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水槽の脳は君の夢を見るか?  作者: 速水静香


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第三話:案内人

 アパートの階段を下りる足取りは、自分でも驚くほど迷いがなかった。

 コンクリートの階段を踏みしめるたびに、履き古したスニーカーの底から、逃げようのない地面の硬さが伝わってくる。俺の足は、まるで目的地があらかじめ決定されているかのように、一直線に駅へと続く道を選択していた。


 アパートから駅までの道のりは、徒歩で十五分程度だ。

 かつては、学校へ通うために毎朝のように歩いていた、見飽きたはずの風景である。だが、今の俺の目には、街並みのすべてが自分とは無関係な遠い場所にあるように見えた。

 空は分厚い雲に覆われ、太陽の直射を遮っている。周囲の住宅街は、昼間だというのにひどく薄暗く、アスファルトの上には沈んだ灰色の景色が広がっていた。


 平和な光景だ。誰もが、自分の日常が明日も当然のように継続すると信じて疑っていない。家屋の中で、他者と言葉を交わし、今日という時間を共有している。ほんの少し前までの俺も、あの狭い部屋で同じようなことをしていた。若菜が勝手に持ち込んだ食材で料理を作り、彼女のとりとめのないおしゃべりに付き合わされていたのだ。

 だが、そんな光景は、呆気なく、そして残酷に破壊される。今の俺から見れば、あの窓の向こうで生活している連中は、自分たちがどれほど脆い土台の上に立っているのかを理解していない、ひどく馬鹿げた存在にしか見えなかった。


 俺はポケットの中にある、スマートフォンの硬い感触を指先で確かめた。

 なぜ俺は、あんなメッセージを信じて外に出ているのだ。

 俺の理性は、この行動を明確に否定していた。死んだ人間が電子的な情報を操作して文章を送信することなど、あり得ない。若菜ユイは死んだ。トラックによりその肉体を破壊され、生命活動を停止し、火葬場ですべて灰になった。それが客観的な事実だ。


 したがって、あのメッセージは悪意を持った第三者によるものに他ならない。若菜のアカウント情報を不正に取得した愉快犯が、俺の喪失感につけ込んで、反応を楽しもうとしているだけだ。

 そんなことは、少し考えれば誰にでもわかる。

 ならば、こんな見え透いた悪戯を無視して、自室のベッドで横になっているのが最も正しい選択のはずだ。

 それなのに、俺の足は止まらない。


 理由は明確だった。俺は、もう耐えられなくなっていたのだ。

 すべての未来は俺の手にはない。だとすれば、たとえそれが悪趣味な悪戯であろうと、俺は外に出る口実が欲しかったのだ。これは一時的な現実逃避に過ぎない。駅の北口に行き、誰もいないことを確認するか、あるいは悪戯の犯人を見つけて、そいつに現実的な非難を浴びせるか。どちらにせよ、それでこの不条理な出来事に区切りをつけ、再びあの静まり返った場所に戻るための、意味のない行動なのだ。


 そう自分自身に言い訳をしながら、俺は先を進んだ。


 大通りに出ると、周囲の騒音が格段に大きくなった。

 車道を走る自動車のエンジン音、アスファルトを擦るタイヤの摩擦音、歩道を歩く無数の人々の話し声。様々な音が一緒になって、冷たい空気を振動させている。

 駅に近づくにつれて、人間の密度は目に見えて高くなっていった。昼食に向かう勤め人、買い物を終えた人々、授業の合間らしい学生たち。彼らは皆、それぞれの目的地に向かって忙しなく移動している。


 俺は通行人の肩を避けながら、駅前のロータリーへと足を踏み入れた。

 建物の壁面には巨大な電光掲示板が設置されており、商品の宣伝映像が絶え間なく再生されていた。そんなものに目を向けることなく、指定された場所へと一直線に向かった。


 駅の北口。

 そこは、この駅を利用する人間にとって、最も一般的な待ち合わせの場所だった。

 円形の噴水が設置された広場。常に数十人の人間が、誰かを待つためにそこに留まっている。


 俺はその広場の端に立ち、歩みを止めた。

 曇天のせいか、周囲にいる人が気になった。

 スマートフォンを操作しているスーツ姿の男。楽しそうに談笑している二人組の女。重そうな旅行用キャリーケースを持った旅行者。

 そこに俺が探している人物の姿はなかった。

 若菜ユイの姿は、どこにもない。

 彼女の、肩まで伸びたあの髪も、見慣れた制服姿も、こちらを見つけて大きく手を振るあの動作も、どこにも存在しない。


 当然の帰結だ。

 俺は心の中で、そう結論づけた。

 死んだ人間がここにいるわけがない。そんな奇跡が起こるはずがないのだ。俺は現実を再認識し、同時に、心の奥底でほんのわずかに抱いていた非論理的な期待が、消えていくのを感じていた。


