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水槽の脳は君の夢を見るか?  作者: 速水静香


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第二話:衝撃


 音がなかった。


 これほどまでに、世界というのは静かなものだっただろうか。

 自室の天井を見つめながら、俺はそんなことを考えていた。以前は気にも留めていなかったエアコンや冷蔵庫の動作音さえ、今の俺には耳障りなほどに大きく聞こえてくる。それほどに、人間が発するあらゆる生活音が、俺の日常から消失してしまっていた。


 この集合住宅の一室は、もともと一人のために設計された部屋だった。一人が寝て、一人が食事を取り、一人が過ごす。そのための場所。

 それなのに、俺は今、この圧倒的な静寂に耐えかねていた。かつて、俺の静かな日常を無遠慮に破壊し、勝手なルールを押し付けてきたあの騒がしい存在。彼女が去ってからというもの、この部屋は静まり返った場所への回帰を遂げていた。


 窓から差し込む陽光が、宙を浮遊するほこりを照らしていた。

 床に落ちるまで、それは不規則な軌道を描き続ける。俺はそれを、ただ何も考えずに目で追っていた。床に降り積もる塵を掃除する気力など、今の俺にはどこにもない。汚れは積もる一方だ。


 あの日、別れ際に交わした指切りの約束。


『明日は俺が料理を作るからな。期待しないで待ってろ』


 そう言って、俺は自分の小指を彼女の柔らかな指に絡めた。彼女の確かな体温、あの嬉しそうな笑み、何度も振り返りながら手を振って去っていった後ろ姿。そのすべてが、つい昨日のことのように思えた。


 しかし、その『明日』が訪れることはなかった。


 次の日の朝、俺のスマホには何の通知も来ていなかった。

 いつもなら、朝からうるさいほどのメッセージが届いているはずだった。俺のスマホには、毎日決まった時間に彼女からの報告が表示されるのが常態化していた。『おはようございます!』という文字に始まり、自分が今朝食べた朝食のメニューや、通学路で見つけた何かのことなど、俺にとってはどうでもいい情報の羅列が始まる。俺はそれに短く返信をするか、あるいは無視をして学校へ向かう。それが俺たちの日常だった。

 だが、その日は何もなかった。

 俺は彼女が寝坊でもしたのだろうと推測を立て、一人で学校へと向かった。もちろん、通学路に彼女の姿はない。誰にも話しかけられることのない道のりは、とても静かだった。横断歩道で信号を待つ間も、隣から弾むような声が聞こえてくることはない。周囲を行き交う学生たちはそれぞれの交友関係の中で会話を交わしているが、俺はただ黙って前を見て歩き続けた。


 授業が始まり、午前中のカリキュラムが淡々と消化されていく。

 黒板に書かれる文字をノートに書き写しながらも、俺の意識はどこか別の場所を浮遊していた。教師の単調な声。その中で俺は思考を重ねた。風邪か何かか?いや、あいつなら風邪だったら、真っ先に報告のメッセージを送ってきそうだ。じゃあ、スマホをなくしたのか?いやいや、それこそ、物理的に俺に近づいてくるはず。結局、俺は若菜の行動について考えていた。そして、休み時間になるたびにスマホを確認している自分がいた。

 休憩時間が来ても、彼女が俺の教室に現れることはなかった。

 いつもなら、チャイムが鳴り終わるか終わらないかのうちに、教室の入り口から俺の名前を呼ぶ声が聞こえてくる。周囲の目を一切気にせず、弁当箱を手にした彼女が強引に俺の机の前にやってきて、昼食の時間を共に過ごすことを強要してくるのだ。俺はそれを迷惑だと言いながらも、結局は彼女のペースに巻き込まれることを許容していた。

 だが、今日はいつまで待ってもその姿はない。

 俺は席を立ち、一年生の階へと足を運んだ。廊下には弁当を広げる生徒や、購買部へ急ぐ生徒たちが溢れている。その中を通り抜け、彼女の教室の前まで行き、窓から中を覗き込む。

