第十四話:根源的事象
うるさいスマホアラームが聞こえてきた。
俺は目を覚ます。
朝。そういえば、昨日はひどい目にあった気がする。
周囲は一人部屋。俺の部屋であり、自室だった。
隣には、誰もいない。
そして、思い出してきた。若菜ユイ。ソラナ。あの時――。
俺はベッドの上で上半身を起こし、じっと耳を澄ませた。
玄関のインターホンが鳴る気配はない。
あの騒がしい後輩が、俺の睡眠を強制的に中断させ、部屋の中に上がり込んでくる気配は、どこにもなかった。
俺は、さっと枕元に置いてあったスマートフォンに手を伸ばした。
画面を点灯させる。
時刻は午前八時を回っていた。
画面には、何の通知も表示されていない。
俺の中の昨日と同じだった。
俺はメッセージアプリを開き、トークの履歴一覧を表示させた。
一番上に表示されているのは、クラスのグループトークの事務的な連絡のみ。
画面を下にスクロールする。
俺が昨日という現実で探し回った名前は、やはりどこにもなかった。
若菜ユイはいない。
画像アプリを開いても、連絡帳を確認しても、結果は同じだった。
俺はスマートフォンをベッドの上に放り出し、立ち上がった。
フローリングの冷たさを足の裏に感じながら、台所へと向かう。
水切りカゴの中を見る。
そこには、俺が普段から使っている紙コップだけがある。
彼女が勝手に持ち込んだはずの、黄色の花柄やグレーのマグカップはない。
窓際に視線を移す。
窓際には何もない。
俺は、ソラナと再会した後、逃げるようにふて寝をした。
そして、今――。
あれは一過性の悪夢ではなかった。
俺は、自分がひどく都合の良い期待を抱いていたことに気がついた。
昨日、俺は若菜が存在しないという現実に接続された。
俺の見当識を代行している大脳皮質が、睡眠による活動低下を経て、適当な現実を再構築した結果だ。
だからこそ、俺は昨日、さっさと寝たのだ。
次に目を覚ました時には、大脳皮質がまた別の現実を選び出し、少なくとも彼女が存在する前提の世界に戻っているのではないかと。
あれは何かの間違いなのだ、と。
だが、現実は違った。
俺の脳は、今日もまた、若菜が存在しないという前提を選択したのだ。
おそらく、昨日と同じように、彼女の家は空き地であり、学校の名簿に彼女の名前はないのだろう。
俺は台所の壁に背中を預け、ゆっくりと床に座り込んだ。
なぜだ。
俺の頭の中で、疑問が渦を巻く。
あの医科大学の地下室で、俺は自らの見当識を切り離す手術を受けた。
それは、俺の最も強い願望である彼女が生存している現実を脳が選ぶようにするための、一度きりの大手術だった。
俺の大脳皮質は、彼女がいる世界へ俺を接続しなければならない。それが代行機能に与えられた大前提だったはずだ。
なのに、なぜ俺の脳は、彼女が存在しないという現実を選び出し、さらにそれを維持しているのか。
思考を巡らせるうちに、ある推論が俺の頭に浮かんだ。
脳が、俺の最も望む現実を選び出しているというのなら。
俺の深層心理が、彼女のいない世界を望んでいるということか。
俺は自分の両手を見つめた。
手術を受けてからというもの、俺は終わりのない変転に苛まれてきた。
毎日、彼女と出会い、時間を共有し、そして眠るたびにその関係性が断ち切られる。
蓄積のない関係性。共有できない過去。
俺はその徒労感に精神を削られ、一人になることを選ぶほどに追い詰められていた。
俺の代行機能は、俺のその疲労を読み取ったのではないか。
関係性が途切れる痛みに耐え続けるくらいなら、最初から彼女が存在しない世界の方が、苦痛は少ない。
それが、俺の脳が導き出した最適解だったのではないか。
俺の脳がこの現実を選んだというのか。毎日のように関係性が途切れる痛みに耐えきれず、あえて彼女のいない世界を望んでいるというのか。ふざけるな。
俺は、壁に後頭部を打ち付けた。
鈍い痛みが、頭に走る。
俺は彼女が生きている現実を取り戻すために、自らを差し出したのだ。
それなのに、俺自身の機能が彼女を拒絶したというのか。
俺の意志とは無関係に、俺の生理的なメカニズムが彼女を消し去ったというのか。
激しい自己嫌悪が、俺の身体の内側から込み上げてきた。
俺は自分の無意識を呪った。
なんて浅ましく、弱い生き物なのだ。
苦痛から逃れるためなら、目的そのものを放棄してしまう。
