第十三話:存在しない場所
スマートフォンのアラームが聞こえた。
朝だ。
スマホのアラーム。
それを聞くのは数年ぶりだろうか。
俺はそう思いつつも、アラームを切った。すると、部屋の中は静まり返っていた。
時刻を見る。
このうんざりとする静けさ。そこに違和感があった。いつもなら、この時間にはすでに玄関のインターホンが鳴らされていてもおかしくはない。
あの騒がしい後輩が、俺の睡眠を強制的に中断させ、部屋の中に上がり込んでくるのが毎朝の光景となっていたからだ。
だが、今日は何も聞こえない。
SNSのメッセージ通知もない。
俺は上半身を起こし、ベッドの上に座ったまま玄関の方へと視線を向けた。
金属の冷たいドアは、静かに閉ざされたままだ。
外を走る車のエンジン音が、くぐもった音となって壁の向こうから聞こえてくる。
どうしたのだろうか。
彼女が遅刻をしているのか。
そうだ。俺の中での昨日。あの日、俺は医科大学の地下室でソラナと対峙し、俺の脳で起きている現象の理論的な見解を聞かされた。
見当識を失った大脳皮質が、睡眠による活動低下を経て、目覚めるたびに適当な現実を新しく構築し直している。それが俺の現状だった。
まさか。
事故か。
いや、まさか。
俺は深く息を吐き出し、枕元に置いてあったスマートフォンに手を伸ばした。
画面を点灯させる。
時刻は午前七時を過ぎていた。
俺の登校時間としては、遅刻ぎりぎりの時間だ。
画面には、何の通知も表示されていなかった。
いつもなら、画面を埋め尽くすほどのメッセージが届いているはずだ。仮に俺が返信をしなくても、彼女は一方的に自分の状況を文字にして送りつけてくる。
何もない。
俺はメッセージアプリを開き、トークの履歴一覧を表示させた。
一番上に表示されているのは、クラスのグループトーク。それも数週間前の事務的な連絡だった。
画面を下にスクロールしていく。
過去のやり取りを順番に確認していくが、探している名前は見当たらなかった。
若菜ユイの名前がない。
俺は指の動きを止め、画面をじっと見つめた。
トークの履歴が削除されているわけではない。彼女とのやり取りの痕跡そのものが、アプリ内から消滅しているのだ。
俺は連絡先の検索欄をタップし、彼女の名前の文字列を入力した。
『一致するユーザーが見つかりません』
その文字が、画面の中央に表示された。
彼女が朝、事故にあった、などとは比較にならない。
とても言いようのない嫌な予感が、背筋を上り始めた。
俺は他の連絡手段も確認することにした。
電話番号。
連絡帳アプリ。
そして、画像アプリを開いた。
ない。何もなかった。
スマートフォンを握る手に、じわりと汗が滲む。
俺はベッドから下り、部屋の中を見回した。
ローテーブルの上は綺麗に片付けられており、何もない。
台所へ向かう。
水切りカゴの中には、紙コップしかない。
彼女が勝手に持ち込んだはずの、灰色や黄色の花柄のマグカップはない。
窓際に視線を移す。
そこには、彼女が部屋が暗すぎるからと言って買ってきた小さな植物の鉢植えがあったはずだ。
だが、窓際には何もない。フローリングの床に、朝の光が落ちているだけだ。
何もない。
彼女がこの部屋に存在したという痕跡すらも、一つ残らず消え去っている。
俺の脳が新たに接続したこの現実は、昨日までとは何かが違う。
俺は焦燥に駆られ、クローゼットから適当な服を引っ張り出した。
パジャマ代わりの服を脱ぎ捨て、外出用のズボンに足を通す。
シャツのボタンを掛け違えそうになりながら、乱暴に身支度を整えた。
財布とスマートフォンをポケットにねじ込み、玄関へ向かう。
靴を履き、ドアノブを回して外へ出た。
冷たい外気が、俺の頬を打った。それに構わず俺は階段を駆け下り、外の通りへと出た。
俺の足は、無意識のうちに彼女の家がある方向へと向かっていた。
彼女の家は、俺の住む集合住宅から徒歩で十分程度の距離にある、一般的な戸建ての住宅だ。
過去に何度か、彼女の家の前まで付き合わされたことがある。
