第十七話:退行
微かに埃っぽい、い草の匂いがした。
意識を取り戻していく。
俺が最初に感じたのは、嗅覚によるその生活空間特有の匂いだった。
次に来たのは、触覚だった。
俺の背中から脚にかけて、硬く、そして僅かにざらついた感触が伝わってきていた。
布団のような柔らかさはない。
い草が規則正しく編み込まれた表面の凹凸が、薄い衣服越しに俺の皮膚に直接触れている。
硬い畳の上だ。
はっ、として目を開けた。
見えたのは、天井だった。
知らない。いや、全く知らないわけではない。
木目の模様が並んだ天井板。
その模様を俺は知っている。
仰向けのまま、しばらくその木目を無言で見つめていた。
身体を動かそうとして、俺は違和感に気づいた。
痛みがない。
俺の記憶の最後にあるのは、あの交差点での光景だ。
制限速度を大きく超えて突っ込んできた、巨大なトラック。
銀色のバンパーに付着した泥の模様や、タイヤがアスファルトを削る摩擦音を、俺は鮮明に覚えている。
トラックのフロント部分が、俺の眼球のすぐ手前まで迫った。
大型トラックが俺の肉体に激突し、身体が弾き飛ばされる強烈な衝撃を感じたはずだ。
骨が砕け、内臓が潰れるような、生物としての限界を超える痛覚があった。
そして俺の意識は途絶えた。
俺は確実に死んだはずだ。
俺は腕を持ち上げ、指を曲げ伸ばししてみた。
手首の関節が動き、筋肉が収縮する。
次に脚を動かす。膝を曲げ、足首を回す。
どこにも異常はなかった。
身体を起こす。
俺は畳から離れた。
俺の肉体は一切の苦痛を訴えてこなかった。
ゆっくりと息を吸い込み、肺を膨らませる。
なんの不調もない。
俺は自分の両手を目の前にかざし、じっと観察した。
手のひらにも、手の甲にも、擦り傷一つ存在しない。
だが、俺の視覚が捉えた事実は、痛みの欠落以上に俺の思考を激しく揺さぶった。
手が、小さい。
俺は慌てて自分の身体全体を見下ろした。
腕は細く短く、脚の長さも明らかに高校生である俺のそれとは異なっていた。
俺が身につけている服は、半袖のシャツと、短いズボンだった。
服に破れや汚れはなく、血液の染みもない。
立ち上がってみると、視線の高さがひどく低く感じられる。
俺の肉体は、余すところなく無傷であり、そして、過去の子供の姿になっていた。
そんな道理があるはずがない。
俺の記憶の最後にあるのは、あの交差点での光景だ。
制限速度を大きく超えて突っ込んできた、巨大なトラック。
銀色のバンパーに付着した泥の模様や、タイヤがアスファルトを強く擦って白煙を上げる様子を、俺は鮮明に覚えている。
俺はその鉄の塊から逃げることを自ら放棄した。
毎日別の前提が立ち上がり、今日を共有した若菜ユイとは二度と会えなくなるという終わりのない反復。
その関係性が継続できないことへの深い虚無感から逃れるために、自らの肉体を物理的に破壊させることを望んだのだ。
トラックのフロント部分が、俺の眼球のすぐ手前まで迫った。
圧倒的な質量が俺の肉体に激突し、身体が弾き飛ばされる強烈な衝撃を感じたはずだ。
骨が砕け、内臓が圧迫されるような、生物としての限界を超える痛覚があった。
そして俺の意識は途絶えた。
俺は確実に死んだはずだ。
少なくとも、自らの足で立ち上がり、痛み一つ感じずに呼吸を繰り返すことができる状態であるわけがない。
ましてや、自分の肉体が過去の子供の姿に後退しているなどという現象は、現実的に説明がつかない。
だが、現に俺はここにいる。
俺は周囲を見回した。
六畳ほどの広さの和室だ。
壁には、学習机が置かれている。
その横には、木製の小さな本棚。
壁の低い位置には、画鋲で止められたままのポスターが貼ってある。
部屋の隅には、黒いランドセルが放り出されていた。
窓枠は木枠だ。
そこから差し込む光が、畳の上を四角く照らしている。
俺は、この部屋を知っている。
ここは、俺が小学校時代に住んでいた実家の部屋だ。
かつて俺が子供の頃に生活し、そして中学卒業を機に離れたはずの場所だ。