俺は立ち上がり、洗面所へと向かった。
蛇口を捻り、冷たい水を両手で受ける。
顔を洗い、水滴をタオルで拭き取った。
鏡の中の俺の顔は、ひどく疲労し、目の下には隈ができている。
だが、この部屋にいると、俺は自分の無意識への怒りで自我を保てなくなりそうだった。
俺はクローゼットから適当な外出用の服を取り出し、身に付けた。
財布とスマートフォンをポケットに入れ、玄関へ向かう。
靴を履き、外へ出た。
◇
外は、日差しが強く、不快な熱気がアスファルトから立ち上っていた。
俺は当てもなく、街の中を歩き始めた。
どこへ向かうという目的はない。ただ、狭い部屋の中で自分の醜い深層心理と向き合い続けることに耐えられなかっただけだ。
駅前の繁華街へと足を向ける。
休日のためか、街には多くの人間が溢れていた。
買い物を楽しむ家族連れ。
大声で笑い合う学生の集団。
彼らは皆、自分の人生の連続性を疑うことなく、この時間を消費している。
彼らの足音が、アスファルトを叩く音が、重なり合って耳に届く。
俺は人混みを歩き続けた。
足の筋肉が、徐々に疲労を訴えてきている。
喉が渇き、口の中がひどく乾燥していた。
俺は道の端に設置されている自動販売機に立ち寄り、ミネラルウォーターのペットボトルを買った。
キャップを開け、冷たい水を喉に流し込む。
液体が食道を通って胃に落ちていく感覚が、ここが悪夢かと主張するかのように生々しかった。
身体はこうして、生理的な欲求を訴えてくる。
水分を補給し、歩けば疲労する。
俺の肉体は間違いなく正常に機能している。
だが、俺の脳が認識している現実は、俺の最も望まない状態を維持し続けている。
いや、ある意味で俺の深層心理は正直になっているのかもしれない。
俺は首を振った。
いや、若菜と再び出会うためにすべてを捨てたのに、ここで捨ててしまうなんて。
ありえないことだ。あってはならないことだ、と。
俺は空になったペットボトルをごみ箱に捨て、再び歩き出した。
大きな交差点に差し掛かる。
歩行者用の信号が赤になり、大勢の人間が横断歩道の手前で足を止めていた。
俺もその集団の後方に立ち、信号が青に変わるのを待つ。
周囲からは、様々な会話の断片が聞こえてくる。
今日の昼食の予定。たわない日常の会話。
それらの言葉は、俺の頭の表面を滑り落ちていくだけで、何の意味も持たなかった。
俺はただ、目の前のアスファルトを見つめていた。
すると、前方に立つ集団の中に、見なれた人物がいることに気がついた。
周囲の人間がスマートフォンを見たり、隣の人間と話したりして細かく身体を動かしている中で、その人物だけが、ゆっくりと前を見据えている。
肩下まで伸びた黒い髪。
細身の身体には、灰色の地味なパーカーと黒いスラックスを身に付けている。
白衣は着ていない。
だが、その背中から醸し出される、他者への関心を一切持たない無機質な気配は、ある人物と一致していた。
ソラナだった。
歩行者用の信号が青に変わった。
電子音が鳴り、人々の集団が一斉に歩き始める。
ソラナもまた、それに合わせて横断歩道を渡り始めた。
俺は彼女を見失わないように、人混みを掻き分けて前へと進んだ。
彼女の歩く速度はそれほど速くないが、一切の迷いがないため、周囲の人間を避けながらスラスラと進んでいく。
俺は周囲の人間を避けながら、彼女へ近づいていく。
横断歩道を渡り切り、駅前の広場に出る。
俺は早歩きになり、彼女の真後ろまで迫った。
「おい、ソラナ」
俺は彼女の背中に向かって、短く声をかけた。
周囲の雑踏の音に紛れて聞こえなかったのか、彼女は歩みを止めない。
俺はさらに一歩踏み出し、彼女の肩を掴んだ。
彼女は歩くのをやめ、ゆっくりと振り返った。
そこにあったのは、間違いなく俺の知っているソラナの顔だった。
顔の筋肉を全く動かしていないかのような、感情の読めない無表情。
彼女は俺の顔を認識すると、わずかに首を傾げた。
「あなたか」
抑揚のない声。
間違いなく、俺に手術を施したあの女だ。
「なぜ、お前がこんなところにいる」
俺は彼女の肩から手を離し、問い詰めた。
「私の行動に、あなたへの説明義務はない。私は自分の休日の予定を消化しているだけ」
彼女は淡々と答えた。
その態度は、医科大学の研究室で会った時と何ら変わらない。