あそこへ行けば、彼女がいるはずだ。彼女の家族がいて、彼女が生活している家があるはずだ。
俺は早足で住宅街の道を歩き続けた。
周囲の景色は、俺の記憶にあるものと何も変わっていない。
道の角にあるコンビニエンスストア。
ブロック塀に囲まれた古い家々。
すべてが、俺の知っている通りの場所にある。
すれ違う人間たちは、それぞれが自分の目的を持って歩いている。
犬の散歩をしている老人。
自転車に乗って通り過ぎる主婦。
彼らは俺の焦燥など知る由もなく、自分たちの日常を平然と浪費している。
俺の呼吸が、少しずつ荒くなっていく。
足の筋肉が疲労を訴え始めるが、俺は歩く速度を落とさなかった。
俺の脳が選び出したこの世界。
昨日とは別の前提を持つ現実。
だが、彼女が存在しない現実など、あってはならない。
あの地下室で、俺は自らの見当識を切り離す手術を受けた。
それは、俺の最も強い願望である彼女が生存している現実を脳に構築させるための処置だったはずだ。
俺の代行機能は、彼女がいる世界へ俺を接続しなければならない。それは大前提だ。
やがて、目的の区画が見えてきた。
十字路を右に曲がり、緩やかな坂道を上る。
その坂の途中に、彼女の家がある。
白い外壁と、小さな庭のある二階建ての家。
表札には、若菜という文字が刻まれているはずだ。
俺は坂道を上りきり、彼女の家があるはずの場所の前に立った。
俺は、立ち尽くした。
そこには、家がなかった。
白い外壁も、小さな庭も、若菜と刻まれた表札もない。
そこにあったのは、周囲を簡素なロープで囲まれただけの空き地だった。
俺は、自分の目を疑った。
何度も瞬きをし、周囲の家並みを確認する。
隣の家は、記憶にある通りの灰色の外壁だ。その向かいの家も、青い屋根のままだ。
場所を間違えているわけではない。
ここが、間違いなく彼女の家があった場所だ。
俺は一歩、空き地に向かって足を踏み出した。
ロープのすぐ手前で立ち止まる。
むき出しの土が、視界の奥まで広がっている。
雑草が生い茂っている土。
そこから、湿った匂いが立ち上り、俺の鼻を突いた。
太陽の光がアスファルトに反射し、その照り返しが俺の足元を容赦なく熱している。
建物が解体された痕跡すらない。
まるで、最初からこの場所に家など存在しなかったかのように、ただ平らな土の地面がそこにあるだけだった。
「……どういうことだ」
俺の口から、掠れた声が漏れた。
家がない。
彼女の存在を証明するものが、何もない。
空き地。
スマホのアプリ。
総合すると、若菜ユイという存在は初めから存在していないことになっているのだ。
俺の脳が、若菜が存在しない現実を解釈してしまった。
ということは、俺の最も望む世界を再構築するはずの手術が、根本から破綻していることになる。
俺は、その事実を突きつけられ、呼吸が浅くなるのを感じた。
あの時、ソラナが語った現状。俺の見当識を代行している大脳皮質が睡眠を経た機能低下のちに、適当に選び出した現実。
それが、最も忌避すべき最悪の可能性世界を引き当ててしまった。
若菜ユイのいない世界。
俺は背を向け、空き地から離れるように歩き出した。
まだだ。まだ確認できる場所がある。
俺は足早に、自分が通っている学校へと向かった。
◇
学校に到着したのは、一時間目の授業が始まっている時間だった。
もはや言い逃れができないほどの遅刻だったが、俺にとってそんなことはどうでもよかった。
校門を抜け、コンクリートで舗装された校地を歩く。
校舎からは、教師の授業を行う声や、グラウンドで体育の授業を受けている生徒たちの声が聞こえてくる。
俺は自分の教室には向かわず、直接一年生の教室がある階へと向かった。
階段を上り、廊下を歩く。
授業中のため、廊下には誰もいない。
俺は、彼女が所属しているはずの教室の前で立ち止まった。
後方のドアのガラス越しに、教室の中を覗き込む。
生徒たちは皆、前を向いて教師の話を聞いている。
俺は、彼女の席があるはずの場所を探した。
