第十一話:沈黙の祈り
静寂というものは、音が存在しない状態を指すのではない。
自分の内側にある思考だけが、極端に拡大されて耳に届く状態のことだ。
俺は部屋の中央に座り、壁を眺めていた。
朝、若菜を冷たい言葉で突き放し、一人になった直後は、これで冷静に状況を整理できると考えていた。
だが、現実は違った。
時間の経過とともに、俺の精神は削り取られていった。
この部屋には、何もない。
外部からの刺激が絶たれた空間で、俺の脳は勝手に最悪の可能性ばかりを列挙し続けていた。
事象の無意味化。
自分がどれだけ行動し、言葉を紡ぎ、他者と関わりを持ったとしても、眠りに落ちればすべてが白紙に戻される。
その果てしない徒労感が、とどめなく湧き上がってくる。
俺は立ち上がり、窓際に歩み寄った。
外の景色を眺める。
道路を行き交う車の排気音、遠くで遊ぶ子供たちの甲高い声。
それらの生活音は、俺とは全く別物として感じられた。
俺だけが、その連続する世界から隔離され、単独でこの部屋に取り残されている。
孤独。
これまで俺は、他者との関わりを自ら絶ち、一人でいることを好んできた。
それは、煩わしい人間関係から自衛するための合理的な選択だったはずだ。
だが、今の俺を襲っている孤独とは、理解しえないものだ。
いや、むしろ一見何の問題もないように見えるだけ、悪質なものなのかもしれない。
午後になっても、俺はただ薄暗くなっていく部屋の中で膝を抱えていた。
スマートフォンを開く。
若菜からのメッセージは、少ない。
『ご飯、ちゃんと食べてくださいね。放課後、行きますから』
昼休みの時間に、その一件だけ届いていた。
それきり、通知はない。
彼女は本当に来るのだろうか。
朝の俺の態度は、彼女を拒絶するには十分すぎるほど冷酷だった。
もし彼女が来なかったら、俺はこのまま一人でこの恐怖に耐えなければならない。
それは、想像するだけでも耐え難い苦痛だった。
夕方のチャイムが、遠くの町内放送から聞こえてきた。
部屋の中はすでに薄暗いが、照明のスイッチを入れることすら億劫だった。
俺はただ、玄関の扉の方をじっと見つめていた。
どれだけの時間が過ぎたか。
不意に、インターホンの電子音が鳴った。
ピンポーン、という間延びした音が一度だけだ。
その音が静まり返った部屋に広がった。
俺の身体が、無意識に反応した。
立ち上がり、玄関へと向かう足取りは、自分でも驚くほど早かった。
鍵を開け、金属の冷たいドアノブを回す。
「こんばんは、先輩。来ちゃいました」
そこには、学校の制服を着た若菜が立っていた。
彼女の手には、近所のスーパーのビニール袋が提げられている。
朝の俺の態度など何もなかったかのように、彼女は平然とした顔で微笑んでいた。
「……若菜」
俺の喉から出た声は、ひどく掠れていた。
「やっぱり、まだ顔色が悪いですね。お昼ご飯、食べてないでしょう? 何か作ってあげようと思って、材料を買ってきたんです」
彼女は袋を少し持ち上げてみせた。
その日常的で、あまりにも当たり前のやり取りが、俺の中で張り詰めていた何かを断ち切った。
「先輩? どうしたんですか、そんなにじっと見て。ここ、入れてくれないんですか?」
俺は、自分が彼女の腕を掴んでいることに気がついた。
理性が、ひどく遠くへと退いていく感覚があった。
「……一緒にいてくれ」
俺の口から、懇願するような言葉がこぼれ落ちた。
「え?」
若菜は驚いたように小さく声を上げた。
「今日は、帰らないでくれ。頼む。俺を、一人にしないでくれ」
それは、普段の俺からは絶対に出ることのない、見苦しい言葉だった。
他人に依存し、感情を露わにする行為。
俺が最も軽蔑していたはずの姿が、今の俺だった。
だが、もうどうでもよかった。
このまま一人で夜を迎えることに、俺の限界を超えていた。
若菜は俺の顔を見上げ、しばらく言葉を失っていた。
彼女の視線が、俺の目から口元、そして彼女の腕を掴む俺の手へと移動する。
「……先輩、本当に具合が悪いんですね」