 期待していたのか、俺は。

 こんな見え透いた嘘に踊らされて、わざわざ外まで這い出してきた自分自身に、強烈な自己嫌悪が湧き上がる。

 俺は、感情に流される人間を冷ややかな目で見てきた。それなのに、若菜に関することになると、俺の思考はかくも容易に暴走し、あり得ない妄想に縋ってしまう。

 馬鹿げている。これなら、最初からあの部屋で天井を眺めていた方が、はるかにマシだった。


 俺は踵を返し、今来た道を引き返そうとした。

 悪趣味な愉快犯の姿すら確認できなかったが、もうどうでもいい。こんな場所でこれ以上時間を消費するのは、俺の精神を無駄にすり減らすだけだ。

 帰ろう。

 そう思って歩き出そうとした、その時だった。


 視界の端に、周囲の景色にまったくそぐわない存在が入り込んだ。

 広場の中央。噴水のすぐそばに、一人の人物が立っている。

 その背格好、そして肩まで伸びた髪の長さ。

 遠目から見たそのシルエットは、似ていた。


 俺は、その一点だけに極端に集中した。

 まさか。

 俺は呼吸をするのも忘れ、その人物に向かって足を踏み出した。

 最短距離で近づいていく。

 その背中へ向けて、俺は、自分でも驚くほど切羽詰まった声を出していた気がした。


「若菜……」


 確かにその名前を呼んだはずだった。


 その人が、ゆっくりとこちらを振り返る。

 その顔が俺の視界に入った瞬間。

 俺の期待は、さっと消え去った。


 そこには、若菜ユイではない、まったく見知らぬ大人の女性が立っていた。

 落ち着いた色合いの服を着た、年齢は若菜よりもずっと上、二十代といったところだろう。

 だが、その顔立ちを見た瞬間、俺の頭の中に突拍子もない考えがよぎった。もし、あの騒がしい後輩がこのまま何年も成長して大人になり、あの賑やかな表情をすべて削ぎ落として無表情になったとしたら、こんな顔になるのではないか、と。


 いや、何を考えているんだ俺は。

 俺の頭は、相当にいっているらしい。見ず知らずの他人を、ただ少し背丈や後ろ姿が似ているというだけで、死んだ人間に重ね合わせるなんて。自分を慰めるための、惨めな思い込みだ。なんでも死んだ人間と比べるあたり、俺の精神状態は客観的に見て危険な域に達していると言わざるを得ない。


「あなたは、一条レイジ?」


 女性が口を開いた。

 それは、若菜のあの弾むような明るい声とは正反対の、抑揚のない、淡々としたものだった。

 そして、俺の名前を知っている。


「……お前は誰だ」


 その女を問い詰めた。

 俺の名前を知っている、つまり、ここに俺を呼んだ犯人の可能性が高い。


 期待を裏切られた落胆と、悪戯の犯人を見つけたという怒りが同時に発生していた。


「なぜ俺の名前を知っている。お前があのメッセージを送ってきたのか」


 俺は矢継ぎ早に質問をぶつけた。

 彼女はどこかで俺と若菜の接点を知り、情報を抜き取った。そして、俺のアカウント宛に偽のメッセージを送信した。

 だが、女性は俺の怒りや威圧的な態度を前にしても、表情をまったく変えなかった。

 ただまっすぐに、一点を見据えるような視線で俺を見つめ返してくる。


「ええ、そう」

「お前は誰だ」

「私はソラナ」


 ソラナ。

 知らない名前だった。

 いや、そもそもこんな能面のような無表情で話を続ける女性など俺は知らない。


「お前が、あのメッセージを送ったのか、どうして。どうやって?」

「その問いは、現在の状況において重要ではない。私が彼女のアカウントを使用した理由は、あなたと接触するために最も確実性の高い手段だったから。それ以上の説明は、無意味」


 女性、ソラナは、極めて簡潔に答えた。

 その堂々とした回答に、俺は呆れ果てた。


「話がまったく通じないな。死んだ人間の名前を騙って他人を呼び出すなんて、自分がどれだけ常軌を逸したことをしているかわかっているのか。ただの悪趣味な愉快犯か、それとも他人の私生活を覗き見るのが趣味の犯罪者か」


 俺は彼女の行動を、社会的な常識の観点から非難した。


「いいえ、私は確認しにきた」

「確認か?ふざけるな。若菜の名前を使いやがって!」


 俺は苛立ちを隠せずに声を荒らげた。


「お前は死んだ人間の尊厳を踏みにじっている。他人の悲しみを利用して人を呼び出すなんて、ただの最低な行為だ。警察に通報されたくなければ、今すぐどうやって情報を得たのか説明しろ」


