表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
水槽の脳は君の夢を見るか?  作者: 速水静香


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

11/19

第十一話:沈黙の祈り

 静寂というものは、音が存在しない状態を指すのではない。

 自分の内側にある思考だけが、極端に拡大されて耳に届く状態のことだ。


 俺は部屋の中央に座り、壁を眺めていた。

 朝、若菜を冷たい言葉で突き放し、一人になった直後は、これで冷静に状況を整理できると考えていた。

 だが、現実は違った。

 時間の経過とともに、俺の精神は削り取られていった。

 この部屋には、何もない。

 外部からの刺激が絶たれた空間で、俺の脳は勝手に最悪の可能性ばかりを列挙し続けていた。


 事象の無意味化。

 自分がどれだけ行動し、言葉を紡ぎ、他者と関わりを持ったとしても、眠りに落ちればすべてが白紙に戻される。

 その果てしない徒労感が、とどめなく湧き上がってくる。


 俺は立ち上がり、窓際に歩み寄った。

 外の景色を眺める。

 道路を行き交う車の排気音、遠くで遊ぶ子供たちの甲高い声。

 それらの生活音は、俺とは全く別物として感じられた。

 俺だけが、その連続する世界から隔離され、単独でこの部屋に取り残されている。


 孤独。

 これまで俺は、他者との関わりを自ら絶ち、一人でいることを好んできた。

 それは、煩わしい人間関係から自衛するための合理的な選択だったはずだ。

 だが、今の俺を襲っている孤独とは、理解しえないものだ。

 いや、むしろ一見何の問題もないように見えるだけ、悪質なものなのかもしれない。


 午後になっても、俺はただ薄暗くなっていく部屋の中で膝を抱えていた。

 スマートフォンを開く。

 若菜からのメッセージは、少ない。


『ご飯、ちゃんと食べてくださいね。放課後、行きますから』


 昼休みの時間に、その一件だけ届いていた。


 それきり、通知はない。

 彼女は本当に来るのだろうか。

 朝の俺の態度は、彼女を拒絶するには十分すぎるほど冷酷だった。

 もし彼女が来なかったら、俺はこのまま一人でこの恐怖に耐えなければならない。


 それは、想像するだけでも耐え難い苦痛だった。


 夕方のチャイムが、遠くの町内放送から聞こえてきた。

 部屋の中はすでに薄暗いが、照明のスイッチを入れることすら億劫だった。

 俺はただ、玄関の扉の方をじっと見つめていた。


 どれだけの時間が過ぎたか。

 不意に、インターホンの電子音が鳴った。

 ピンポーン、という間延びした音が一度だけだ。

 その音が静まり返った部屋に広がった。


 俺の身体が、無意識に反応した。

 立ち上がり、玄関へと向かう足取りは、自分でも驚くほど早かった。

 鍵を開け、金属の冷たいドアノブを回す。


「こんばんは、先輩。来ちゃいました」


 そこには、学校の制服を着た若菜が立っていた。

 彼女の手には、近所のスーパーのビニール袋が提げられている。

 朝の俺の態度など何もなかったかのように、彼女は平然とした顔で微笑んでいた。


「……若菜」


 俺の喉から出た声は、ひどく掠れていた。


「やっぱり、まだ顔色が悪いですね。お昼ご飯、食べてないでしょう? 何か作ってあげようと思って、材料を買ってきたんです」


 彼女は袋を少し持ち上げてみせた。

 その日常的で、あまりにも当たり前のやり取りが、俺の中で張り詰めていた何かを断ち切った。


「先輩? どうしたんですか、そんなにじっと見て。ここ、入れてくれないんですか?」


 俺は、自分が彼女の腕を掴んでいることに気がついた。

 理性が、ひどく遠くへと退いていく感覚があった。


「……一緒にいてくれ」


 俺の口から、懇願するような言葉がこぼれ落ちた。


「え?」


 若菜は驚いたように小さく声を上げた。


「今日は、帰らないでくれ。頼む。俺を、一人にしないでくれ」


 それは、普段の俺からは絶対に出ることのない、見苦しい言葉だった。

 他人に依存し、感情を露わにする行為。

 俺が最も軽蔑していたはずの姿が、今の俺だった。

 だが、もうどうでもよかった。

 このまま一人で夜を迎えることに、俺の限界を超えていた。