彼女の声は、朝の明るさとは違い、静かで、ひどく優しかった。
「わかりました。今日は帰りませんよ。ずっと、先輩のそばにいますから」
若菜は俺の手の上に自分の手を重ね、ゆっくりと頷いた。
彼女の指先の温もりが、俺の皮膚を通して伝わってくる。
俺はその温かさにすがりつくように、彼女を部屋の中へと引き入れた。
◇
部屋の照明が点灯して、その白い光が空間を満たした。
若菜は慣れた手つきで台所へ向かい、買ってきた食材を広げ始めた。
俺は居間のカーペットに座り、彼女の後ろ姿をただ見つめていた。
包丁がまな板を叩く、規則正しい音。
鍋でお湯が沸騰し、微かに水蒸気が上がる匂い。
彼女が動くたびに、制服姿の彼女が動く音がする。
「先輩、もう少しでできますからね。待っててください」
若菜が振り返り、こちらに向かって声をかける。
俺は無言で頷いた。
彼女がいるという事実だけで、俺の呼吸は少しずつ正常さを取り戻しつつあった。
だが、その裏側で、俺の脳は冷徹な分析を止めようとしなかった。
目の前にいる彼女は、若菜ユイだ。
容姿も、声も、俺を気遣うその性格も、俺の知っている彼女だ。
しかし、俺の心の中には、埋めようのない空疎な感情が広がっていた。
今、目の前にいるのは、彼女の死後、俺が一番最初に再会した彼女ではない。
ましてや、休日のゲームセンターで、俺が取った三毛猫のぬいぐるみを抱きしめ、「れーじちゃん」と名付けて喜んでいた彼女でもない。
彼女たちの持っていた記憶や文脈は、失われている。
今ここにいる若菜は、俺の脳が新たに用意した前提の上に立つ、全く別の存在だ。
別の現実の別の存在。どれが若菜なのか。いや、どれも若菜なのだが、そのどれもずっと一緒にいることはできない。
「はい、お待たせしました。今日はうどんにしましたよ。消化にいいですからね」
若菜が、湯気の立つお椀を俺の前のローテーブルに置いた。
出汁の香りが鼻腔をくすぐる。
彼女は自分の分のお椀も持ち、俺の向かい側に座った。
「いただきます」
若菜が両手を合わせてから、箸を取る。
俺も無言で箸を持ち、うどんを口に運んだ。
柔らかく煮込まれた麺と、熱い汁の味が舌に広がる。
それは、間違いなく本物の食事の味だった。
「どうですか? 味、濃くないですか?」
彼女が不安そうに尋ねてくる。
「……ちょうどいい。悪くない味だ」
「よかったです! 先輩、今日は全然食べてないみたいでしたから。しっかり食べて、元気になってくださいね」
若菜は嬉しそうに微笑み、自分のうどんを食べ始めた。
俺は彼女の食事の動作を観察した。
箸の持ち方、咀嚼のペース、時折お椀の汁を飲む仕草。
それらの情報のすべてが、俺の脳に「これが現実である」と訴えかけてくる。
だが、俺は騙されない。
今、俺が彼女に何かを語りかけ、彼女がそれに答えたとしても、その関係性は今日という一日の中だけで終わり、明日には別の前提の現実が立ち上がってしまう。
食事が終わり、若菜が手際よく食器を片付けた。
水道の水が流れる音がして、それが止まると、部屋には再び静寂が戻った。
俺たちはテレビをつけ、バラエティ番組を眺めた。
画面の中で芸能人が大げさなリアクションを取り、作り物めいた笑い声がスピーカーから流れてくる。
若菜は時折、その映像を見て小さく笑っていた。
俺は画面に視線を向けながらも、内容など全く理解していなかった。
「先輩、本当に今日はどうしたんですか? 学校休むなんて、珍しいですよね」
コマーシャルに入ったタイミングで、若菜が唐突に切り出してきた。
「……言ったはずだ。精神的な疲労だと」
「だから、その理由を聞いてるんです。何か嫌なことでもあったんですか? 私でよければ、話くらい聞きますよ」
彼女は身体をこちらに向け、真剣な顔つきで言った。
俺は彼女の顔を直視できなかった。
俺が抱えている不条理を、この彼女に説明して何になるというのだ。
『お前は脳の手術を受けていて、明日にはこの一緒にいる記憶も消えてしまうかもしれない』
そんなことを言えば、彼女は俺が狂ってしまったと判断するだけだろう。
