第十九話:温もり
死という事象も、睡眠という生理現象も、俺の意識にもたらす結果において一切の差異はなかった。
肉体が致命的な破壊を受け、生物としての機能が停止する。あるいは、疲労によって大脳皮質の活動が低下し、深い眠りに落ちる。どちらの経路を辿ったとしても、俺の意識が迎えるのは現在接続されている現実の強制終了であり、次の無作為な現実への再接続だった。
俺は、その事実を数え切れないほどの繰り返しによって理解した。
若菜ユイが存在しないという前提の世界を引き当てるたびに、俺はその無意味な時間に耐えきれず、高い建物から身を投げ、あるいは高速で移動する車両の前に身を晒し、自らの手で命を絶った。だが、極限の痛覚とともに意識の断絶を経たあと、俺は必ず別の前提を持つ新しい現実で、傷一つない状態で目を覚ました。
何度死んでも、俺の意識が終焉を迎えることはなかった。
俺の本当の肉体が外部の客観的な時間においてどこにあるのかは不明だ。だが、見当識を失った俺の脳は、認識の断絶と新たな現実への再接続を延々と繰り返し続けるのだ。
自ら命を絶つことすら、別の無意味な現実への前提でしかない。俺の意識は、このデタラメな世界を永遠に当てもなく移動し続けるよう運命づけられている。
俺は逃げ場のない状況下、この終わりのない変転を繰り返していった。
その計り知れない回数の変転を経る中で、俺は自分が置かれているこの状況について、いくつかの法則が存在することに気がついていた。
無作為に前提が切り替わるといっても、そこにはある程度のルールがあるのだ。
第一に、俺が接続される現実は、俺の常識から極端に逸脱したものではないということだ。例えば、魔法のある世界や、俺の知識に全く存在しないような未知の言語が話される世界などに接続されることは、ただの一度もなかった。
基本的には、俺が住み慣れたこの町を基点とした現実が構築されることが大半だった。もちろん、数十回、あるいは数百回に一度といった頻度で、様々な前提が大きく変わる状態に陥ることはあった。それは、俺が高校生から小学校になっていたり、あるいは成人した姿へと成長していたりする現実だ。成人した現実では、俺は別の町に住んでおり、見知らぬ企業で働いているという現実として接続されていることもあった。
しかし、どれほど前提が大きく変わろうとも、現代の日本という常識的な現実を大きく超えることはない。また、この俺という存在も大きく違うことはない。少なくとも俺が外国人になった現実への接続は一度たりともなかった。おそらく、あまりにも前提が違いすぎる現実には、接続されないのだ。
なぜ、そのような制限がかかっているのか。
俺はその理由について、あの医科大学の地下室で受けた手術の影響だろうと解釈していた。おそらく、脳への電気刺激や薬剤による調整の効果だ。あの時、俺の脳に与えられた化学的・物理的な方向付けが、脳の代行機能が極端に突飛な世界を選びだすことを防いでいるのだ。俺の脳はあくまで、俺の既存の記憶と知識を元にしながら、俺にとって好ましい現実を選ぶよう誘導している。
第二の法則は、若菜ユイの存在に関するものだ。
変転のたびに、彼女がいる世界、彼女がいない世界、その状況はまちまちだった。成人した世界では、俺と彼女が結婚しており、同じ部屋で生活しているという現実になっていることもあったし、逆に彼女の存在そのものが初めから存在しないという残酷な現実を引き当てることもあった。
だが、俺は一つの傾向を見出していた。
彼女が存在しないという世界を引き当て、俺がその現実に絶望して自ら死を選んだとしても、数回の変転を経ると、ほぼ必ずと言っていいほど、若菜が存在する現実に接続されるのだ。俺の深層心理が関係性の断絶を恐れて彼女を消し去ろうとする防衛反応が働いたとしても、いつまでも彼女のいない世界が連続することはなく、強制的に元の方向へと引き戻される。
この法則の理由もまた、脳への電気刺激や薬剤による調整の効果だろうと俺は解釈した。
