第十話:拒絶と孤独
最初に知覚したのは、鼻腔をくすぐる自室の匂いだった。
数日間、窓を開けていなかったことで滞留した、わずかに埃っぽい空気。
安っぽい洗剤の香り。
目を開ける。
俺は仰向けだった。そのまま、天井のシミを数えた。
視界は明瞭だ。
しかし、そこには気だるさがあった。
確認するべきことがある――枕元のスマートフォンに手を伸ばし、画面をつける。
時刻は午前六時三十分。
表示されている曜日は、平日だった。
俺は画面をスワイプし、通知の履歴を確認する。
そこには、昨夜遅くまで続いていたはずの、若菜からのメッセージの記録が残っていた。
もちろん、俺の記憶の中では、昨日、駅前の商業施設で買い物をして、だらだらと時間を潰していたはずだった。
そして、自宅に帰ってきたあとも、執拗な後輩からのメッセージを適当に相手をしていた。
最後のやりとりは、『今日は本当にありがとうございました! 明日もよろしくお願いしますね』という一文のはずだった。
今、確認できる昨日のメッセージ。
『明日の予習、全然終わらないです! 先輩、助けてください!』
『寝ちゃいましたか? 冷たいなあ。おやすみなさい!』
日付を確認する。
これらは昨夜の夜に送信されたことになっている。
やはり、あのショッピングモールでの出来事や、そのあと自宅に帰ってきてからのSNSのやりとりはどこにもない。
跡形もなく――初めから存在しなかったかのように――。
俺はゆっくりと上半身を起こした。
椅子の上には、脱ぎ捨てられた制服のズボンが乗っているだけだった。
やはり、そうなのだ。
俺は壁に背を預け、ずるずるとその場に座り込んだ。
これは単なる過去への逆行などでも、俺の記憶の一部が欠落したわけでもない。
俺の脳が、再びどこかの現実を選びなおしたのだ。
見当識を失った俺の脳は、目覚めるたびに、俺はどこかの俺が好ましいと思った世界、その新しい現在へと接続しているのだ。
昨日のショッピングモールでの出来事。
若菜の笑顔。
指先に残っている、ぬいぐるみの柔らかい感触。
それらはすべて、今の俺が立っているこの現実においては、最初から存在しなかった事象なのだ。
俺がどれほど必死に積み上げようとしても、眠りにつけばすべてがなかったことになる。
身体を動かすことがひどく困難に感じられる。
分析的な思考を繰り返すほど、俺の存在そのものが希薄になっていく気がした。
スマートフォンの振動が、手のひらを叩いた。
立て続けに届くメッセージの通知。
『先輩! もう起きてますか?』
『あと十分で、そっちに行きますからね!』
『準備しておかないと、置いていきますよ!』
画面の中で踊る文字は、いつもの若菜ユイのものだった。
彼女は、何も知らない。
彼女にとっての昨日は、俺の家で夕食を作り、プリントを整理して、自分の家に帰っただけの日なのだろう。
俺が彼女にぬいぐるみを取ってやった記憶など、この世界のどこにも存在しない。
不意に、玄関のチャイムが聞こえてきた。
ピンポーン!ピンポーン!ピンポーン!
一度、二度、三度。
高い電子音が突き刺さる。
繰り返されるその音は、外に立っている人物の性格を雄弁に物語っていた。
いつもなら、この音で無理やり意識を浮上させられるのが、俺の朝の習慣だった。
今日はそれよりも早く目覚めてしまったことで、この騒音の暴力性がより際立って感じられた。
俺は重い足取りで玄関に向かった。
鍵を開け、ドアを引く。
そこには、学校の制服に身を包んだ若菜が立っていた。
彼女は俺の顔を見るなり、満面の笑みを浮かべた。
「おはようございます、先輩! 今日は早いですね。もしかして、私に会えるのが楽しみで、眠れなかったんですか?」
彼女の声は、朝の空気を震わせるほどに明るい。
その表情に、翳りや迷いは微塵もなかった。
制服。整えられた髪。俺に向けられる、真っ直ぐな視線。
それは、俺の知っている若菜ユイでありながら、昨日、そしておととい、その時、その場に一緒にいた彼女とは別の存在なのだ。
「……おはよう」
かろうじてそれだけ言った。
「あれれ?不機嫌さんですか?」
若菜は俺の脇をすり抜けて、勝手に部屋の中へと入ってきた。
彼女は自分の家であるかのように鞄を椅子に置き、俺の机の上を眺めている。
「……若菜」
「はいはい、なんですか? 早く準備してください。朝ご飯、まだ食べてないんでしょう?」
彼女は台所に向かおうとしたが、俺はその足を止めた。
「今日は、学校を休む」
俺の言葉に、若菜の動きが止まった。
彼女はゆっくりと振り返り、不思議そうに首を傾げた。
「えっ?休み?どうしてですか?熱でもあるんですか?」
彼女は俺に近づき、自分の手を俺の額に当てようとした。