俺は学習机に歩み寄った。
机の上には、鉛筆の削りかすや、使いかけの消しゴムが散乱している。
ノートが開かれたままで、そこには俺が子供の頃に書いたであろう、丸みを帯びた拙い文字が並んでいた。
俺は再び自分の手を見る。
この体格、この視界の高さ、そしてこの部屋の状況。
すべてが、俺が小学校の高学年、おそらく六年生だった頃のものだ。
死後の世界という言葉が、俺の頭をよぎった。
肉体が死を迎え、意識だけが過去を彷徨っているのだろうか。
いや、俺はそのような非現実的な仮説を即座に否定した。
俺の足の裏は、畳の硬さをしっかりと捉えている。
指先で机の角をなぞれば、木の冷たい感触がある。
視覚も聴覚も嗅覚も、すべてが現実感を持っている。
これは幻覚や夢の類ではない。
俺は静かに息を吐き出し、自らの周囲で起きている事象を冷静に分析し始めた。
そう、まずはあの手術だ。
俺はあの医科大学の地下室で、見当識を切り離す手術を受けた。
俺の脳は、自分がどこにいて、どのような現実を過ごしているのかを判断できない。
その代わり、大脳皮質を中心とした広範なネットワークが、俺の主観で好ましいと思う現実を選び出し、俺の意識をそこに接続している。
手術時の薬剤投与と電気刺激は、俺の最も強い願望である若菜が生存しているという現実への最初の接続を補助するための処置だった。
しかし、それは恒久的な接続ではなかった。
睡眠によって大脳皮質の活動が低下すると、現実を維持する活動が失われる。
そして目覚めた時、再度活動を始めたとき、どの現実につなげばいいのか分からずに、別の前提を持つ現実へと再接続される。
それが、あの無表情な女が俺に説明した医学的な事態の全容だった。
俺は、あの交差点でトラックに轢かれた。
肉体の破壊。
脳の破壊。
そうだ。
死は、睡眠と全く同じ役割を果たしたのではないか。
俺の脳は破壊された。つまりそれは、睡眠時と同じような活動の低下――死。
その結果、大脳皮質は強制的にその接続を終了させた。
それで終わりのはずだった。
しかし、死が俺という主観的事実の終焉ではなかった。
その理由は分からない。
しかし、今俺がいるこの状況がすべてを指し示していた。
俺の脳が、俺が小学六年生であるという全く別の前提を持つ現実を選び出し、俺の意識をそこへ再接続したのだ。
俺は両手で顔を覆った。
これまで俺は、自らの肉体の終焉は主観的世界の終わりを意味とすると考えていた。
死という事象を迎えれば、全ては終わる。
それは当たり前の話だった。
だが、この現実への見当識を失ってしまった俺の脳は違うのだろう。
おそらく、俺の脳にとって、死ですらも単なる現実の選びなおしのきっかけに過ぎないのだ。
睡眠と同じ、ただ意識を絶ち、別の前提の現実へ移行するためだけの引き金。
それ以上でも、それ以下でもない。
この周囲の状況が明確に物語っていた。
客観的な真実がどうなっているかなど、証明する手段はどこにもない。
俺の主観が今この状況を経験している以上、それが俺にとっての現実として成立してしまう。
俺が俺である限り、どこまでいっても客観的なものなど、原理的に存在しえない。
逃げ場など、最初から存在しなかったのだ。
俺は顔から手を離し、部屋の襖を見つめた。
俺は部屋の出口である襖に歩み寄り、小さな手をかけた。
木枠が擦れる音がして、襖が開く。
廊下に出ると、そこもまた記憶にある通りの実家の風景だった。
少し薄暗い廊下。
歩くたびに、床板が微かに軋む音を立てる。
俺は階段の方へと向かった。
急な傾斜の木製階段。手すり。俺はその手すりに触れながら、一階へと下りていった。
階段を下りるにつれて、下から生活の音が聞こえてきた。
テレビの音声。
ニュースキャスターが、今日のできごとを淡々と読み上げている。
そして、台所からは味噌汁の匂いと、何かを焼いている香ばしい匂いが漂ってきた。
一階の居間に出る。
そこには、俺の両親がいた。
父親は食卓の椅子に座り、新聞を広げていた。