「話すことは何もない。ただ、疲れているだけだ」
「そうですか……。先輩がそう言うなら、無理には聞きませんけど」
若菜は少しだけ寂しそうな顔をして、再びテレビへと視線を戻した。
俺は自分の手元に視線を落とした。
彼女の存在に縋り付いておきながら、彼女を拒絶するような真似をしている。
俺の行動は矛盾している。
一人でいる恐怖に耐えきれずに彼女を呼んだにもかかわらず、この世界の事実を受け入れられず、彼女へ壁を作っている。
俺はどうすればいいのだ。
答えは出ない。
テレビの音声だけが、無意味に部屋の空気を震わせていた。
◇
夜が更け、時刻が深夜を回った。
テレビの番組はいつの間にか通販の宣伝に変わり、単調な音声が繰り返されている。
「先輩、そろそろ寝ましょうか。布団、出しますね」
若菜が立ち上がり、押し入れの方へと向かった。
俺は無言で頷き、ローテーブルを部屋の隅へと移動させた。
彼女が二組の布団を取り出し、並べて敷いていく。
その手際の良さが、俺にはひどく恐ろしかった。
就寝の時間が近づくにつれて、俺の心拍数は徐々に上がっていた。
見当識の欠落した俺の脳にとって、睡眠は単なる肉体の休息ではない。
それは、現在接続している現実の強制終了を意味する。
意識を失い、脳の活動が低下した瞬間、この部屋も、隣にいる若菜も、すべてが解体される。
そして、次に目を覚ました時、俺はまた別の前提を持つ世界へと放り出されるのだ。
眠るのが怖い。
「はい、準備できましたよ。電気、消しますね」
若菜が壁のスイッチを押し、部屋の照明を落とした。
一瞬で、視界が深い暗闇に覆われる。
窓の外からのわずかな街灯の明かりだけが、部屋の様子をぼんやりと浮かび上がらせていた。
俺は自分の布団に潜り込み、仰向けになった。
隣の布団では、若菜が身動きする布擦れの音が聞こえる。
彼女は俺の方を向いて横になっているようだった。
「先輩、ちゃんと寝てくださいね。明日には、いつもの元気な先輩に戻ってますように」
暗闇の中から、彼女の静かな声が聞こえてきた。
俺は返事をすることができなかった。
喉が干からびたように渇き、言葉の作り方を忘れてしまったかのようだった。
部屋の中に、静寂が降りてくる。
やがて、隣から規則正しい呼吸音が聞こえ始めた。
若菜は、迷いもなく眠りに落ちたのだ。
俺は暗闇の中で、その呼吸音にじっと耳を澄ませた。
吸って、吐いて。
その単調なリズムが、彼女が今ここに存在しているという唯一の証だった。
俺は彼女の方へと顔を向けた。
暗くて表情はわからない。ただ、布団の微かな起伏だけが見える。
彼女は、俺が今日という日を一緒に過ごした若菜だ。
俺の家で夕食を作り、俺を心配してくれた。
今日一日、彼女が俺に与えてくれた温もりは、確かに俺の主観の中に存在していた。
別れ惜しさが、唐突に込み上げてきた。
明日になれば、この若菜はいなくなる。
別の世界で別の若菜に出会うかもしれないが、今日、俺と一緒にうどんを食べた彼女とは永遠に会うことはない。
「……明日、また、俺がいるといいな」
俺は、暗闇に向かってぽつりと呟いた。
それは誰に向けたものでもない。
自分の存在の同一性すら不確かであることに対する、深い諦念と祈りのような言葉だった。
すると、隣の布団が微かに動いた。
「……ん? なんですか、それ。当たり前じゃないですか。明日も明後日も、先輩は先輩ですよ」
眠りについていたはずの若菜が、寝ぼけたような声で答えた。
「……変な先輩。おやすみなさい……」
彼女は小さく笑うと、再び規則正しい呼吸音の中へと戻っていった。
俺はその無邪気な言葉を聞いて、自嘲気味に息を吐いた。
彼女には、俺の真意など理解できるはずもない。
俺の言葉は、ただの寝言か冗談としか受け取られなかった。
だが、それでいい。
彼女にこの恐怖を共有させる必要はない。
俺は深く目を閉じ、意識を手放すことへの恐怖に身を委ねた。
隣から聞こえる柔らかな呼吸音だけが、俺の意識が途切れる直前まで、確かな現実として聞こえてきた。