窓側から二列目、後ろから三番目。
そこには、俺の全く知らない男子生徒が座り、ノートにペンを走らせていた。
周囲の席にも、彼女の姿はない。
俺はドアから離れ、壁に背中を預けた。
彼女がいない。
俺の世界の中に、彼女の姿が存在しない。
俺は廊下を歩き、職員室へと向かった。
職員室のドアを開ける。
空調の効いた室内には、空き時間の教師たちが机に向かって作業をしていた。
俺は、一年生のクラスを受け持っている、若い女性の英語教師の机へと向かった。
彼女がパソコンの画面から視線を外し、こちらを見た。
「君は……二年の、一条くんだったよね。今は授業中のはずだけど、どうしたの」
「確認したいことがあります。一年生の、若菜ユイについてです」
俺は単刀直入に尋ねた。
「若菜ユイ?」
教師は首を傾げる仕草をした。
「はい。彼女が今日、学校を休んでいるかを知りたいんです」
「若菜、ユイさん……。ごめんなさい、私、一年生全員の名前がぱっと出てくるわけじゃないんだけど……そんな名前の生徒、学年にいたかしら」
教師の口から出たのは、予想通りでありながら、最も聞きたくない言葉だった。
「いない、ですか」
「ええ。少なくとも、私の担当しているクラスにはいないわ。別の学校の生徒と勘違いしているんじゃないの?」
教師は怪訝な顔をして、俺の顔を見つめ返した。
「……名簿を、確認してもらえませんか?お願いします!」
俺は声を絞り出し、懇願するように言った。
俺の切迫感に気圧されたのか、教師は少し戸惑うような顔をしてから、机の引き出しから分厚いファイルを取り出した。
「わかったわ。これが一年生の全生徒のリストよ」
彼女はページをめくり、名簿が印刷された紙を提示した。
「ほら、見て。五十音順に並んでいるけど、若菜という名前はないわ」
俺は、その名簿の文字を上から下へと目で追った。
わ行の欄。
渡辺、和田……若菜という苗字はない。
若菜ユイという名前は、どこにも記載されていなかった。
「……わかりました。お忙しいところ、すみませんでした」
俺は頭を下げ、職員室を出た。
廊下に出ると、自分の足がひどく重く感じられた。
一歩を踏み出すごとに、極端な疲労感が足を引き止めているような感覚がある。
俺は廊下の窓際に行き、外の景色を眺めた。
グラウンドでは、生徒たちがボールを追いかけて走り回っている。
彼らの笑い声が、遠くから聞こえてくる。
この世界には、若菜ユイが存在しない。
俺の脳が、彼女を認識することを放棄したのだ。
あの医科大学の地下室で、俺は彼女が生きている現実を取り戻すために、自らの見当識を切り離した。
その処置によって、俺の脳は最も望む現実への接続されてきた。
確かに俺は、彼女がいる現実に接続された。何度も。
だが、大脳皮質による代行機能は、睡眠によってその連続性こそ維持できなかったが、これまでは正常に若菜のいる世界を選び出していた。
しかし、今、俺の脳は、彼女が存在しないという全く別の前提を選び出してしまった。
俺は、窓枠を強く握りしめた。
力を込める。手のひらに、アルミサッシの冷たい感触が食い込んでいく。
俺は、激しく打ちのめされていた。
彼女が交通事故で死んだという現実から逃げるために、俺は自らの脳を差し出した。
その結果が、彼女が最初から存在しない世界だというのか。
俺が求めていたものは、こんな虚無ではない。
俺の隣で、騒がしく話しかけてくる彼女の存在だ。
彼女の温もりと、俺の名前を呼ぶ声だ。
それらがすべて、初めから存在しなかったことになっている。
俺の存在意義そのものが、根底から崩れ去っていくのを感じた。
彼女がいない世界で、俺はどうやって生きていけばいいのだ。
俺は、誰もいない廊下で、ただ一人立ち尽くしていた。
どこへ向かえばいいのか、何をすればいいのか。
その判断を下すための前提条件が、俺の中から永久に失われていた。
外の光が、ゆっくりと俺の身体を照らしている。
しかし、俺は、深く、暗い絶望の底へと沈んでいた。




