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水槽の脳は君の夢を見るか?  作者: 速水静香


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第十五話:思い出のない君

 ソラナから事実を告げられた後、自分がどのようにして自室まで戻ってきたのか、記憶はない。

 ただ、気がつけば俺は、西日の差し込む自室のフローリングの上に座り込んでいた。

 背中を壁に預け、両足を投げ出していた。


 窓の外から、道路を走る車両のエンジン音や、遠くで話す他人の声が聞こえてくる。

 だが、この部屋の中は徹底して無音だった。

 視線を台所に向ける。水切りカゴの中には、俺が普段から使っている無地の紙コップだけが置かれている。彼女が勝手に持ち込んだ黄色の花柄のマグカップはない。

 窓際に目を向ける。そこにあるはずの小さな植物の鉢植えもない。

 若菜ユイが存在したという痕跡は、何一つ残されていない。

 ここは、俺の脳が選び出し、維持し続けている「彼女が存在しない」という前提の現実だ。


 俺の耳の奥で、ソラナの抑揚のない声が何度も反復されていた。


『大脳皮質は、その苦痛の原因が、彼女が存在し、そして失われることの反復であると学習した』

『苦痛を回避するための判断として、最初から彼女が存在しない現実を好ましい状態として選択した』


 生理的な防衛反応。

 俺は、両手で自分の頭を抱え込んだ。

 指先が頭皮に触れる。この堅牢な頭蓋骨の内側にある、臓器。

 俺はあいつに会うために、見当識を司る部位を切り離した。俺の最も強い願望である、彼女が生きているという現実を選ぶために。

 それなのに、俺自身の肉体が、その願望を拒絶した。


 毎日、関係性が断絶されるという苦痛。

 一緒に食事をし、言葉を交わし、時間を共有しても、眠りに落ちて目覚めれば、また別の前提が立ち上がり、昨日の出来事はなかったことにされる。

 蓄積のない関係性。共有できない過去。

 確かに、俺はその終わりのない反復に疲労し、精神をすり減らしていた。

 だが、だからといって、彼女の存在そのものを消し去ることを望んだ覚えはない。


 俺の意識と、俺の脳が、乖離している。

 俺の脳は、俺の意識的な強い意志よりも、単なるストレスの回避という生物としての本能を優先したのだ。

 関係性が途切れる痛みに耐え続けるくらいなら、最初から彼女が存在しない世界の方が、処理する苦痛は少ない。

 それが、俺の脳が導き出した答えなのだろう。


 これほど浅ましい話があるだろうか。

 俺は、自分がひどく馬鹿馬鹿しい生き物に思えた。

 客観的な真実を捨て、彼女がいるという主観的な現実を手に入れたつもりでいたが、結局のところ、それは結局最後に裏切られた。

 俺の意志など、生物学的な機能の前には何の意味も持たなかったのだ。


 激しい自己嫌悪が、内側からせり上がってくる。

 俺は壁に後頭部を打ち付けた。

 鈍い痛みが走る。

 脳に痛みはない。つまり、その痛みは皮膚やその他の部位からの情報伝達の結果だ。それを受け取った俺の脳が処理をしたものに過ぎないと思うと、ひどく白々しいものに感じられた。


