第十二話:可能性
目を覚ました。
見慣れた天井のシミが見える。
俺はゆっくりと首を動かし、周囲を見た。
隣には、誰もいない。
昨夜、俺は若菜を引き留め、この部屋に泊まらせた。
一人で夜を迎える恐怖に耐えきれず、俺は自分の矜持を捨てて彼女に懇願したのだ。
予備の布団を引き出し、俺の横に並べて敷いた。
暗い部屋の中で、彼女の規則正しい呼吸音を聞きながら、どうにか眠りについたはずだった。
俺は上半身を起こし、部屋の中を見回した。
ローテーブルの上は綺麗に片付けられている。昨日、二人で食べたうどんの器もない。彼女が持ち込んだはずの通学鞄もない。
台所へ視線を向ける。水切りカゴの中には、俺が普段使っているマグカップが一つだけ伏せられていた。かつて彼女が勝手に持ち込んだ、黄色の花柄のマグカップはなかった。
昨夜は確かに二人で食卓を囲んだはずだった。
あの温かさも、交わした言葉も、今はどこにもない。
俺の予想通りだった。
いや、予想という言葉は正しくないかもしれない。初めから分かりきっていたことだ。
やはり、昨夜の若菜とのやり取りも、彼女がうどんを作ってくれたという事実も、この世界には初めから存在していないのだ。
深い疲労が、体全体を重くしていくのがわかった。
俺がどれだけ行動を起こそうと、言葉を尽くそうと、眠りに落ちればすべては無意味になる。
この部屋の静けさが、俺の孤独をさらに際立たせる。
俺は、深く息を吐き出した。
ピンポーン。
死んだように静かな部屋の中に、電子音が聞こえてきた。
ピンポーン! ピンポーン!
いつもの玄関のインターホンだ。
俺の身体は、条件反射のように反応した。
フローリングの冷たさを足の裏に感じながら、玄関へと向かう。
ドアノブを回して扉を開ける。
外には、指定の制服をきちんと着こなした若菜ユイが立っていた。
「おはようございます、先輩! 今日もいい天気ですね。さあ、早く準備しないと遅刻しちゃいますよ」
明るい声だった。
彼女は俺の顔を見るなり、満面の笑みを浮かべた。
その顔には、昨夜の出来事を引きずっているような翳りは一切ない。俺が彼女に泣きつき、一緒にいてもらったという記憶は、彼女の中には存在していないのだから。
俺は、その事実を静かに受け入れた。
「……おはよう」
「あれ、なんだかすごく疲れた顔をしてますね。もしかして、また夜更かししてゲームでもやってたんですか?」
若菜は俺の顔を下から覗き込み、少し心配そうな表情を作った。
その気遣いすら、俺の心をただ摩耗させていく。
「……今日は、学校を休む」
俺は短く告げた。
「えっ、休むんですか? どこか具合でも悪いんですか」
若菜の表情が明確な心配に変わる。
「ああ。熱はないが、頭が痛い。それに体も怠い。今日は一日、横になっていたいんだ」
俺は適当な仮病を口にした。
「そうですか……。それなら仕方ないですね。私がここで看病しましょうか? お粥くらいなら作れますよ」
俺の記憶の中にいた若菜と同じ提案。同じ優しさ。
その優しさが、今の俺にとってはひどく残酷なものに思えた。
彼女の優しさを受け入れれば、俺はまた彼女に依存してしまう。そして明日になれば、その関係性は再び無に帰す。
「必要ない。ただ寝ていれば治る。ただの風邪だ。お前はさっさと学校に行け。遅刻するぞ」
俺は扉を少し閉めかけながら、やんわりと拒絶を示した。
「もう……先輩って本当に素直じゃないんだから。わかりました、私は学校に行きます! でもでも、夕方にはまた様子を見に来ますからね」
俺の拒絶が上手くなったのか、彼女は少し不満そうに唇を尖らせた後、小さく手を振った。
「じゃあ、お大事に。また後で」
彼女が階段の方へと歩いていくのを見届け、俺は玄関の扉を閉めた。
ドタン、という金属の重い音を最後に、再び部屋は静まり返った。
これでいい。
俺は一人になった。
靴を脱ぎ、部屋の中央に戻る。
布団の上に倒れ込むように横たわった。
思考を止めようとしても、頭の中では様々な言葉が行き交い、俺を苛み続ける。
このままここにいれば、夕方にはまた彼女がやってくる。