母親は台所に立ち、エプロン姿で朝食の準備をしている。
俺はその二人を見て、足の動きを止めた。
彼らの姿は、俺が最後に会った時のものよりも、明らかに若い。
顔の皺は少なく、父親の髪にも白いものはない。
俺が小学生だった頃の、彼らの姿そのものだった。
俺の現在の体格と、彼らの若さ。
この世界における前提が、俺が小学六年生の時期らしいことは疑いようもなかった。
俺の気配に気づき、新聞を読んでいた父親が顔を上げた。
「おお、レイジ。起きたか」
父親は、俺の姿を見てごく自然に声をかけた。
驚く様子はない。
俺がこの年齢の姿でここにいることに対して、何の疑問も抱いていないようだった。
「顔を洗ってきなさい。もうすぐご飯ができるからね」
台所から、母親の声が飛んできた。
彼女もこちらを振り返り、俺の顔を見て優しく微笑んだ。
彼らにとって、俺がこの姿でここにいることは、疑う余地のない事実として認識されている。
この世界における前提が、そのように設定されているのだ。
「あなた、お茶が入りましたよ」
「ああ、ありがとう。朝から君の淹れたお茶を飲めるのは最高だね」
父親が照れたように笑い、母親も嬉しそうに微笑み返す。
俺は、そのやり取りを見て内心で毒づいた。
相変わらず、異常なほど仲が良い。
彼らは年を重ねてもこの調子で、俺が高校に進学する際、ついにその過剰な愛情表現と夫婦水入らずの生活を満喫するために、俺を体よく実家から追い出したのだ。
あの駅前の、単身者用の狭いアパート。
俺は煩わしい家族という同居人から離れて一人で静かに過ごせるならとそれを受け入れたが、彼らが部屋を用意した本当の理由は、あまりにもふざけたものだった。
部屋を借りる際、彼らは俺に向かって冗談めかして言ったのだ。
『幼稚園からずっと一緒なんだから、一人暮らしなら若菜ちゃんをいつでも部屋に呼べるだろう。いっそ二人で一緒に住んでしまえばいい』と。
俺の人生を、まるでベタベタなラブコメのように扱い、彼らの妄想的な期待とともに用意されたあの部屋。この今となってはどこにも存在しない場所。
俺はその事実を頭の中で反芻しながら、洗面所へと向かった。
蛇口を捻り、冷たい水で顔を洗う。
水滴をタオルで拭き取りながら、俺は次の行動を考えた。
ここは俺の実家であり、俺の両親がいる。
だが、俺の目的は彼らと過去の日常をやり直すことではない。
俺が求めているのは、たった一人だ。
若菜ユイ。
俺の脳は、本来彼女が生存している現実を選ぶように処置されたはずだった。
だが、以前には、俺の生理的な防衛反応が彼女のいない現実を選び出したこともあった。
この新しい前提の世界では、彼女はどうなっているのか。
俺が小学六年生であるというこの時期の設定。
俺の過去の記憶が正しければ、この時期にはすでに、近所に住む幼馴染として若菜とは出会っていたはずだ。
当時の彼女は俺より学年が一つ下の小学五年生で、よく俺の後ろを付いて歩いていた。
もしこの世界が俺の過去の記憶に近い前提ならば、両親が彼女のことを知っている可能性は高い。
この実家から、俺が高校時代に一人暮らしをしていたあのアパートまでは、大人の足で歩いて数十分程度の距離だ。
俺の記憶の中の地理は、隅々まで頭に入っている。
あの高校時代のアパートから、若菜の家までは徒歩十分の距離だった。
そして、この実家から若菜の家までは、子供の足でも走れば十五分から二十分程度で辿り着ける近距離にある。
同じ街の中に、すべてが収まっているのだ。
俺は居間に戻り、食卓の席についた。
父親は新聞を折りたたみ、机の端に置いた。
母親が、ご飯と味噌汁、焼き魚の乗ったお盆を運んでくる。
「ほら、しっかり食べなさい。今日は学校があるんでしょう?」
母親が俺の前に食事を置きながら言った。
「学校……」
俺は小さく呟いた。
俺はこの世界で、近所の小学校に通っていることになっているのだろう。
「お前、まだ寝ぼけているのか。今日は遠足の日だと言っていただろう」