 太陽が傾き、部屋の中に伸びていた光の面積が徐々に小さくなっていく。

 やがて日が落ち、部屋は暗闇に覆われた。

 俺は、ただ暗い床の上に座り続けていた。

 なにも気力が湧かない。


 このまま、どうすればいいのだ。

 大脳皮質が、彼女の存在を再び許容できる状態になるまで待つか、何か判断基準が変わるまで待つ。

 待つ。それはつまり手がないということだ。つまり、俺がこのまま、彼女のいない世界に永久に閉じ込められる可能性は十分にある。


 夜が深まり、周囲の生活音も途絶えていく。

 静寂。やがて、俺のまぶたが、少しずつ重くなっていくのを感じた。

 肉体が、睡眠による休息を要求している。

 だが、俺は眠ることを恐れた。


 眠れば、大脳皮質の活動が著しく低下する。

 そして目覚めた時、再び前提が構築される。

 明日もまた、彼女が存在しない現実が続くのだろうか。

 それとも、俺の脳はまた別の現実を求めるのだろうか。

 どちらにせよ、俺の意識の及ばないところで、俺の現在が決定されてしまう。


 その事実が恐ろしかった。


 俺は両手で自分の腿を強くつねり、意識を覚醒させようと試みた。

 だが、精神の摩耗と肉体の疲労は、俺の小さな抵抗を容易に上回った。

 フローリングの冷たさが、体温を奪っていく。

 思考の焦点が定まらなくなり、暗闇の中で様々な映像が脈絡もなく浮かんでは消えていく。

 彼女のいない空き地の光景。

 ソラナの感情のない顔。

 そして、かつてこの部屋で笑っていた若菜の姿。


 俺はただ、浅い呼吸を繰り返すことしかできなかった。

 抗う術を持たないまま、俺の意識はゆっくりと底なしの暗闇へと沈み込んでいく。



 ブブッ、ブブッ。


 連続する短い振動音が、耳に届いた。

 俺は床の上から跳ね起きるように上体を起こした。硬いフローリングの上で長時間同じ姿勢で寝ていたため、背中から腰にかけて鈍い痛みが走る。

 視界はまだぼやけていたが、俺は音の鳴る方へ手を伸ばした。

 スマートフォンは、昨日俺が床に放り出したままの位置にあった。

 冷たい端末を掴み取り、画面を点灯させる。

 午前七時。

 通知の欄に、短い文章が並んでいる。


『おはようございます! 今日もいい天気ですね!』

『先輩、ちゃんと起きてますか? あと五分で家に着きますからね!』


 送信者の名前は、若菜ユイ。


 俺の口から、深く長い呼気が漏れた。

 画面には、確かに彼女の名前がある。彼女が入力した言葉が存在している。

 この現実には、彼女がいる。

 首の裏に冷たい汗をかいているのがわかった。俺はただ、画面の中の文字を何度も視線でなぞった。昨日、俺の大脳皮質は、関係性が失われる苦痛を回避するという生物学的な防衛反応から、彼女が最初から存在しない前提の現実を選び出していた。

