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水槽の脳は君の夢を見るか?  作者: 速水静香


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第四話:契約

 自動ドアが左右に開いた。

 人工的な空気とともに、揚げ油と安価な肉を加熱した特有の匂いが鼻をついた。

 ここは全国に展開している、よくあるファーストフード店である。駅前という立地と昼間の時間帯が重なり、店内は食事を求める無数の人間で埋め尽くされていた。


 レジカウンターの前には、注文を待つ人々の列ができている。

 店内を流れる明るい音楽、店員が番号を呼び出す声、客同士のとりとめのない会話。それらが混然一体となって、空間全体に騒々しい活気を生み出していた。

 数日前までの俺なら、この場所に一人で入ることは絶対になかっただろう。栄養価の低い食事に金と時間を消費し、他人の話し声が耳障りな環境で時間を過ごすことは、俺にとってまったく無意味な行動だからだ。

 もし若菜が隣にいれば、話は別だった。

 あいつはこういうわかりやすい味が好きで、新作の限定メニューが出れば必ず俺を引っ張ってこようとしていた。俺が文句を言いながらも付き合うと、嬉しそうにトレイを運んできて、向かいの席で休むことなく口を動かしていたものだ。


 だが、今の俺の隣には、あの騒がしい後輩はいない。

 代わりに前を歩いているのは、若菜と背格好だけが似ている、ひどく無表情な大人の女性だった。

 ソラナと名乗ったその女性は、注文の列に並ぶ人間たちを一切気にする様子もなく、店内の中央にある階段へと向かった。

 俺はため息をつきながら、その後を追う。


 二階のフロアは一階よりも座席の数が多く、窓際には高校生のグループが陣取って何やら楽しそうに話し込んでいる。中央のテーブルでは、スーツを着た男性が食事もそこそこにノートパソコンの画面を睨みつけていた。