俺はその手を、無意識のうちに避けてしまった。
若菜は驚いたようにじっと見てきた。
「……熱はない。ただ、気分が優れないだけだ。今日は一人で休ませてくれ」
「気分が優れないって……どこか痛いんですか?お腹?それとも頭?」
「そうじゃない。精神的な疲労だ。少し、考えをまとめたい。お前は、さっさと学校に行け。遅刻するぞ」
俺は努めて平坦な声で言った。
感情を排除し、客観的な事実だけを述べるように。
そうしなければ、俺の中を支配している得体の知れない衝動が、言葉となって漏れ出してしまいそうだった。
若菜は俺の顔をじっと見つめていた。
彼女の視線の中心に、俺の姿が映っている。
その視線が、今の俺にはひどく痛ましく感じられた。
俺がどれほど彼女を思い、彼女のために何かをなしたとしても、彼女はそのすべてを忘れて、この真っさらな笑顔で俺の前に現れる。
その残酷な反復に、俺の精神は耐えられなくなっていた。
「……わかりました。先輩がそこまで言うなら。たしかに今日はよく寝ていないようですし!」
若菜は、そういって自ら納得したように頷いた。
「じゃあ、私も一緒に休みましょうか!私がそばにいてあげますよ!」
彼女は名案を思いついたとばかりに、目を輝かせている。
「断る。お前が学校を休む正当な理由がどこにもない。学業は学生の務めだ。自分の義務を放棄して、俺のわがままに付き合う必要はない」
俺は即座に首を振った。
「そんな堅苦しいこと言わなくてもいいじゃないですかぁ!私には、先輩の看病っていう立派な理由もありますし」
「看病が必要なほど、俺の体調は悪くない。ただ寝ているだけだ。お前がいれば、その騒々しさで眠ることもできない。お前がいることが、今の俺にとっては最大のストレスだ」
俺は意図的に、突き放すような言葉を選んだ。
若菜の顔から、笑顔がゆっくりと消えていく。
彼女は唇を噛み、俺の言葉を咀嚼するように黙り込んだ。
「……えっ、本当に、私、邪魔ですか?」
その声は小さく、微かに震えていた。
俺は胸の奥を鋭い刃物で刺されたような痛みを感じた。
だが、俺は視線を逸らさなかった。
ここで彼女を受け入れてしまえば、俺は再び、あの不確かな幸せの中へと流されてしまう。
目覚めるたびに断絶される世界で、彼女の笑顔に依存し、その度に裏切られる。
その地獄のような循環を、一度、ここで止めておくべきだ。
「ああ、邪魔だ。一人で静かに、考えを整理したい。お前と一緒にいることが、今の俺には苦痛でしかない」
俺は自分の言葉に、さらなる冷たさを込めた。
若菜は視線を落とし、握り締めた手を震わせた。
部屋の空気が、重く沈んでいく。
「……わかりました。そこまで嫌がられるなら、私も帰り……じゃなくて、学校に行きます」
若菜は鞄を手に取り、ゆっくりと出口へと向かった。
その背中は、朝の光に照らされて、ひどく小さく見えた。
彼女がドアノブに手をかけた時、一度だけ振り返った。
「先輩。放課後、また来てもいいですか?」
「……勝手にしろ」
「はい。では、お昼休みにもメッセージ送りますから、無視しないでくださいね」
若菜は無理に作ったような、笑顔を浮かべた。
そして、静かに部屋を出ていった。
パタン、とドアが閉まる音がした。
それと同時に、俺の周囲を埋め尽くしていた活気が、一気に吸い取られた。
部屋には再び、静寂が戻ってきた。
俺はよろめくようにして椅子に座った。
机の上に置かれた、数学の参考書。
昨日、若菜に教えるために開いたもの。
――いや、それは俺の記憶の中だけでの出来事なのだ。
俺は本を手に取り、その表紙に触れた。
冷たい紙の質感がした。
それは、現実と俺の間にある、超えがたい溝を象徴しているようだった。
見当識という、世界と自分を失った俺の脳。
その代替として、俺の脳は常に過剰な活動を強いられている。
周囲の状況から断片的な情報を拾い集め、それをもっともらしい物語として統合しようとする。
俺は、目を閉じた。
まぶたの裏で、昨日見た光景が、色彩を失った残像のように明滅している。
ゲームセンターの喧騒。
ぬいぐるみを抱いた彼女の、温かい重み。
それらはどこへ行ったのか。
エネルギーが保存されるように、それらの事象もどこかに保存されているはずではないのか。
思考が、支離滅裂になっていく。
俺は自分の呼吸の音に耳を傾けた。
一定のリズム。
それは、俺の肉体がまだ、この世界の存在としていることを示している。
眠るのが、怖い。
次に目覚めた時、世界はどうなっているのだろう。
俺が選ぶ『最も望ましいもの』とは。
俺は身体を丸め、震える自分を抱き締めた。
窓の外では、鳥の囀る音が聞こえた。