「お前は言ったはずだ。俺の手術から半年以上が経過していて、お前は自分の研究を継続していると。お前に話すことがある!」
俺の言葉には、苛立ちが混じっていた。
「大声で話さなくとも、伝わる」
彼女の主張は、いつもどおり客観的だった。
「ああ、そうだな。だが、俺は急いでいる」
彼女は俺の言葉を否定し、言葉を続ける
「この今の俺の状況も説明しろ、おいこっちへ来い!」
俺は周囲を歩く人間たちから少し距離を取り、彼女を広場へと誘導した。
彼女は抵抗することなく、俺の歩調に合わせた。
「俺の脳が、若菜が存在しない現実を選んでいる。しかも、昨日と今日の二日間連続で、その前提が維持されている。俺の最も強い願望を引き出すはずの代行機能が、なぜこんな真似をする」
俺が問いかけると、ソラナは俺の顔を静かに観察した。
「あなたが現在、彼女が存在しない世界を認識していることは理解した」
彼女は短く頷いた。
「最初の手術時の薬剤と電気刺激は、あなたが望む現実を選ぶように設定されている」
「ああ、何度も聞いた!」
「それはあなたの主観では、彼女の生存という現実への接続を補助するための処置だった」
「だから聞いている。毎回無作為に現実を接続し直すなら、なぜ二日連続で彼女がいない世界が続くんだ。俺の深層心理が、あいつのいない世界を望んでいるとでもいうのか」
俺は自分の抱えていた疑念を、彼女にぶつけた。
「人間の脳は、過度なストレスから自己を保護する機能を持っている」
ソラナは、講義を行うような口調で言った。
「あなたは毎日、関係性が断絶されるという強い苦痛を経験した。大脳皮質は、その苦痛の原因が『彼女が存在し、そして失われることの反復』であると学習した可能性がある」
「学習した、だと」
「そう。苦痛を回避するための合理的な判断として、大脳皮質は『最初から彼女が存在しない現実』を好ましい状態として選択した。そして、その状態が自己保護に最適であると判断している限り、睡眠を経てもその前提を維持しやすくなる」
彼女の言葉は、俺の最悪の予想を医学的な見地から肯定するものだった。
「俺の脳が、あいつを切り捨てたというのか」
俺の声は、低く掠れていた。
「生理的な防衛反応」
彼女は無表情のまま、残酷な事実を言い放つ。
「俺は、あいつに会うためにすべてを捨てた。それなのに、俺自身の防衛反応がそれを拒むなら、俺の手術には何の意味もなかったことになる」
俺は両手で顔を覆った。
絶望という言葉すら生ぬるい。
俺は自分自身の肉体に裏切られ、最も望むものを自らの手で消し去ってしまったのだ。
「あなたの手術の目論見は、最初の接続においては成功していたらしい。しかし、代行機能の限界と、あなた自身の精神的な変化が、結果として現在の状況を引き起こした。それは機能的な帰結に過ぎない」
ソラナの言葉には、慰めも同情もない。
「……どうすれば、元に戻る」
俺は彼女の顔を見た。
「元に戻る?」
「ああ。どうすれば、俺の脳は再び彼女がいる現実を選び出すようになる。どうすれば、この防衛反応を解除できるんだ」
俺の問いに対して、ソラナは少しだけ首を振った。
「私にはわからない。主観的に起きている判断基準を、外部から制御することは不可能。大脳皮質が、彼女の存在を再び許容できる状態になるまで待つか、あるいは判断基準が変わるか。主観的な事象に対して方法は存在しない」
確実な方法は存在しない。
それは、俺がこのまま永久に、彼女のいない世界に閉じ込められる可能性があることを意味していた。
「お前は俺の手術をした人間だろう。もう一度処置を行え!」
俺は彼女のパーカーの胸ぐらを掴んだ。
布の厚い感触が手にある。
だが、ソラナは全く抵抗する素振りを見せず、ただ俺の目を見つめ返した。
「おそらく、無意味」
「やってみないと分からないだろ!」
「あなたの主観が彼女のいない状況を望む限り、同じ状況が継続する」
俺は彼女の言葉に、力の行き場を失った。
掴んでいた手を離す。
彼女は乱れた襟元を直すこともなく、ただそこに立っていた。
「……もういい」
俺は背を向けた。
彼女にこれ以上何かを求めても無駄だということは、わかっていた。
それにソラナの主張が俺には痛いほど、理解できていた。
繰り返される若菜との時間。
たしかに苦痛に感じていたのは事実だからだ。
俺は振り返ることなく、歩き出した。