 若菜は俺の顔を見上げ、しばらく言葉を失っていた。

 彼女の視線が、俺の目から口元、そして彼女の腕を掴む俺の手へと移動する。


「……先輩、本当に具合が悪いんですね」


 彼女の声は、朝の明るさとは違い、静かで、ひどく優しかった。


「わかりました。今日は帰りませんよ。ずっと、先輩のそばにいますから」


 若菜は俺の手の上に自分の手を重ね、ゆっくりと頷いた。

 彼女の指先の温もりが、俺の皮膚を通して伝わってくる。

 俺はその温かさにすがりつくように、彼女を部屋の中へと引き入れた。



 部屋の照明が点灯して、その白い光が空間を満たした。

 若菜は慣れた手つきで台所へ向かい、買ってきた食材を広げ始めた。

 俺は居間のカーペットに座り、彼女の後ろ姿をただ見つめていた。


 包丁がまな板を叩く、規則正しい音。

 鍋でお湯が沸騰し、微かに水蒸気が上がる匂い。

 彼女が動くたびに、制服姿の彼女が動く音がする。


「先輩、もう少しでできますからね。待っててください」


 若菜が振り返り、こちらに向かって声をかける。

 俺は無言で頷いた。

 彼女がいるという事実だけで、俺の呼吸は少しずつ正常さを取り戻しつつあった。

 だが、その裏側で、俺の脳は冷徹な分析を止めようとしなかった。


 目の前にいる彼女は、若菜ユイだ。

 容姿も、声も、俺を気遣うその性格も、俺の知っている彼女だ。

 しかし、俺の心の中には、埋めようのない空疎な感情が広がっていた。


 今、目の前にいるのは、彼女の死後、俺が一番最初に再会した彼女ではない。

 ましてや、休日のゲームセンターで、俺が取った三毛猫のぬいぐるみを抱きしめ、「れーじちゃん」と名付けて喜んでいた彼女でもない。


 彼女たちの持っていた記憶や文脈は、失われている。

 今ここにいる若菜は、俺の脳が新たに用意した前提の上に立つ、全く別の存在だ。


 別の現実の別の存在。どれが若菜なのか。いや、どれも若菜なのだが、そのどれもずっと一緒にいることはできない。


「はい、お待たせしました。今日はうどんにしましたよ。消化にいいですからね」


 若菜が、湯気の立つお椀を俺の前のローテーブルに置いた。

 出汁の香りが鼻腔をくすぐる。

 彼女は自分の分のお椀も持ち、俺の向かい側に座った。


「いただきます」


 若菜が両手を合わせてから、箸を取る。

 俺も無言で箸を持ち、うどんを口に運んだ。

 柔らかく煮込まれた麺と、熱い汁の味が舌に広がる。

 それは、間違いなく本物の食事の味だった。


「どうですか? 味、濃くないですか?」


 彼女が不安そうに尋ねてくる。


「……ちょうどいい。悪くない味だ」

「よかったです! 先輩、今日は全然食べてないみたいでしたから。しっかり食べて、元気になってくださいね」


 若菜は嬉しそうに微笑み、自分のうどんを食べ始めた。

 俺は彼女の食事の動作を観察した。

 箸の持ち方、咀嚼のペース、時折お椀の汁を飲む仕草。

 それらの情報のすべてが、俺の脳に「これが現実である」と訴えかけてくる。


 だが、俺は騙されない。

 今、俺が彼女に何かを語りかけ、彼女がそれに答えたとしても、その関係性は今日という一日の中だけで終わり、明日には別の前提の現実が立ち上がってしまう。


 食事が終わり、若菜が手際よく食器を片付けた。

 水道の水が流れる音がして、それが止まると、部屋には再び静寂が戻った。

 俺たちはテレビをつけ、バラエティ番組を眺めた。

 画面の中で芸能人が大げさなリアクションを取り、作り物めいた笑い声がスピーカーから流れてくる。

 若菜は時折、その映像を見て小さく笑っていた。

 俺は画面に視線を向けながらも、内容など全く理解していなかった。


「先輩、本当に今日はどうしたんですか? 学校休むなんて、珍しいですよね」


 コマーシャルに入ったタイミングで、若菜が唐突に切り出してきた。


「……言ったはずだ。精神的な疲労だと」

「だから、その理由を聞いてるんです。何か嫌なことでもあったんですか? 私でよければ、話くらい聞きますよ」


 彼女は身体をこちらに向け、真剣な顔つきで言った。

 俺は彼女の顔を直視できなかった。

 俺が抱えている不条理を、この彼女に説明して何になるというのだ。

 『お前は脳の手術を受けていて、明日にはこの一緒にいる記憶も消えてしまうかもしれない』

 そんなことを言えば、彼女は俺が狂ってしまったと判断するだけだろう。