 彼女の机は、空席だった。鞄もない。

 体調不良で休んでいるのだろう。それも結構、重症だ。俺は自分のスマホから『学校を休んでいるのか。しっかりしろ』と短いメッセージを送信した。


 もちろん、俺のメッセージに既読の文字がつくことはなかった。


 彼女の家へ直接向かうという選択肢が浮かんだ。学校からは徒歩で移動できる距離だ。だが、もし単なる風邪であり、家族が看病している場所へ部外者がアポなしで訪問するのは迷惑だろう。まずは学校が把握している情報を引き出すのが妥当だと俺は思った。

 俺は職員室へ向かい、彼女のクラスの担任教師を探した。


「失礼します。一年生の若菜ユイの件で聞きたいことがあるんですが」


 俺が声をかけると、書類に目を通していた中年の教師が顔を上げた。


「君は、若菜の知り合いか」

「幼馴染です。今日学校に来ていないようですが、理由を知っていますか」


 教師はゆっくりと立ち上がり、周囲の教員たちを見渡してから、俺を促した。


「少し、別の場所で話そう」


 連れて行かれたのは、相談室だった。室内には簡素な机とパイプ椅子が置かれているだけの簡単なもの。教師は俺と向かい合って座った。


「落ち着いて聞いてほしい」


 教師は、ゆっくりと言葉を話し始めた。


「若菜ユイは、亡くなった」


 亡くなった。

 あまりにも突然すぎる。


「亡くなった? 何かの間違いじゃないですか。昨日の放課後、俺は彼女と一緒に帰りました。彼女が死ぬ理由なんてどこにもない」


 思わず俺は事実を並べ立てた。昨日の夜、俺たちは確かに言葉を交わし、小指を絡めて約束をしたのだ。

 教師は、伏せ目がちに俺の顔を見た。


「その日の夜だ。自宅近くの交差点で、トラックに轢かれた。即死だったそうだ」


 教師の口から語られるのは、分かりやすく、受け入れにくい言葉だった。

 交通事故。

 若菜と俺が、どれほど強固な関係性を築いていようと、どれほど明日を待ち望んでいようと、この事実の前には何の意味も持たない。

 俺の口はわずかに開いたまま、何の音声も発することができなかった。


 事故は一定の確率で確実に発生する。それは非常に低い可能性だろうと、実際に発生するイベントなのだ。

 そして、俺が彼女にどんな約束をしようが、あるいは彼女がどんな未来を語ろうが、事故とはまったく関連性はない。

 俺はつらつらと思考を重ねていた。


 ただ、その日、俺がそのあと何をしたのか、まったく思い出すことはできない。


 記憶にあるのは、彼女の葬儀に参加したくらいだろうか。


 数日後に行われた葬儀は、俺にとって無意味な情報の連続だった。

 黒い服を着た大人たちが集まり、形式的な慰めの言葉を交わしている。誰もが沈痛な面持ちを作り、目を潤ませているが、その感情の裏側には、自分が当事者でなくてよかったという安堵が隠れているように見えた。他人の死を消費して、自分たちの生を確認するための儀式。それが俺の目から見た葬儀の正体だった。

 俺はただ、木製の棺の中にあるとされる彼女の遺体は損傷が激しく、みることはできなかった。

 ただ、別に俺は彼女の遺体に興味はなかった。それはもう、俺に騒がしく話しかけてくる若菜ユイではなく、ただの死んだ人間組織の集合体でしかなかったと理解していたからだ。


 俺が求めていたはずの、誰にも干渉されない平穏な日常は、これ以上ないほど最悪の形で実現してしまった。



 あれから、数週間の時間が経過した。

 俺は学校に行くのをやめた。出席日数も成績も、俺の人生において何ら価値を持つものではなくなっていた。

 ただベッドの上で横たわっている。

 一日中、何をするわけでもなく、ただ時間が過ぎていくのを感じていた。窓から差し込む光の角度が変わることで、朝が来て夜になることを確認するだけだった。


 ふと、視線を台所へと向けた。

 水切りカゴの中には、洗われたまま放置された二つのマグカップが並んでいる。俺の無地のグレーのカップと、若菜が勝手に持ち込んだ黄色の花柄のカップ。彼女が去った後、俺はその派手なカップを一度も手にしていない。俺にはそれが何かの呪いのように見えたからだ。彼女が俺の部屋に存在したという事実を、絶えず突きつけてくるのだから。


