第十八話:夕暮れの公園
俺は道の真ん中で、ただ立ち尽くしていた。
この世界には若菜ユイがいない。
この世界は意味がない。
ならば、これまでと同じように脳の活動低下――寝ればいいのか?
そうすれば、きっとこれまでのように別の世界へと接続されることだろう。
いや、それよりも俺は確定するべきことがある。
生命の停止=死がこの無間地獄を終わらせないことについて。
いや、この周囲の現実こそが、死がすべてを解決しないことを示していた。
しかし、俺はどこかでそれを否定し続けている。だって、死とは絶対的なものであるはずなのだから。
少なくともこの彼女が存在しないと確定しているこの世界には意味がない。
俺にはもはや怖いものなど存在しなくなっていた。
俺はゆっくりと足を動かし、歩き始めた。
向かう先は、俺が通っていることになっている小学校だ。
そこで俺は、それを行うのだ。
小学校。我が母校への道。
小学生の体では、目的地に到着するまでにひどく時間がかかった。
周囲の住宅街は、平日の昼間特有の静けさに包まれている。時折、営業用の車両が通り過ぎるだけで、歩道を歩く人間の姿は少ない。
誰も小学生の行動に注意を払う者はいない。
やがて、コンクリート造りの四階建ての校舎が見えてきた。
今日は遠足の日らしい。したがって、校庭にも教室にも、児童の姿はなかった。静まり返った敷地内に、俺は無断で足を踏み入れた。
昇降口を抜け、薄暗い階段を上っていく。
床に塗られたワックスの匂いがする。
一段上るごとに、俺の意志が固まっていった。
死への恐れはなかった。俺にとって最大の恐怖は、若菜と会えないことなのだからだ。
四階まで上がり、さらにその上、屋上へと続く短い階段を上った。
屋上の扉。そこにカギはかかっていなかった。
力を込めて押し開けた。
屋上には、強い風が吹いていた。
周囲を高い金網のフェンスが囲んでいる。俺はそのフェンスに近づき、小さな手で網目を掴んだ。
小学生の身体の軽さを利用して、金網をよじ登る。
最上部まで到達し、足をかけて反対側へと身体を移動させる。フェンスの外側、わずか数十センチほどのコンクリートの縁に、俺は立った。
下を見下ろす。
四階建ての校舎の屋上から地面までの高さは、死には十分な高さだった。アスファルトで舗装された地面が、俺を待ち受けている。
俺は大きく息を吸い込み、そして吐き出した。
足の裏からコンクリートの感触が消える。
自ら、重力に身を委ねたのだ。
風を切る音が耳元で大きくなる。視界の中の景色が、猛烈な速度で上へと流れていく。
激突。
頭蓋骨が割れ、全身の骨が折れ、内臓が圧迫される感覚。
一瞬の絶対的な痛覚。
俺の意識は、一瞬にして途絶えた。
◇
むせ返るような土の匂いがした。
俺の意識は、底知れない暗闇の中から急速に引き上げられた。
目を開ける。
視界に入ってきたのは、オレンジ色に染まった空だった。
足の裏には、硬い土の感触がある。
俺は自分の足で、しっかりと地面に立っていた。
周囲を見回す。
そこは、見覚えのある公園の入り口だった。滑り台とジャングルジム、そして古びたブランコが設置されている、俺の実家から歩いて数分の場所にある小さな公園だ。
俺は自分の身体を確認した。
手足の長さは短く、視線の高さも低い。
俺の肉体は、あの屋上から落下して激突したにもかかわらず、全くの無傷の状態でここに存在していた。服装は、白い半袖のシャツと、膝丈の半ズボン。
俺は小学生の姿のままだ。
ここが、俺の脳が新たに選び出した現実だということになる。
俺の仮説は、間違いなかったようだ。
死という事象すらも、別の前提を持つ現実へ再接続するための引き金に過ぎなかったのだ。
あの手術を受けた俺の意識は常に途絶えることなく、次の新しい現実を選び出すのだ。
夕方の冷たい空気が、肌に直接当たる。
遠くからは、夕食の準備をする匂いがする。
俺は深く息を吐き出し、これからどうすべきかを考えようとした。