「話すことは何もない。ただ、疲れているだけだ」

「そうですか……。先輩がそう言うなら、無理には聞きませんけど」


 若菜は少しだけ寂しそうな顔をして、再びテレビへと視線を戻した。


 俺は自分の手元に視線を落とした。

 彼女の存在に縋り付いておきながら、彼女を拒絶するような真似をしている。

 俺の行動は矛盾している。

 一人でいる恐怖に耐えきれずに彼女を呼んだにもかかわらず、この世界の事実を受け入れられず、彼女へ壁を作っている。


 俺はどうすればいいのだ。

 答えは出ない。

 テレビの音声だけが、無意味に部屋の空気を震わせていた。



 夜が更け、時刻が深夜を回った。

 テレビの番組はいつの間にか通販の宣伝に変わり、単調な音声が繰り返されている。


「先輩、そろそろ寝ましょうか。布団、出しますね」


 若菜が立ち上がり、押し入れの方へと向かった。

 俺は無言で頷き、ローテーブルを部屋の隅へと移動させた。

 彼女が二組の布団を取り出し、並べて敷いていく。

 その手際の良さが、俺にはひどく恐ろしかった。


 就寝の時間が近づくにつれて、俺の心拍数は徐々に上がっていた。

 見当識の欠落した俺の脳にとって、睡眠は単なる肉体の休息ではない。

 それは、現在接続している現実の強制終了を意味する。

 意識を失い、脳の活動が低下した瞬間、この部屋も、隣にいる若菜も、すべてが解体される。

 そして、次に目を覚ました時、俺はまた別の前提を持つ世界へと放り出されるのだ。


 眠るのが怖い。


「はい、準備できましたよ。電気、消しますね」


 若菜が壁のスイッチを押し、部屋の照明を落とした。

 一瞬で、視界が深い暗闇に覆われる。

 窓の外からのわずかな街灯の明かりだけが、部屋の様子をぼんやりと浮かび上がらせていた。


 俺は自分の布団に潜り込み、仰向けになった。

 隣の布団では、若菜が身動きする布擦れの音が聞こえる。

 彼女は俺の方を向いて横になっているようだった。


「先輩、ちゃんと寝てくださいね。明日には、いつもの元気な先輩に戻ってますように」


 暗闇の中から、彼女の静かな声が聞こえてきた。

 俺は返事をすることができなかった。

 喉が干からびたように渇き、言葉の作り方を忘れてしまったかのようだった。


 部屋の中に、静寂が降りてくる。

 やがて、隣から規則正しい呼吸音が聞こえ始めた。

 若菜は、迷いもなく眠りに落ちたのだ。


 俺は暗闇の中で、その呼吸音にじっと耳を澄ませた。

 吸って、吐いて。

 その単調なリズムが、彼女が今ここに存在しているという唯一の証だった。

 俺は彼女の方へと顔を向けた。

 暗くて表情はわからない。ただ、布団の微かな起伏だけが見える。


 彼女は、俺が今日という日を一緒に過ごした若菜だ。

 俺の家で夕食を作り、俺を心配してくれた。

 今日一日、彼女が俺に与えてくれた温もりは、確かに俺の主観の中に存在していた。


 別れ惜しさが、唐突に込み上げてきた。

 明日になれば、この若菜はいなくなる。

 別の世界で別の若菜に出会うかもしれないが、今日、俺と一緒にうどんを食べた彼女とは永遠に会うことはない。


「……明日、また、俺がいるといいな」


 俺は、暗闇に向かってぽつりと呟いた。

 それは誰に向けたものでもない。

 自分の存在の同一性すら不確かであることに対する、深い諦念と祈りのような言葉だった。


 すると、隣の布団が微かに動いた。


「……ん? なんですか、それ。当たり前じゃないですか。明日も明後日も、先輩は先輩ですよ」


 眠りについていたはずの若菜が、寝ぼけたような声で答えた。


「……変な先輩。おやすみなさい……」


 彼女は小さく笑うと、再び規則正しい呼吸音の中へと戻っていった。


 俺はその無邪気な言葉を聞いて、自嘲気味に息を吐いた。

 彼女には、俺の真意など理解できるはずもない。

 俺の言葉は、ただの寝言か冗談としか受け取られなかった。


 だが、それでいい。

 彼女にこの恐怖を共有させる必要はない。


 俺は深く目を閉じ、意識を手放すことへの恐怖に身を委ねた。

 隣から聞こえる柔らかな呼吸音だけが、俺の意識が途切れる直前まで、確かな現実として聞こえてきた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