 誰もが自分の目的のために時間を使い、自分が存在している現実を疑うことなく享受している。

 ソラナはフロアの一番奥、壁際の二人用のテーブル席に向かって迷いなく歩を進めた。

 彼女は先に椅子を引き、音もなく腰を下ろす。


 俺は彼女の向かい側の椅子を引き、乱暴に座った。

 プラスチック製の硬い座面が、背中から不快な感覚を伝えてくる。

 テーブルの上には何もない。俺たち二人は、飲食店に入りながら何も注文せず、ただ向かい合って座っているという不自然な状態にあった。


「店員に文句を言われる前に、用件を言え」


 俺は声を低くして、目の前の女性に問い詰めた。

 彼女は相変わらず、顔の筋肉を一切動かすことなく俺を見返してきた。その顔立ちは確かに整っているが、人間らしい感情の起伏がまったく読み取れない。


「ここは飲食店だ。何も頼まずに居座るのは常識的に考えて迷惑行為だろう。早く話せ」


 俺が重ねて催促すると、彼女はゆっくりと口を開いた。


「私の目的は、あなたに一つの提案を行うこと」

「提案だと」

「そう。あなたが現在の状況から脱却し、目的を達成するための手段を提示する」


 機械的な受け答えだった。

 彼女の言葉選びは、まるで事前に用意された原稿を読み上げているかのようだった。


「目的を達成する手段。なんだそれは、死んだ若菜を生き返らせるとでも言うつもりか。馬鹿馬鹿しい、勝手にしろ」


 俺は吐き捨てるように言った。

 死んだ人間が生き返るわけがない。そんなオカルトじみた話を本気で信じるほど、俺は思考力を失ってはいない。


「いいえ、違う。死者の組成などできない。不可能な事象である」


 あっさりと、彼女は若菜の復活を否定した。

 俺は言葉を失った。てっきり、怪しい宗教か詐欺の類で、適当な儀式でも持ちかけられるのかと思っていたからだ。

 それにしても、手が込んでいる。


「じゃあ、何を提案するというんだ。あのメッセージで俺を呼び出した理由はなんだ」

「あなたの脳に、医学的な調整を施す」


 彼女の口から出たのは、思いもよらない言葉だった。

 俺は顔をしかめた。


「はっ?脳に医学的な調整?おい、それはどういう意味だ」

「難治性の統合失調症患者の治療に向けた、臨床試験が存在する。そのデータ収集を目的とした手術」

「統合失調症の臨床試験……?」

「ええ、そう。脳の一部を切断し、脳受容体に対する薬剤の投与と、電極による電気的な刺激を加える、未承認の手術」


 彼女が語る内容は、このファーストフード店の騒がしい空気にはまったくそぐわないものだった。

 隣の席では、女子高生たちがスマートフォンの画面を見せ合いながら高い声で笑っている。そのすぐ横で、人間の脳を切断するという話題が淡々と進行している。

 その落差が、俺の頭を混乱させた。


「待て、待て。お前、自分が何を言っているのか分かっているのか。俺は精神病じゃない。それを俺に受けろと言っているのか」

「ええ、そう」

「頭がおかしいだろ。なぜ俺が参加しなければならないんだ。未承認の手術だの、脳の切断だの、ただの人体実験じゃないか」


 馬鹿馬鹿しい話だった。

 廃人になれ、という話をこの世の誰が受けるというのか?