俺の最も強い願望である『若菜が生存している現実』への接続を補助するという、あの初期の処置。それが、俺の脳がどれほど逃避しようとしても、最終的には彼女のいる現実へと収束させるような強い影響を生み出しているのだ。
俺は、自らの脳が強制的に彼女のいる現実を提示してくるその仕組みを、ありがたいと思う反面、ひどく残酷なものだとも感じていた。
彼女がいる世界に接続されるたびに、俺は安堵し、彼女との時間を過ごす。だが、どれだけ今を共有しても、眠りに落ちてしまえば再び現実は切り替わり、今日出会った彼女とは二度と会えなくなる。関係性が明日へ続くことは絶対にない。出会いと永遠の別れを、俺は強制的に繰り返させられているのだ。
そして、果てしない変転の末のことだった。
眩しさに、まぶたを動かした。
閉じた目の裏側に、光が当たる感覚。俺はゆっくりと目を開ける。
視界に飛び込んできたのは、見慣れた天井だった。薄汚れた白いクロス。隅の方にある、いつからあるのかすら覚えていない小さな染み。そして、天井から吊り下げられた照明器具。
俺は身体を起こした。
鼻をくすぐったのは、洗いたての柔軟剤の匂いだ。少しだけ日差しを浴びた布製品特有の、乾燥した香ばしい匂い。
そして、部屋の奥にある台所から、トントントンという、まな板の上で包丁が動く音が聞こえてきた。じゅうじゅうと何かを炒める小気味よい音と、醤油と出汁の香ばしい匂いが漂ってくる。
俺はベッドから下りた。
フローリングの冷たさが足の裏から伝わる。
部屋の様子を見渡す。机の上の参考書。窓際にある、青々とした葉を茂らせた鉢植え。
台所の方に目を向けると、そこには一人の少女が立っていた。
黄色いエプロンを身につけ、楽しそうに鼻歌を歌いながら、フライパンの中身を木べらで混ぜている背中。
彼女は俺の気配に気づいたのか、作業を止めて、ゆっくりとこちらを振り返った。
「あ、先輩! やっと起きたんですか? もう、いつまで寝てるんですか、お寝坊さんですね!」
弾むような明るい声。
若菜ユイが、屈託のない笑顔を浮かべて俺を見ていた。
俺は、その状況を冷静に分析した。
この部屋の様子。彼女の服装。そして、彼女が発した言葉。
これらはすべて、偶然にも「あの手術の翌日」と全く同じ状況だ。
そう、彼女の死後――初めて再会した、あの日。
俺が初めて見当識を切り離され、最初に接続されたあの日の朝。若菜と穏やかに過ごせる状況が、思い出させる範囲でここにあった。
数え切れないほどの変転を繰り返す中で、これほど大規模に条件が合う転移は稀であり、無作為に選ばれる前提の組み合わせが、極めて低い確率を引いて、かつて見たものとほぼ同じ状況を選び出したのだろう。
「なんですか、その顔。ひどいですよ! せっかく私が朝から朝食を作ってあげてるのに。ほらほら、早く顔を洗ってきてください。もうすぐ出来上がりますから」
若菜は腰に手を当てて、頬を膨らませた。
俺は言われるままに洗面所へ向かい、顔を洗ってからテーブルの席についた。
テーブルの上には、俺が普段使っているグレーのマグカップと、彼女が持ち込んだ黄色い花柄のマグカップが並んでいる。
若菜が二つの皿を並べ、向かいの席に座る。
玉子焼きに、ほうれん草のお浸し。炊きたての白いご飯と味噌汁。
彼女は元気に手を合わせると、美味しそうに玉子焼きを口に運んだ。
俺も箸を手に取り、玉子焼きを一口食べる。少しだけ甘すぎる、若菜特有の味付けが口の中に広がった。
「どうですか? 今日の卵焼き、ちょっと自信作なんですけど」
「甘すぎる。俺はもう少し出汁を効かせた方が好みだと言っているだろ」
「もう! そこは素直に美味しいって言うところですよ。先輩は本当に文句が多いですね。せっかく私が早起きして作ってあげたのに」
俺と彼女の間に交わされる会話。
それは、あの日と全く同じ内容だった。彼女の反応も、表情の変化も、俺の記憶に残っているものと、とても良く似ていた。
若菜は楽しそうに食事を進めながら、俺に話しかけてくる。
俺はそれに適当な相槌を打ちながら、彼女の横顔をじっと観察していた。
隣で微笑み、世話を焼いてくれる彼女の姿。
この平穏な時間が永遠に続けばいいと願うべきなのだろうか?