 しかし、この女性――ソラナはまったく動じない態度だった。

 普通の人間であれば、警察という単語を出せば少なからず動揺するはずだ。だが、彼女にはそれが見えない。

 俺の脅しがまったく通用していない。いや、彼女にとって警察という公的機関の存在すら、どうでもいいことらしい。


「私は、あなたがまた逃避へ戻ることを選択するのか、それとも別の選択肢を受け入れるのかを確認しに来ただけ」

「……なんだと?」


 彼女の口から出た言葉は、俺の追及に対する回答ではなかった。

 会話のキャッチボールすら成立していない。


「逃避だと。別の選択肢だと。お前は何を言っているんだ」


 俺は声を荒らげた。

 だが、ソラナはそれ以上俺の問いに答えることはなかった。彼女はゆっくりと、体の向きを変えた。


「私は、案内役」


 案内役だと。

 彼女の落ち着いた出で立ちと、理路整然とした話し方は、確かに高度な教育を受けた人間のそれだった。だが、その内容は明らかに常軌を逸している。

 俺は彼女を、重度の妄想癖を持つ異常者だと判断しようとした。


「話は、別の場所で。事実を知りたいなら、私の後についてくることを推奨する」


 そのまま彼女の背中は、昼間の人混みの中へと歩き出した。

 俺はその場に立ち尽くしていた。

 俺の理性は、ここで彼女を追うことを明確に否定している。彼女は話の通じない異常者であり、他人のアカウントを悪用する存在だ。これ以上関わっても、俺に何の利益もない。すぐに踵を返し、自室へ戻るのが最も正しい行動だ。

 あるいは、警察に通報して彼女を捕まえさせるかだ。それが、常識的な人間の取るべき手段だ。


 なのに、俺の足は警察にも、帰路へ向かうためにも動かなかった。


――あなたがまた逃避へ戻ることを選択するのか、それとも別の選択肢を受け入れるのか


 逃避。

 確かに俺は、あの静まり返った部屋で、事実から目を背け、ただ朽ちていくのを待っていた。それが逃避でないと言い切れるだろうか。

 そして、別の選択肢。

 もし、この異常な女性が、若菜ユイに関わる何らかの情報を持っているのだとしたら。


 俺は、自分自身の判断力の甘さに自嘲する。

 相手のペースに巻き込まれるな。あれはただの頭のおかしい女だ。そう自分に言い聞かせるが、失った後輩を取り戻したいという俺のどうしようもない心が、全てを自滅的な破壊願望へと導いていく。

 もうどうでもいいんだ、と。

 たとえ、これが底意地の悪い悪戯であろうと、若菜のいない世界ではどうでもいい。そして、現状、若菜へと続く道があるとすれば、俺はそれに縋るしかないのだ。


 俺は深く、重たい息を吐き出した。

 周囲の人間たちは、立ち尽くす俺の横を通り過ぎていく。俺の葛藤など誰も知らない。

 俺は、人混みの中へ進むソラナとやらの背中を追うために、前へと足を踏み出した。


 駅前の雑踏は、昼間の忙しなさで満ちていた。

 彼女の歩みは決して速くはなかったが、人混みを避ける動きに長けているのか、少しでも目を離すと見失ってしまいそうになる。

 俺は、じっと彼女の背中を追いかけた。


 なぜ俺はこんなことをしているのか。

 分からない。少なくとも、相手は素性の知れない人間だ。どのような目的で俺を呼び出したのかすら明らかではない。このまま彼女についていけば、取り返しのつかない事態に巻き込まれる可能性が高い。

 だが、その警告を無視させるほどに、俺の精神は摩耗しきっていたのだ。


 前方を行くソラナが、歩道の角を曲がり、看板が立ち並ぶ通りへと入っていくのが見えた。

 その通りは、飲食店が密集する、駅前でも特に騒がしい区画だった。

 俺は彼女を見失わないように、同じようにその通りへと足を踏み入れた。


 やがて彼女は、全国展開している安価なファーストフード店の前で立ち止まった。

 店舗の正面には赤と黄色を基調とした派手な看板が掲げられていた。


 ソラナは自動ドアを通り抜け、店内へと入っていった。

 彼女は振り返ることなく、俺がついてきていることを前提に行動している。

 俺は店舗の前で数秒間立ち止まり、短い深呼吸をした。


 俺は自動ドアをくぐり、その騒々しいファーストフード店の中へと足を踏み入れた。


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