 心底、この目の前にいる女は俺を馬鹿にしている、と思った。


「今のあなたにとって最も大事なことはなに?」


 ソラナは瞬き一つせずに答えた。


「若菜だ」

「そう。大切なことがある。なら聞いて」


 そういったソラナの顔に変化はない。

 この女は本気で狂っているのかもしれない、と思った。


「続けろ」

「人間の脳には、見当識を司る部位が存在する。自己が認識している事象が、外部の客観的な事実と一致しているかどうかを判断する」

「見当識……」

「ええ、そう。時間、場所、周囲の状況を把握し、自分がどこにいるのかを正しく認識する能力」


 彼女の言葉は、まるで何かの講義のように一定の速度で淡々と続いた。


「その部位を切断し、機能させなくした場合、人間の意識はどうなると推測できる?」

「そんなこと、知るか。廃人になるだけだろ」

「いいえ、違う。何も起きない」

「何も起きない?」


 俺は彼女の言葉を反芻した。


「この部位を脳から切り離したところで、健常者においてはなんの問題も発生しない。それはこれまでの病理学的な研究の蓄積により、証明されている」

「だから、安心して実験に参加しろ、と?馬鹿馬鹿しい」

「いいえ、違う。聞いて。統合失調症は、この部位に不具合が発生している、と我々は考えている」

「はぁ?これまでの説明とつじつまがあっていないが?」


 俺が言葉を続けようとしたが。ソラナは言葉を遮って話し始めた。


「次に統合失調症患者の脳から、この部位を切り離すと、どうなると推測できる?」

「さあ、な。何も起きないんじゃないか?あるいは病状が悪化するとか?」

「いいえ、違う。妄想、幻覚や幻聴の症状が軽減あるいは軽快し、状況により寛解の状態となる」

「はぁ?」

「脳というシステムには冗長性がある。おそらく、脳の他の部位がその機能を代行すると推測される。したがって、通常ならば、脳は全く問題なく機能するのだ、と考えられる」

「いや、けど。確実に。見当識は欠落しているんだろ?」

「ええ、そう。しかし、もし異常な見当識を持っている、とすれば?むしろこれは削除され治療されるべき」

「つまり、なくてもいい個所ってことか?」

「いいえ。そのような結論にはならない。次に脳の受容体に作用する薬剤を投与し、深部電極を用いて脳に刺激を与える」

「で?その理由は?」

「この処理は見当識を代行している、と考えられている脳全体のネットワークに作用する」

「それで?」

「脳が現実を選ぶ、と私は考えている」

「現実を選ぶ?」

「そう。現実に関して我々の脳は以下のようにも解釈が可能。シミュラクラ現象。それをご存じ?」

「なんだ、それ?」

「三つの点を見ると、それを人の顔だと認識する現象のこと。人はどのようなものにも固有の解釈をもつ。それは物質的なものではなく、主観的な事象」

「よく分からない。見当識は保たれているのだから、薬剤や電気刺激には何か意味があるのか?」

「大脳による代行。それに干渉する。おそらく、見当識は、これまでに出来上がったニューラルネットワークをもとに補完されると予測される」

「ああ、そりゃそうだろうな」

「ここで、我々が電極による刺激、脳受容体に対する投与を行うことで、無意識下にある情報を利用する。分かりやすく言えば、夢を見る」

「夢?」

「そう、この状態であれば、見当識の欠落という状態と合わせて、脳が現実にどの解釈をするのか、選べると考えている」

「明晰夢とかそういうことか?」

「分かりやすく言えば、そう」

「おいおい、そんな与太話。誰が受ける、と思うんだ?脳へのダメージ。得体のしれない薬物を受けて、電極をいれろ?狂っている」

「いいえ、薬剤の影響は可逆的。電極の設置は現代ではよく利用される手法。さらに見当識をつかさどる部位は生理学的な影響はない。正確に言えば、脳の他の部位が正常ならば、機能を代行できる。副作用は無視できる」

「馬鹿げている。それにそんなことをして何になるんだ。そもそも、夢は自分では選べないだろ」

「薬剤と刺激により、それによって脳の代行機能を任意の状態へ誘導する」

「つまり?」

「選ばれる現実――それは電気刺激により、被験者の脳が好ましいと思われる現実に収束されるようにプログラムされている。一度、あなたが望む現実への接続を確立すれば、あなたの脳はその幸せな現実を永続的に維持し続けるはず」

「そんなことして何になる」

「精神疾患に対する有力なアプローチとなる可能性が高い」

「いやだ。特に幸せな夢で若菜と会える、という保証がない」


 俺は狂っていた。もし仮に、このときに若菜に会うことができる、と確約されていたら、首を縦に振っていたのかもしれないのだから。


「それは、あなたの主観。だれにも検証ができない」

「だろ?」

「しかし、外部的には脳に薬剤と電気刺激を加えることで、もっともあなたが求めている現実へと方向性を修正できるのは確実。あなたの脳は、最も望む状態を現実として選ぶはず」

「……分からない」


 俺はテーブルの上で、無意識のうちに両手を強く握りしめていた。

 なんだそれは。常識的に考えてあり得ないだろ。

 未承認の手術。脳の切断。薬剤や電極による調整。

 それを行えば、若菜がいる世界に行けるかもしれない。

 結果を保証しない、常軌を逸した人体実験だ。普通なら絶対に行かない。その場で席を立ち、警察に電話をかけるのが正しい人間の行動だ。


 だが。

 もし、それが本当だとしたら。


「ならば問う」


 ソラナは上半身をわずかに前方へ傾けた。


「あなたは、この現実に何の価値を見出しているのか」

「現実に……?」

「今、あなたは若菜という知り合いを亡くしている。その現実にしがみつく必要があるのか、と聞いている」


 その問いは、俺の最も痛い部分を的確に突いてきた。

 価値などない。

 若菜がいない現実など、俺にとってはただの灰色の時間の連続でしかない。彼女が勝手に部屋に持ち込んできた植物が枯れていくのを、ただ無気力に眺めているだけの無意味な日々。

 そこに、俺自身の存在意義など欠片もなかった。


「あなたが現在認識している世界は、本当に絶対的なものか。人間の意識は、つまるところ脳内の化学物質と電気信号のやり取りに過ぎない。あなたが真実だと信じているこの光景も、単に脳がそう解釈しているだけの結果」