父親が苦笑交じりに言った。
なるほど、俺はこの家から小学校に通い、今日は遠足に行く日らしい。
「……なあ、聞きたいことがある」
俺は食事に手をつけず、両親の顔を交互に見た。
「なんだい、改まって」
母親が不思議そうな顔をする。
「若菜ユイのことを、知っているか」
俺ははっきりと、彼女の名前を口にした。
俺の問いを聞いて、父親と母親は顔を見合わせた。
「若菜……ユイさん?」
母親が首を傾げ、その名前を口の中で繰り返した。
「誰だ、それは。お前のクラスの子か?」
父親が尋ね返してくる。
その反応を見た瞬間、俺の腹の底で重たい石が転げ落ちるような感覚があった。
「知らないのか。近所に住んでいる、一つ下の女の子だ。幼稚園の頃からの付き合いで、よく俺の後ろを付いて歩いていただろ」
俺は言葉を重ねた。
もし俺が知っている過去ならば、このおしどり夫婦の両親は『ああ、あの可愛い若菜ちゃんのことか』『また喧嘩でもしたのか』と嬉々として答えるはずなのだ。
「近所に若菜さんなんて家はなかったと思うがな。それに、お前が年下の女の子と遊んでいるところなんて、今まで一度も見たことがないじゃないか」
父親は呆れたように笑い、箸を手に取った。
「そうよ。レイジはいつも一人で本を読んだり、家の中で遊んだりしてるだけじゃない。急に女の子の名前なんか出して、どうしたの?その子は彼女さん?」
母親も父親に同意して、冷やかし始めた。
それに対して、父親も「おお、幼馴染か。いいな」などといつもの調子で母親と話を始めた。
その二人の反応には、隠し事や嘘をついている様子は一切なかった。
彼らの認識において、若菜ユイという存在はどこにもない。
過去に俺と遊んだこともなく、近所に住んでいるという事実もない。
その落差が、俺にとってこの状況がどれほど絶望的なものであるかを理解させてしまった。
俺の脳は、俺を救おうとはしなかった。
トラックに激突され、死によって強制的に接続を切られた後、俺は再び彼女のいない現実を選び出したのだ。
俺は無言で立ち上がった。
「おい、レイジ。ご飯はどうするんだ」
父親の声が背中にかかる。
「いらない。少し外を見てくる」
俺はそう言い残し、居間を出て玄関へと向かった。
小学生の小さな足のサイズの運動靴を履き、扉を開ける。
後ろから母親の声が聞こえた。
俺は無視して、外へ飛び出した。そして、ある場所へ向かって走り始めた。
◇
アスファルトの道を蹴り、過去の街並みの中を進んだ。
周囲の状況は、俺が子供の頃に見ていたものと同じ形をしていた。
俺は、彼女の家があったはずの方向へと向かって走った。
息が上がり、心拍が上がっていく。
足がひどく疲労を訴えるが、俺は止まらなかった。
俺の最も強い願望は、彼女がいる世界のはずなのだから。
十字路を曲がり、緩やかな坂道を上る。
以前の現実で、空き地になっていたあの場所。
俺は坂を上りきり、息を切らしながらその場所に立った。
そこには、空き地はなかった。
だが、若菜の家もなかった。
その場所には、見知らぬ二階建ての家が建っていた。
壁は茶色く、庭には大きな木が植えられている。
表札には、若菜とは全く違う苗字が刻まれていた。
俺はその家の前で、膝に手をついて荒い呼吸を繰り返した。
周囲の景色を確認する。
この家は、新築ではない。昔からずっとそこに建っていたかのような、生活感のある雰囲気だった。
つまり、この世界では、彼女の家は最初から存在せず、この見知らぬ家がずっとこの場所を占有していたということだ。
俺は理解した。
若菜と出会ったという過去すら存在しない世界。
それが、この場所だ。
俺は上体を起こし、力なく空を見上げた。
青い空が見えた。
俺の心情とは関係なく、太陽が周囲を照らしている。
そう、この天気と同じようだ。
ここに、俺の意志など、どこにも介在する余地はない。
俺自身がどれほど彼女を求めようと、俺の脳はそれを選ばなかった。
俺は道の真ん中で、ただ立ち尽くす他になかった。