その時、俺はどう対応すればいいのか。また冷たい態度で追い返すのか。それとも、昨日と同じように彼女に縋ってしまうのか。
俺はどこに向かっているのだろうか。
いや、そもそも俺は移動しているわけではない。俺が、毎回、適切だと思う現実を選び出し、そこに俺の意識を接続しているだけだ。
俺が求めていたのは、こんな状態だったのだろうか。
あの地下室で、俺は自らの脳に物理的な処置を受けることを承諾した。
若菜が生きている現実を取り戻すためだ。
確かに、若菜とは会える。
ただ、そこに絶対的なものはない。
また、深く思考が沈む前に、近くに置いていたスマートフォンが、ブブッ、と短い振動音を発した。
俺はゆっくりと手を伸ばし、画面を確認する。
若菜からのメッセージではない。
表示されていた送り主の名前は、ソラナだった。
『手術後の経過はどうですか』
無機質で、要件だけを伝える短い文章。
俺は画面の文字をじっと見つめた。
彼女は俺の手術を執刀した人間だ。俺の脳で何が起きているのか、彼女なら知っているはずだ。
しかし、俺の精神はすでに限界を迎えている。
俺は画面をタップし、短い返信を入力した。
『会って話をしたい』
送信ボタンを押す。
数十秒後、再びメッセージが届いた。
『理解した。現在の私の所在地は、あなたが手術を受けた医科大学の研究室。いつでも構わない』
俺はスマートフォンをポケットにねじ込み、立ち上がった。
着替えることもせず、昨日着ていた服のまま玄関へ向かうことにする。
俺はスニーカーを履き、外に出た。
◇
外の空気は冷たく、分厚い雲が空を覆っていた。
俺は駅へ向かって歩き出した。
駅の自動改札を抜け、電車に乗り込む。
車内は空いており、俺は席に座った。
窓の外を流れる景色をぼんやりと眺める。
建物の形や看板の文字が、一定の速度で後方へと流れていく。
スマートフォンの画面を操作しているサラリーマンや、学生たちが見える。
彼らは皆、昨日から今日へ、そして明日へと続く時間軸の中で生きている。
この景色すら、明日の朝には別の形に変わっているのかもしれない。そう考えると、目の前の事象に執着することの無意味さが身に染みた。
数十分後、電車は目的の駅に到着した。
俺は改札を出て、医科大学の広大なキャンパスへと向かう。
以前ここを訪れたときと同じように、白衣を着た学生や職員が忙しなく歩き回っている。
俺は彼らを避けながら、あの建物の方向へと足を進めた。
彼女が指定した研究室は、地下の手術室の真上にある棟の一室だった。
階段を上がり、薄暗い廊下を進む。
扉に小さく『ソラナ』という名札が貼られた部屋を見つけた。
ノックを一度だけし、返事を待たずにドアノブを回す。
部屋の中は、不要な装飾が一切ない殺風景な空間だった。
消毒液と古い紙の匂い。壁際のスチールラックには分厚い専門書が整然と並べられ、中央の金属製の机の上にはノートパソコンと数枚の書類が置かれているだけだ。
その机の奥に、ソラナが座っていた。
彼女は白衣を羽織り、こちらに顔を向けている。
その表情は、以前と変わらず、顔の筋肉を全く動かしていないかのような無表情だった。
「あなたがここまで協力的だとは、予想外」
彼女は抑揚のない声で言った。
「俺の頭で、何が起きている」
俺は部屋の中に入り、扉を閉めた。
抑え込んでいた感情が、声に混じって吐き出される。
「お前は言ったはずだ。俺の脳は、俺が最も望む現実を再構築すると。若菜が生きている世界に繋がると」
「ええ。その通り。事実として、あなたは彼女が生存している状態を経験しているはず」
ソラナは淡々と答える。
「確かに彼女はいる。だが、朝起きるたびに状況が切り替わっているんだ。昨日一緒に過ごした一日が、次の日にはなかったことにされている。俺と彼女の間にあった前提が、毎日別の現実に置き換わっている。これが俺の望んだ現実だというのか」
俺は机に両手をつき、彼女に顔を近づけた。
俺はいつの間にか怒りを感じていた。
関係性を築くことができない絶望。終わりのない迷走の恐怖。
