間へと移動するということだ。
俺の脳裏に、あの職員室での担任教師の言葉が蘇った。
『自宅近くの交差点で、トラックに轢かれた』
誰の意志も介在しない、偶発性の統計的な暴力。それが、若菜ユイという存在をあっけなく破壊した。
外の世界には、そのような制御不可能な要因が無数に存在している。
道路を走る何トンものトラック。不注意な運転手。落下してくる建設資材。すれ違う見知らぬ他人の悪意。
この部屋の外は、彼女の命を奪うための危険で満ち溢れている。
せっかく取り戻した彼女を、俺の目の届かない、あの確率が支配する不確定な世界へ連れ出すことなど、たとえ、ここが俺の見ている世界だとしても絶対に認められなかった。
「……今日は、行かない」
俺は机に両手をつき、低く静かな声で言った。
「え? なんですか先輩、急に。行かないって、どこにですか」
「学校だ。今日は休む」
「どうしてですか? 熱でもあるんですか?」
若菜は鞄を持ったまま、不思議そうな顔をして俺に近づいてきた。
彼女の手が俺の額に伸びてくる。俺はその手を軽く払い除けた。
「熱はない。ただ、今日は行きたくないんだ」
「行きたくないって……そんな理由で休むんですか? 先輩、ただでさえ最近は授業中にぼーっとしていることが多いって、先生も言ってましたよ。これ以上サボったら、本当に進級できなくなっちゃいます」
「進級などどうでもいい。俺の人生において、学校の成績は何の価値も持たない」
「またそういう極端なことを! ダメですよ、ちゃんと行かないと」
若菜は俺の腕を引き、無理やり立たせようとする。
だが、俺は足を踏ん張り、その場から動かなかった。
「おい、やめろ」
「先輩がそんなだらしないこと言っているから、私が引っ張っていくんです! ほら、着替えて!」
「お前も、今日は休め」
俺は、彼女の目を見てはっきりと告げた。
若菜は動きを止め、きょとんとした表情を作った。
「私が? なんで私が休むんですか」
「俺が休むからだ。俺の看病が必要だろ」
「さっき、熱はないって言ったじゃないですか」
「精神的な問題だ。今日はどうしても、外に出たくない」
俺の言葉に、若菜は困惑したように眉尻を下げた。
「先輩……何かあったんですか? いつもなら、文句を言いながらでもちゃんと学校には行くのに。今日の先輩、なんだか変ですよ」
変なのは当然だ。俺は一度、お前を理不尽な形で失っているのだから。
その恐怖がどれほどのものか、この再構築された世界のお前には理解できないだろう。
俺が求めているのは、平穏だけだ。外の世界の出来事など、俺の人生には不要なものだ。俺の視界の及ばない場所で、お前が再び理不尽な統計の結果として損なわれる可能性を、俺は一パーセントたりとも許容できない。
「何も変じゃない。ただ、外は疲れるだけで何の利益もない」
「疲れているって……学校に行くのに疲れたんですか?」
「そうだ。それに道を歩けば事故に遭うかもしれない。不特定多数の人間と関われば、何らかの事件に巻き込まれる可能性がある。この部屋にいるのが、最も安全な選択だ」
俺の極論に、若菜は大きくため息をついた。
「先輩のその理屈、本気で怖いですよ。外に出ないで生きていけるわけないじゃないですか。私たちはまだ高校生なんですよ?」
「生きていける。必要なものはすべて手に入る。だから、お前も今日は俺と一緒にここにいろ」
俺は彼女の腕を掴んだ。
強くは握らないが、絶対に離さないという意志を込めて。
「ちょっと、先輩……」
若菜は少しだけ戸惑いを見せたが、俺の真剣な態度に気圧されたのか、やがて諦めたように肩の力を抜いた。
「もう……わかりましたよ。そんなに引きこもりたいなら、今日だけは付き合ってあげます。その代わり、明日からはちゃんと学校に行ってもらいますからね」
彼女は手にした通学鞄を床に置き、再び机の前の椅子に座った。
俺は彼女が鞄を手放したのを見て、ようやく安堵の息を吐いた。
これでいい。
彼女をこの部屋に留めておくことに成功した。
明日になれば、また別の理由をつけて引き留めればいい。体調不良、悪天候、なんでもいい。俺の論理と多少の強引さを使えば、彼女を外の世界から隔離することは可能だ。
少なくとも、彼女の安全は俺が守るべきだ。
「よし、じゃあ今日は、一日中先輩の面倒を見てあげます。まずは、そこの散らかっているプリント類から片付けましょうか」
若菜は立ち上がり、俺の机の上に積まれた紙の束を手に取り始めた。
「待て、それは俺が整理すると言っているだろ」
「どうせやらないじゃないですか。休むって決めたんなら、部屋の掃除くらい手伝ってください」
「俺は休養しているんだ。掃除などという生産性のない肉体労働をする気はない」
「また屁理屈! いいから、そっちのゴミ袋を持ってください!」
彼女の活気に満ちた声が、部屋の空気を振動させる。
俺は渋々と立ち上がり、言われた通りにゴミ袋を手にした。
彼女が不要なプリントを選別し、俺が持っている袋の中に放り込んでいく。その単純な共同作業の過程で、彼女の腕が俺の腕に触れる。その度に、俺は彼女が確かにここに存在しているという事実を確認していた。
テレビの電源を入れる。
朝の情報番組が、無意味なニュースを垂れ流している。どこかの国の政治的な問題、芸能人の不祥事、新しく発売された商品の宣伝。
どれも俺たちには関係のない、遠い世界の出来事だ。
俺はゴミ袋を持ちながら、画面の中の騒がしい映像を冷めた目で眺めていた。
外の世界では、相変わらず無数の人間たちが無目的に動き回り、不確定な出来事に翻弄されているのだろう。俺はもう、あの流れの中に身を置く気はない。
俺の手の届くこの部屋に、若菜を閉じ込めておく。
彼女を生かし、俺の精神の平穏を維持するためには、それが最も安全だろう。
「あ、先輩、そのプリントは捨てちゃダメですよ! まだ提出していない課題じゃないですか」
「内容のない課題だ。提出したところで俺の能力が向上するわけではない」
「そういう問題じゃありません! ほら、ちゃんと机の上に置いておきますからね」
若菜は俺の手からプリントを取り上げ、丁寧に机の端に揃えて置いた。
俺は彼女のその几帳面な行動を、呆れ半分、満足半分で見ていた。
俺の脳が再構築したこの現実は、何の問題もなく回っている。
手術は間違っていなかった。
俺は、この現実を少しの疑いもなかった。
窓の外では、厚い雲が空を覆っていた。
しかし、この狭い部屋の中だけは、彼女の体温と騒がしい声によって、俺の求める確固たる事実として維持されていた。
俺はゴミ袋の口を縛りながら、横で笑う彼女の姿を視界に収めた。




