第十六話:空疎
アパートの階段を駆け下り、外の通りへと出た。
彼女は追ってきていない。
ただ、一度も俺は立ち止まることなく、ただ前だけを見て歩き始めた。目的の場所などどこにもない。ただ、あの部屋から、あそこにいる彼女から、一秒でも早く、一メートルでも遠くへ離れたかった。
俺の脳裏には、先ほど俺が放った拒絶の言葉を聞いた時の、若菜の声が焼き付いて離れなかった。
昨日まで普通に接していた俺から、突然あんな冷酷な言葉を投げつけられたのだ。彼女にとって、俺の行動は全く理解不能な理不尽でしかなかったはずだ。
彼女を傷つけたいわけではなかった。
俺はただ、彼女の存在を求めていた。彼女がそこにいて、笑いかけてくれるだけで良かったはずなのだ。
だが、現実は違った。
目の前にいる彼女は、俺とは違う。俺の知っている彼女ではない。あの日の指切りの約束を知らない彼女は、俺にとって見知らぬ他人と同義だった。いや、彼女自身は本物の若菜ユイなのだ。俺の脳が選び出した、この現実における正真正銘の彼女だ。だからこそ、余計に始末が悪かった。
それに関係性を築き上げても、眠りに落ちればすべてはなかったことにされる。
今日、彼女の笑顔に救われ、彼女の温もりに触れたとしても、明日にはまた別の前提を持つ彼女が現れる。今日この瞬間に俺を心配してくれた彼女とは、二度と会うことはできない。
その無意味さ。
だから、自らその関係を壊した。得る前に手放せば、失う痛みは最小限で済むという、極めて自己中心的で浅ましい逃避かもしれない。
俺は歩く速度を速める。
息が上がり、冷たい空気が気道を刺激して咳き込みそうになる。
周囲の住宅街の景色は、俺の中の昨日。その昨日、歩いた時と何一つ変わっていなかった。
住宅地。それは極めて正常で、ありふれた朝の光景だった。
しかし、俺という存在からは極めて遠い場所。
俺はただ、この終わりのない変転の中を、一人で漂い続けるしかないのだ。
俺という存在は、ただ「今日」という断絶された現実の中にのみに捉われている。
足の筋肉が、じわじわと疲労を訴え始めていた。
どれだけの距離を歩いたのかはわからない。だが、俺は立ち止まることを拒否し、ひたすらに足を前に出し続けた。
立ち止まってしまえば、俺の思考は再びあの部屋にいる若菜の姿を思い描いてしまう。
一人で残された彼女は、今頃どうしているだろうか。
俺の理不尽な態度の理由を考え、悩んでいるのだろうか。それとも、怒って学校へと向かったのだろうか。
どちらにせよ、俺が彼女にしたことは、最低の裏切りだ。
彼女と会うために、見当識の切断などという手術を受けたはずだった。そして、彼女のいない現実にいたときは、あれほど彼女との再開を求めていたのに、結果として俺は自らの手で彼女を拒絶する。
自己嫌悪が、どす黒いヘドロのように俺の内側に溜まっていく。
俺は、彼女の死という現実から逃げるために、自らの見当識を放棄した。そして今度は、再構築された現実における関係性の喪失から逃げるために、彼女自身を放棄した。
俺はどこまでも逃げ続けているのかもしれない。
直面する苦痛に耐える強さを持たず、ただ楽になるための選択肢ばかりを無意識のうちに選んでいる。
大通りに出た。
片側二車線の広い道路には、多数の車両が速度を上げて行き交っていた。
歩道にも、多くの人間が溢れていた。
駅へ向かう人が、絶え間なく続いている。
俺はその歩道の端に立ち、目の前を通り過ぎる車列をぼんやりと眺めていた。
風が吹き抜け、俺の髪を乱す。
冷たい風が体温を奪っていくが、俺は上着のポケットに手を入れることもせず、ただ無防備にそこに立っていた。
疲労が、肉体の表面から骨の髄まで浸透しているのがわかった。
それは単に歩き続けたことによる疲れだけではない。
精神的な摩耗が、俺の身体からあらゆる活力を奪い去っていた。
ソラナは言った。ここが俺の見る現実である限り、俺は無限に転移できると。
それはある意味では何度でもやり直せる、とも取れた。
しかし、実際には何も残らない地獄だった。
俺は歩行者用の信号がある交差点へと向かって歩き出した。
信号は赤だった。
横断歩道の手前には、十数人の人間が足を止め、青に変わるのを待っていた。
スマートフォンを見つめる若い男。イヤホンをつけている学生。
俺は、その集団から少し離れた歩道に立ち止まった。
次にどこへ向かうべきか、何の思考も働かない。
ただ、目の前を横切る車両の連続した動きを呆然と見ていた。
信号機の赤いランプが、曇り空の下で鮮やかに光っていた。
その時だった。
キュルキュルキュル!!!!
大音量が俺の耳を支配した。
そのブレーキ音は、切羽詰まった車両の叫びだった。
俺は音の発生源へゆっくりと視線を向けた。
交差点の奥から、こちらに向かってくる一台の大型トラックが見えた。
制限速度を大幅に超過しており、尋常ではない速度でこちらに向かってくる。
直進ではない。
車体は本来の車線の軌道を外れ、俺たちが立っている歩道の方向へ向かって、一直線に突き進んできていた。
運転手がハンドル操作を誤ったのか、あるいは車両のブレーキが効いていないのか、あるいは両方か。
理由はわからない。
ただ、巨大なトラックが、俺たちに向かって殺意のような速度で迫ってきているという事実だけが、そこにあった。
気が付いた時には、明らかに回避不可能だった。
その瞬間、俺の周囲の時間の流れが、急激に遅くなったように感じられた。
それは動画をゆっくりと再生しているかのように、鮮明に俺の目に入ってくる。
「うわぁああああ!」
「死ぬぅ!」「逃げろぉ!」
短い悲鳴が、あちこちから上がっていく。
しかし、その全てが遅すぎた。
キキッ!!!
急ブレーキを踏み込んだのだろう。タイヤがアスファルトを強く擦り、白煙を上げながら高い摩擦音が聞こえてくる。
俺は、ただその迫り来る巨大なトラックを、真正面から見据えていた。
恐怖はなかった。
もうできることは何もなかったからだ。
向かってくるトラックのフロント部分。
銀色の金属製バンパーに付着した、乾いた泥の跳ね返りの模様。
ライトのガラスカバーの表面にある、微かな傷。
周囲の人間たちが逃げようとして、アスファルトを蹴り上げる靴底の形状。
宙を舞う土埃の一つ一つが、ゆっくりと見えた。
すべての音が、重低音となって耳を覆う。
タイヤがアスファルトを削る摩擦音が、不気味なほど低い音域に引き延ばされて耳に届く。
ゴムの焼ける焦げ臭い匂い。
すべてが遅く、遅延していく。
トラックが、俺の眼球のすぐ手前まで迫ってくる。
視界のすべてが、トラックの巨大なフロント部分によって塞がれた。
直後、強烈な衝撃が俺の肉体を襲った。
身体が弾き飛ばされる感覚。骨が砕け、内臓が圧迫される、言葉では表現しきれない圧倒的な痛覚。
その瞬間。
俺の意識は途絶えた。