いいや、それは無理だ。それに無意味だ。
なぜなら、俺はあの手術を受けてしまったのだから。
そのもう何度目かもしれない、思考の果て。
「そうだ」
ふと、俺は思いついた。
目の前にいる彼女を見ながら、俺は気がついたのだ。
この世界が、これほどまでに無数にあり、そのどれにも接続される。
俺が成人した世界や小学生の世界、あるいは彼女が存在しない世界などなど。
そもそも、俺の過去の記憶というもの自体が、本当に事実に基づいていると言い切れるだろうか、と?
俺の脳裏に、あの医科大学の地下室の光景が蘇る。
高度な医療機器が整然と配置された部屋。アルコールと薬品の鋭い匂い。冷たい金属製の手術台。
医者であるソラナによって頭蓋骨を開けられ、見当識を切り離されたという、あの手術の記憶。
俺はこれまで、あの手術を受けたからこそ、俺の現実はこのように変転し続けているのだと信じて疑わなかった。あの女が俺の脳に手を加えたから、俺の意識は一つの現実に固定されず、睡眠や死をきっかけとして別の前提へと強制的に移動させられているのだと。
だが、それは本当なのか?
今俺の身に起きている、この変転。理由もなく世界が切り替わり続けるという、不条理極まりない現象。
人間の精神は、理由のない異常というものには耐えられないようにできている。法則もなく周囲の現実が切り替わり続ければ、意識は自己の同一性を保てなくなり、精神が崩壊することだろう。
俺の脳は、その自己崩壊を防ぐために、このデタラメな変転の辻褄を合わせるための『もっともらしい理由』を必要としたのではないか。
つまり、あの生々しい手術の記憶自体が、今のこの無作為な変転を正当化するために、俺の脳が後からひねり出した自己欺瞞だったのではないか。
もし、そう考えれば、すべてに説明がつく。
なぜ俺がこのような体験をしているのか。それは「見当識を切り離す非合法な手術を受けたから」だ。そうした原因が存在することにすれば、どれほど世界が変転しようとも、俺の理性はそれを「手術による脳の暴走」を原因として思考を続けることができる。
俺の脳は、俺の精神を守るために、ソラナという無表情な女を創造し、地下室での手術という精巧な物語を創造し、それを俺の過去の記憶としたのかもしれない。
一条レイジという人格も、若菜ユイという後輩も、交通事故という悲劇も、すべてが。
その、すべてが、もしも――『なかったら』?