「レイジくん! 遅いよ!」
不意に、背後から声が聞こえた。
弾むような、高い声。
俺の思考が一時的に硬直した。
俺はゆっくりと声のした方へ振り返る。
そこには、一人の少女が立っていた。
少し癖のある髪は短く束ねられ、服装は活発な小学生の女の子のものだ。
だが、その顔立ちは、俺の記憶に深く刻み込まれているものと一致していた。
若菜ユイだ。
彼女は、俺よりも少しだけ背が低く、紛れもなく小学生の姿をしていた。
俺が小学六年生なら、彼女は五年生だろう。
俺の脳は、死による強制的な切断を経て、再び彼女が存在する現実を選び出したのだ。
「どうしたの!早く!こっち!こっち!」
小学生の若菜は、俺の腕を無造作に掴むと、公園の中央にある砂場の方へと俺を引っ張っていった。
その口調は、俺が知っている高校生の頃の彼女と比べるとあどけなく、幼い。だが、根本的な生意気さや俺への遠慮のなさは全く変わっていない。
彼女は俺のことを『レイジくん』と呼んだ。この時期の彼女にとって、俺は近所でよく遊ぶ幼馴染という設定なのだろう。
砂場に到着すると、彼女は背負っていた赤いランドセルをベンチに放り出し、そのまま砂の中にしゃがみ込んだ。
「……お前、ここで何をしているんだ」
俺はかろうじて声を絞り出した。
喉が渇ききっていて、声がかすれた。
「何してるって、泥団子作りに決まってるでしょ。レイジくんが来るの遅いから、もう一人で作ってたんだよ。ほら、一緒に作ろ! 見て見て、これ。すっごく丸くできたんだよ!」
若菜は泥で汚れたプラスチックのスコップを放り出すと、見事な球体に磨き上げられた泥団子を俺の目の前に突き出してきた。
手のひらは泥だらけで、私服のスカートにも土の汚れがついている。
「そんなものを作って何になる。ただの土の塊だぞ」
「もう、またそんなこと言う!これをピカピカに磨くの!」
若菜は不満そうに唇を尖らせた後、泥団子をそっとベンチの端に置いた。
彼女がそこにいる。
生きている。
彼女が存在しないというあの世界から、俺はどうにか脱出できたのだ。
俺は無意識のうちに、しゃがみ込んでいる彼女の隣に腰を下ろしていた。
「おい、ちょっといいか」
「なに?」
俺は彼女の細い肩に手を伸ばした。
服越しに伝わる、確かな体温と、骨の硬い感触。
それは間違いなく本物だった。俺の主観において、彼女は今、俺の目の前で確かに存在している。
「わっ、ちょっと、どうしたのレイジくん。いきなり触らないでよ、泥がついちゃうから」
若菜は驚いたように肩をすくめ、俺の手を軽く払い除けた。
俺は我に返り、手を下ろした。
彼女は小学生の若菜だ。俺が高校生の頃に共有した記憶、俺の部屋でもやしハンバーグを食べた記憶、休日の商業施設で時間を潰した記憶、そして俺が彼女を失ったという絶望を、この彼女は一切持っていない。
彼女の認識では、俺たちはただの近所の幼馴染であり、放課後に公園で泥団子を作って遊んでいるだけなのだ。
「……すまない」
「もう、しっかりしてよね。レイジくんのお母さんに怒られちゃうよ」
若菜は呆れたように言いながら、立ち上がってベンチに置いたランドセルを背負った。
オレンジ色の空が、徐々に暗い色へと変わり始めている。
夜が近づいていることを告げていた。
「もう夜だ。帰ろう」
「ええっ~」
「帰るぞ。お母さんに怒られるぞ」
「分かった~レイジくん。じゃあ、一緒に帰ろ」
しぶしぶという感じで彼女は立ち上がり、公園の出口へと歩き出した。
俺はその後を追うように歩き始めた。
二人で並んで歩く。
道を歩く間、彼女はずっと話し続けていた。今日の給食のメニューで出たデザートのこと、クラスの男子が掃除をサボって先生に怒られたこと、算数の宿題がどうしても分からないこと。
俺は適当に相槌を打ちながら、彼女の横顔を観察していた。