それを引き起こした張本人が目の前にいるのだ。
だが、ソラナは俺の怒りに動じることなく、ただ静かに俺の顔を見つめ返した。
「私の認識では、あなたが手術を受けてから半年以上が経過している」
彼女は唐突に、自分の時間の流れについて語り始めた。
「この世界は、一定の法則に従って連続している。たとえば、私はその半年間、通常の業務をこなし、この場所で研究を継続している。違う?」
「それがどうした。お前の話など聞いていない。俺の状況を説明しろ」
俺が声を荒らげると、彼女はじっとこちらを見てきた。
「聞いて」
彼女は、そういって何かを考えるようにしてから話を続けた。
「私があの時、あなたの脳における、現実を正しく認識するための部位を切除した」
彼女の口から出る言葉は、どこまでも客観で冷徹だった。
「それにより、あなたの脳は自分がどこにいて、どのような時間を過ごしているのかを判断できなくなった。しかし、人間の脳は機能の欠損に対して、別の部分がその役割を代行しようとする働きを持っている」
「そうだ、あの時。お前がそう説明していた」
「そう。現在、あなたの脳では大脳皮質を中心とした広範なネットワークが、失われた部位の代わりに世界を認識し、状況を構成しようと活動している。あの時の最初の一度の薬剤と電気的な刺激が、あなたの最も強い願望である彼女の生存という現実への接続を確立した。本来であれば、そのままその現実が固定されるはずだった」
ソラナの説明は続く。
俺は彼女の言葉を一つ一つ咀嚼しようとしたが、頭の中がひどく重かった。
「だが、人間は休息を必要とする。睡眠。本来、見当識を司る部位は睡眠時にも一定の活動状態を保つ。しかし、それを無理に代行している大脳皮質は、睡眠時の活動低下が極めて著しい」
睡眠。
俺が毎晩、恐れを抱きながら迎えていた時間だ。
「あなたが眠りに落ちたとき、機能を代行していた大脳皮質の活動は沈静化する。そして、あなたが再び目を覚まし、大脳皮質が活動を再開したとき、固定したはずの現実の連続性が失われている」
俺は何も言えなかった。
「だから、目覚めるたびに、あなたの脳は手元にある断片的な情報とあなたの脳内に条件づけられた強い願望を組み合わせる。つまり、その都度、適当な現実を新しく選び出し、そこにあなたの意識を再接続してしまう」
適当な現実。
それが、俺が毎日直面しているあの状況の正体だというのか。
「つまり、俺が眠るたびに脳の活動が落ちて、前提を一から選びなおしているということか」
「わかりやすく言えば、そうなる。睡眠時、同じ状況を正確に保持しつづける機能を、現在代行している部位は持っていない。結果として、あなたは昨日とは微妙に異なる前提を持つ世界に、毎朝放り出されることになる」
ソラナの言葉は、俺の現状を医学的かつ理論的に語っていた。
俺は机から手を離し、後ずさりした。
足元がひどく不安定に感じられる。
「なら……俺はどうすればいい」
俺の声は、自分でも驚くほど弱々しかった。
怒りは消え失せ、底なしの絶望だけが残されていた。
「俺は、ただあいつと一緒にいたかっただけだ。毎日、前提が切り替わり、昨日のことがなかったことにされる世界で、俺はどうやって生きていけばいいんだ」
俺は彼女にすがるように問いかけた。
手術を行った彼女なら、この状況を打開する方法を知っているかもしれないという、わずかな期待があった。
だが、ソラナは椅子の背もたれに寄りかかった。
その顔には、やはり何の感情も浮かんでいない。
「ここが、見当識を失ったあなたの見る現実である限り、あなたは無限に転移できる」
彼女は静かな声で言った。
「そこには、無限の可能性がある」
俺は言葉を失った。
「……無限の可能性」
俺は自嘲気味に呟いた。
それは、希望などではない。
俺にとって、それは最も残酷な宣告だった。
俺は深く息を吐き出した。
ソラナはそれ以上、何も言わなかった。彼女の役目は、事実を提示することだけなのだろう。
俺は背を向け、研究室の扉を開けた。
薄暗い廊下へと足を踏み出した。