 彼女は、俺がかつて若菜に対して言ったのと同じような理屈を並べ立てた。

 感情は化学物質の反応だ。俺はそう言って彼女のロマンチックな話を切り捨てていた。

 ならば、俺が今感じているこの絶望も、ただの化学反応に過ぎないということになる。


「……どうして、俺なんだ」


 俺の口から出たのは、拒絶の言葉ではなく、理由を問う言葉だった。


「なぜ俺が選ばれた。俺以外にも、現実から逃げ出したい人間なんていくらでもいるだろう」

「条件に適合した」

「条件? どんな条件だ」

「それを開示する必要はない。あなたはただ、提示された選択肢に対する回答を出せばいい」


 ソラナはまたはぐらかした。

 彼女の態度は一貫している。必要な情報のみを提示し、それ以上の疑問には答えない。俺の感情や葛藤など、彼女にとっては実験の過程で発生する些末な要素でしかないのだろう。


 俺は深く息を吸い込み、店内の喧騒に再び耳を傾けた。

 相変わらず、周囲の人間たちは自分たちの日常を謳歌している。

 彼らには明日がある。明日になれば、また同じように学校に行き、仕事に行き、誰かと会話をするのだろう。

 俺には、それがない。永久に失われて、あとはただ朽ち果てていくだけだ。


 若菜の騒がしい声。

 強引に組まれた腕の感触。

 それらが、脳裏に鮮明に蘇る。


 あれが永久に失われた現実を、俺はこれからも受け入れて生きていくことができるのか。

 答えは否だった。


「俺が本当に若菜のいる世界を望むなら、脳はそう解釈するはずだ。そういうことだな」

「そう。見当識のはく奪された脳は、投与される薬剤と処理によって、もっとも安心できるものを現実として選ぶはず」

「……賭けるしかない、か」


 俺は自嘲気味に呟いた。

 俺の思考は、すでに正常な判断力を失っている。

 これが底意地の悪い悪戯だろうと、取り返しのつかない後遺症を残す実験だろうと、構わない。この息の詰まるような世界から抜け出せるなら、そして万に一つの可能性で彼女に再び会えるなら、俺は自分の脳をどういじられようと知ったことではなかった。


「……」


 俺は黙り込んだ。

 今の俺はなんなのか、と。抜け殻のような身体。死んだような意志。

 そりゃそうだ、だって俺のすべては、若菜が死んだときに意味がなくなっているのだから。


「その手術、受けてやる」

「理解した」


 ソラナは表情を崩すことなく、服のポケットから一枚の小さな紙片を取り出し、テーブルの上に置いた。

 そこには、指定された医科大学の名前と場所、そして日時が簡潔に印字されていた。


「指定の日時に、この場所へ。そこで全ての手続きを行う」

「手続きね。実験動物の同意書にサインでもさせるのか」

「形式的な手順は存在する。詳細は現地で」


 ソラナはそれだけを言うと、ゆっくりと椅子から立ち上がった。

 彼女は用件が済んだとばかりに、振り返ることなく階段の方へと歩いていく。

 俺は、テーブルに残されたその紙片をじっと見つめていた。


 周囲の喧騒は、いつの間にか俺の耳には届かなくなっていた。

 指先でその紙片をつまみ上げる。

 薄っぺらい紙切れ。だが、これからの俺のすべてを決定づけるものだ。

 俺は、自分が完全にどうかしてしまったことを自覚していた。

 社会的な常識、倫理観、そして自分自身の生命への執着。それらすべてを投げ捨てて、不確かな現象に身を委ねようとしている。


 店員がトレイを片付ける音が聞こえた。

 俺は紙片をポケットにねじ込み、席を立った。

 ここにはもう用はない。次に俺が行くべき場所は決まっている。

 ファーストフード店の自動ドアを抜け、再び外の空気に触れた時、空の雲はさらに厚みを増していた。


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