小学生の彼女は、俺が知っている高校生の彼女と同じ存在だ。しかし、この世界において、俺たちがこれからどのように関係を築いていくのかは全くの白紙だった。
いや、関係を築くこと自体が、もはや不可能なのだ。
俺は自分が置かれている状況の残酷さを、歩きながら再認識していた。
この現実で、俺が彼女とどれだけ言葉を交わし、時間を共有したとしても、俺が夜になり眠りに落ちれば、俺の大脳皮質は活動を低下させ、この世界との接続を切断する。
そして明日には、また全く別の前提を持つ現実が立ち上がるのだ。
今日この道を一緒に歩いた小学生の若菜とは、二度と会うことはできない。
「レイジくん、聞いてる?」
若菜が下から俺の顔を覗き込んできた。
「……ああ、聞いている。算数の宿題なら、家に帰ってから自分で考えろ」
「やっぱり聞いてなかった! 今のは明日の図工の時間に持っていく空き箱の話だよ!」
「空き箱くらい、家を探せば一つや二つあるだろ」
「お母さんが昨日、全部ゴミに出しちゃったの。だから困ってるんじゃない」
彼女は不満そうに声を上げた。
そのとりとめのない会話が、俺にはひどく虚しく感じられた。
明日の図工の時間。彼女は明日の予定を当たり前のように語る。彼女の現実は、明日へ向かっている。
だが、俺の現実は今日で途切れる。
俺は彼女の明日を見ることはできない。
やがて、俺たちの家がある通りへと差し掛かった。
実家と若菜の家は、子供の足でも数分しか離れていない距離にある。
通りの分かれ道に到着し、彼女は立ち止まった。
「じゃあ、私はこっちだから。また明日、遊ぼうね!」
若菜は笑顔で大きく手を振った。
明日。
その言葉が、鋭い刃物のように俺の内面をえぐった。
「……ああ。気をつけて帰れよ」
俺は短く答え、手を振り返すことなく自分の家の方へ向き直った。
彼女の後ろ姿が見えなくなるまで見送ることはしなかった。
どうせ、もう二度と会えないのだ。
実家の玄関を開けると、台所から料理の匂いが漂ってきた。
靴を脱ぎ、居間へ向かう。
そこには、俺の両親がいた。俺が学校の屋上から飛び降りる前に見た、あの若い姿の両親だ。
「お帰り、レイジ。ずいぶん遅かったね。公園で遊んでいたのかい?」
母親がエプロン姿で声をかけてきた。
父親はテレビのニュース番組を見ている。
彼らの認識では、俺はただ放課後に公園で遊んで帰ってきただけの小学生の息子なのだ。俺が屋上から飛び降りて死に、またここに戻ってきたことなど、知る由もない。
「……ああ。少し遅くなった。俺は部屋にいる」
「もうすぐご飯だから、手を洗ってきなさいよ」
俺は母親の言葉に適当に返事をし、階段を上がって自分の部屋へと向かった。
部屋に入り、ドアを閉める。
静寂が訪れる。
俺は部屋の隅にある布団の上に、仰向けに倒れ込んだ。
部屋の中は薄暗く、窓の外は夜の闇に包まれていた。
俺は天井の木目を見つめながら、静かに呼吸を繰り返した。
肉体的な疲労が、じわじわと全身を侵食してくる。
小学生の身体で歩き回ったことや、精神的な摩耗が、俺に急速な眠気を要求していた。
一方で、俺は恐怖を感じた。いた、恐怖というよりも孤独だ。
――今日という日を共有したこの彼女とは永遠に会えない。
自らの肉体を壊すことによる強制的な切断も、睡眠による活動低下も、結局は同じ結果をもたらす。
俺を別の現実へと無作為に放り込むだけの手段に過ぎない。
どこへ逃げても、現実は切り替わる。俺は常に一人で、ただ過去の記憶を抱えたまま、終わりのない断絶の中を移動し続ける。
俺はすべてを諦める。
しかし、若菜といない日々はそれよりも嫌な現実だった。
とりとめのない思考が続いていく。
部屋が、重く冷たく感じられた。
まぶたが、抗いがたい重みを持って徐々に下がってくる。
睡魔が、俺の思考を少しずつ鈍らせていく。
明日になれば、またすべてが失われる。
今日出会った彼女の笑顔も、交わした言葉も、すべてが無意味なものとして処理される。
暗闇が意識を覆い尽くした。