「先輩?どうかしましたか?お箸が止まってますよ」
若菜が不思議そうな顔をして、俺の顔をのぞき込んできた。
俺はゆっくりと視線を彼女に向けた。
彼女の目の中には、心配そうな表情を浮かべている。
俺は彼女に何かを言おうとして、口を閉ざした。
仮に俺のこの究極の疑念の果てが真実だとして、それをどうやって証明するというのだろう。
俺は自らを客観視できない。俺の意識は、どうやっても俺の主観から逃れることはできない。
俺が今見ている現実が夢だと証明するためには、俺の意識の外部にある客観的な視点が必要だ。夢が夢だと確定できるのは、夢から覚めた後のみだ。だが、ここは夢なんかじゃない。だから、俺が認識できるのは常に俺の主観だけだ。
ゆえに、どれが真実の記憶で、どれが作られた世界かを判別する根拠は、この世界のどこにもない。
俺が手術を受けたと信じることも、目の前の現実が夢であると信じることも、どちらも等しく証明不可能の事象でしかない。
俺の思考は、その結論に到達したところで終わった。
これ以上の分析は無意味だからだ。客観的な事実が到達不能な領域にある以上、俺は今、自分の主観において展開されているこの現実を受け入れる他に道はないのだから。
「……いや、なんでもない。少し考え事をしていただけだ」
俺は短く答えて、再び箸を動かし始めた。
若菜は少しだけ首を傾げたが、すぐにまた元の笑顔に戻り、食事を再開した。
彼女の弾むような声が、静かな部屋の中に広がる。
俺はそれを聞きながら、ただ淡々と、出された食事を胃の中に流し込んでいった。
明日になれば、また俺は別の現実に放り出されるのだろう。この彼女とは永遠に会えなくなる。
だが、その恐怖すらも、今の俺にとってはどこか遠い出来事のように感じられていた。
過去から連続する関係性を持つことが不可能だという事実も。
俺が彼女と指切りをして交わした、もやしハンバーグの約束も。
睡眠によって、明日、この現実が強制終了され、また別の現実に再接続されてしまうという終わりのない恐怖でさえも。
すべては、到達不可能な客観的真実の側に属する問題だ。
俺の主観において、今、目の前に彼女がいる。
彼女の確かな体温が存在し、俺の言葉に応答し、静かに呼吸をしている。
俺に向かって微笑み、俺を心配してくれている。
その事象だけが、今の俺の世界における唯一の絶対的な真実なのだ。
それが俺の脳が選んだ一時の夢であっても、俺が今ここでその温かさを感じているという主観的な事実は、誰にも否定することはできない。
ふと、俺の頭の中に、一つの解釈が浮かび上がった。
あの無表情な医者、ソラナ。
彼女の存在とは、ただの妄想だったのだろうか、と。
俺はあの手術室で、彼女の指示に従って見当識を切り離した。
もし、この一切の推論が意味をなさない世界で、俺の脳が生み出した妄想ではないとしたら。
そう。彼女は俺と同じように、別の現実からこの果てしない変転の世界へと身を投じた、若菜ユイ自身の成れの果てだったのではないか、と。そう思った。
もしかしたら彼女もまた、俺と同じように絶望の果てに自らの脳を差し出し、この無数の現実の中を彷徨っている若菜ユイの姿なのかもしれない。
そして、彼女は、今の俺と同じようにこの無数の現実の中で、感情を失った。そして、俺がこの無間地獄の中で精神崩壊を起こさないように、医学的な説明という形で俺にルールを提示し、俺を導き続けていたのではないか。
それは、ひどく美しく、そして感動的な物語だった。
全ては泡沫の現実の中で、お互いを求め合い、役割を変えて再会を果たす二人。
しかし。
俺は次の瞬間、小さく息を漏らし、自嘲気味に微笑んだ。
俺はすぐに理解したのだ。
その美しい仮説そのものが、結局は孤独な脳が自らを慰めるために生み出した、都合の良い解釈に過ぎないのだということを。
客観的な真実が到達不能である以上、どの仮説も証明することは誰にもできない。
俺の精神が、この残酷な状況を少しでもドラマチックなものとして処理し、俺自身の心を救済するために、また新しい現実と解釈を創造しているだけなのだ。
人間の脳とは、どこまでも自己防衛に長けている。
それを俺は身に染みて体験してきた。
だが、それでも構わなかった。
それが真実であろうと、俺の脳が勝手に作り上げた自己欺瞞であろうと、今の俺にとってはどちらでも同じことだ。
証明できないのなら、俺がそれを真実だと信じ込めばいい。
――俺は執着を捨て去るべきなのだ。
だとしたら、俺は、もやしハンバーグの約束を知らない彼女に失望することもない。
だとしたら、明日になればこの現実が終わり、彼女が消えてしまうことへの恐怖も、俺の心を乱すことはない。
明日がないのなら、今日という一瞬だけを見つめればいい。
関係性が明日へ続かないのなら、今感じているこの主観的な温もりだけは事実なのであり、そこにいるべきなのだ。
そう。だから、俺はこれでいいのだ。