 だが、今日は違う。

 睡眠による活動低下を経て、俺の代行機能は再び彼女のいる現実へと接続したのだ。

 彼女が生きている。

 その事実を認識しただけで、昨日俺の全身を覆い尽くしていた極端な疲労が、一時的にせよ抜け落ちていくような感覚があった。


 ピンポーン。ピンポーン。


 部屋の静寂を破るように、玄関のインターホンが立て続けに鳴った。

 俺は立ち上がり、足裏にフローリングの冷たさを感じながら玄関へと向かった。

 鍵を開け、金属のドアノブを回す。


「おはようございます、先輩!」


 扉を開けた先に、指定のブレザーを着た彼女が立っていた。

 肩まで伸びた髪が、朝の風に小さく揺れている。

 俺の顔を見るなり、彼女は屈託のない笑顔を向けた。

 俺の視覚が、彼女の姿を捉える。聴覚が、彼女の少し高い声を拾う。そのすべての情報が、彼女の存在を揺るぎない現実のものとして俺の脳に伝達してくる。

 俺が最も望んだ、彼女が生存しているという事象。


「なんだか、すごくひどい顔してますよ。また夜更かししたんですか?」


 彼女は俺の顔を下から覗き込み、少し不満そうに口を動かした。


「……いや。ただの寝不足だ」


 俺の声は、自分でも驚くほど低く掠れていた。


「はあ、まったく。ほら、早く中に入れてください。朝ご飯、まだですよね」


 彼女は俺の返事を待つことなく、俺の脇をすり抜けて部屋の中へと入っていく。

 俺は扉を閉め、ゆっくりと彼女の後ろ姿を追った。

 彼女は自分の鞄をローテーブルの上に無造作に置き、そのまま迷うことなく台所へと向かう。

 冷蔵庫を開け、中身を確認する動作。

 それは、俺がこれまでに何度も見てきた日常の光景と全く同じだった。

 俺は部屋の中央に立ち、彼女が動く様を静かに観察していた。

 昨日、この部屋に彼女は存在しなかった。彼女の持ち物も、彼女がいた痕跡も、すべてが消え失せていた。

 だが、今日はここにいる。

 俺の大脳皮質が、彼女の存在を再び許容し、この前提を選び出したのだ。

 そう考えると、人間の脳という器官の働きが、ひどく滑稽なものに思えてきた。俺の強い意志とは無関係に、ただ生理的な判断だけで世界が構築され、そして破棄される。


「卵と、パンがありますね。フレンチトーストでも作りますか」


 若菜が台所から振り返り、楽しそうに提案してきた。


「俺はなんでもいい。お前の好きなようにしろ」


 俺はローテーブルの前のカーペットに座った。

 彼女がフライパンを取り出し、コンロに火をつける。調理を始める音。

 ボウルの中で卵を溶く音。フライパンの上でバターが熱され、溶けていく匂い。

 極めて生々しく、若菜がいるという情報で、俺の周囲を満たしている。

 彼女の靴下がフローリングを擦る音や、動くたびに微かに香るシャンプーの匂い。

 すべてが現実だ。


 しかし、彼女の後ろ姿を見つめながら、自分の内側にある感情の揺れ動きを感じていた。

 彼女が生きている。俺の目の前で、料理を作っている。

 俺はただ、この光景を望んでいたはずだ。

 昨日、彼女のいない世界に放り出された時、俺はどれほど彼女を求めたか。

 今、こうして彼女が目の前にいる時間を、ただ素直に受け入れればいいのではないか。

 明日になれば前提が変わるとしても、今日という一日だけはこの温もりを享受すればいいのではないか。


 だが、俺の思考はひどく冷めきっていた。


 俺が求めていた彼女とは、誰なのか。

 今、目の前にいるのは、間違いなく若菜ユイだ。誰かが作った偽物でも、俺の脳が都合よく見せている夢の中でもない。この現実における、本物の彼女だ。

 だが、彼女は俺の知っている過去を持っていない。


 そうだ。


「……なあ、若菜」

「はい? なんですか?」


 彼女はフライパンから目を離さず、声だけで答えた。


「もやしハンバーグの約束、覚えているか」


 俺の言葉が、部屋の空気を伝わっていく。

 彼女が交通事故に遭う前日。俺の部屋で交わした、指切り。

 俺がこの代行機能による現実の選択を受け入れるに至った、最も根源的な記憶。

 若菜が若菜だとしたら、あの約束は共有されていなければならないはずだ。


 若菜はフライパンを動かす手を止め、ゆっくりとこちらを振り返った。


「もやしハンバーグ? なんですかそれ。新しい料理のレシピですか?」


 その顔には、純粋な疑問だけが浮かんでいた。


「ハンバーグにもやしだけって、ちょっと貧乏くさくないですか?」


 彼女は悪戯っぽく笑い、再びフライパンに向き直った。

 俺の言葉は、彼女にとっては単なる冗談か、意味不明な発言として処理された。

 彼女の態度に、嘘をついている様子は一切ない。


 少なくとも、この現実には、あの約束は存在していない。

 俺の化学処理された脳が、どれだけ彼女のいる現実を選び出そうとも――彼女は、あの事故のあった過去とは関係のない、別の現実に生きている若菜なのだ。

 俺が大切にしている、あの記憶は、この世界ではただの俺一人の妄想に過ぎない。


 そして間違いなく、俺が今夜眠りに落ちれば、大脳皮質の活動は低下し、この現実との接続も失われる。

 明日になれば、また別の前提を持つ彼女が現れる。今日、目の前にいる彼女とは、二度と会うことはできない。

 あるいは、また彼女が存在しない現実に放り出されるかもしれない。


 俺は、何のためにここにいるのだ。

 彼女が隣にいても、俺は永遠に一人だ。

 俺がどれだけ言葉を尽くしても、その言葉は明日の彼女には届かない。


「はい、できましたよ。熱いうちに食べてくださいね」


 若菜が、湯気の立つ皿を俺の前に置いた。

 焼けた卵と砂糖の甘い匂いが鼻をつく。

 彼女は自分の分の皿も持ち、俺の向かい側に座った。


「いただきます」


 彼女が両手を合わせる。

 俺は箸もフォークも手に取らなかった。

 ただ、皿の上にある食事をじっと見下ろしていた。


「先輩? 食べないんですか? 冷めちゃいますよ」


 若菜が不思議そうに俺を見る。

 俺は顔を上げ、彼女の目を見た。

 その視線の中に、俺の姿が映っている。

 そうだ、この前にいる若菜の認識の中にある一条レイジは、俺ではない。昨日までいた、この現実にいた俺なのだ。


 そこまで考えると、俺はもう何もかもが嫌になってしまった。


「……もういい」


 思わず、俺はそう呟いた。


「え? もういいって、食欲ないんですか?」

「すべてが、もういいんだ」


 感情が抑えきれず、俺は立ち上がった。


「せ、先輩? どうしたんですか、急に」


 若菜も立ち上がり、俺に向かって手を伸ばそうとする。

 俺は彼女の動きを無視し、背を向けた。


「もう二度と来ないでくれ。俺にかかわるな」


 俺の言葉に、彼女の動きが止まった気配がした。

 今の彼女には、俺の態度は理解不能なものだろう。戸惑いしかないはずだ。

 俺は振り返ってその顔を見るのが耐えられなかった。

 彼女を傷つけたいわけではない。だが、俺はもう、この無意味な終わりのない反復に付き合う気力を失っていた。

 彼女を失う前の約束。それすらも彼女とは共有されていない。

 もし、仮に今日の若菜と関係を築いたとしても、それが翌日にはなかったことにされる。そのたびに喪失感を味わうことに、俺の精神は耐えられなくなっていた。


「俺は、外に出る。追いかけてくるな、絶対に」


 俺はそれだけ言い残し、そのまま玄関へと向かった。


「待ってください! 先輩、本当にどうしたんですか!」


 彼女の呼ぶ声が背中から聞こえる。

 俺は一度もその方向を向かないことで、それに答えた。


「先輩…」 

 

 後ろからは、泣き縋るような声が聞こえてきた。

 しかし、俺はすべて無視した。

 そのままスニーカーを履き、逃げるように、玄関の扉を開けて外へ出た。


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