 窓際の鉢植えに目をやる。

 彼女が、部屋が暗すぎるからと言って買ってきた小さな植物。あの日、彼女が慎重に水を与えていたときには鮮やかな緑色だった葉は、今や茶色く変色し、水分を失って力なく垂れ下がっている。俺は一度も水を与えていない。世話をしなければ枯れる。その単純な事実を理解していながら、俺はどうしても手を伸ばすことができなかった。植物が枯れ落ちていく過程を見ていると、まるで彼女がいた痕跡が、この世界から少しずつ削り取られていくのを見せつけられているようで、正視できなかったのだ。


 ベッドに戻り、俺は再び天井の汚れを見上げた。

 若菜がいれば、今頃はテレビの電源を入れて、下らないバラエティ番組でも見て大笑いしていただろう。俺の冷めたツッコミを適当に受け流し、また何か新しい騒動を俺の部屋に持ち込んできたはずだ。


『先輩も素直に笑えばいいのに!』


 彼女の声が、幻聴として脳内で再生される。

 だが、今の俺の視界にあるのは、ただの無機質な天井だけだ。


 俺の人生は、当初の理想通り極めて単純なものになった。人間関係の煩わしさもなく、他人のために時間を使う必要もない。だが、その結果として俺の手元に残ったのは、静寂と諦念だけだった。

 この俺の脳内に蓄積された若菜ユイという膨大な情報のパターンは、出力される場所を失い、行き場のないまま俺の精神を内側から食いつぶし続けている。

 彼女は死んだ。もはや会うことはできない。

 しかし、俺の脳は、その絶対的な事実を拒絶し続けているのだろう。今でも玄関のドアが開き、あの呆れた声が聞こえてくるのではないか。そんな馬鹿げた妄想を、俺の脳は何度でも再生しようとする。


 俺は自分を、淡々とした人間だと思っていた。

 だが、今の俺は、意味のない過去に入り浸る、ごみのような人間だった。前に進む理由もなく、かといって自らを終わらせるような行動力もない。


 静寂が、部屋の空気を重たくしていく。

 俺は目を閉じた。それでも、頭の中では彼女の笑い声が繰り返し再生され続けている。


 若菜、お前は本当に……。


 その時だった。


 机の上に置いていたスマートフォンが、短い振動音を発した。

 メッセージの受信を告げる通知音。

 俺は無視しようとした。どうせ、学校や両親からの適当なメッセージだ。


 だが、暗い部屋の中で光り続ける画面が、俺の視線を強引に支配し始めた。


 うるさい。

 俺は体を起こし、スマートフォンを手に取った。

 画面を見る。


 通知センターに表示されていた送信者の名前を見た瞬間、俺の思考は硬直した。


『若菜ユイ』


 見間違いではなかった。


 あり得なかった。

 死者からのメッセージ?


 俺は自分を疑った。

 いや、これは絶対に誰かの、悪趣味な悪戯だ。

 そうに決まっている。彼女のアカウントを乗っ取った愉快犯か、あるいは何か別の手法の。

 常識的に考えて、死人がスマホを使ってメッセージを送れるわけがない。そんな現象を認めてしまえば、俺がこれまで信じてきたものがすべて崩壊してしまう。


 俺は、そのメッセージの通知をタップした。


『駅の北口の場所で待っている』


 短く、しかし明確な言葉。


 馬鹿馬鹿しい。

 俺はスマートフォンをベッドに放り投げた。

 こんなあからさまなものに引っかかるほど、俺は愚かではない。これは死者の尊厳を傷つける、最低最悪の行為だ。無視してアカウントをブロックするなり、取るべき合理的な対応は決まっている。

 こんなもの、相手にする価値もない。

 そう結論づけたはずだった。


 だが、俺は、俺の意志を無視して動き始めてしまった。


 クローゼットから、適当な上着を引っ張り出す。

 洗面所に向かうこともなく、ただ玄関に向かった。

 靴を履く。あの最後の日、若菜と一緒にスーパーへ行った日に履いていた、あのスニーカーだ。


 なぜ俺は外に出ようとしているんだ。

 自問自答するが、明確な答えは出ない。

 行っても、そこには誰もいない。あるいは、俺の惨めな姿を見て嘲笑う、見知らぬ悪意を持った人間が立っているだけだ。それは分かりきっていた。


 それでも。

 もし、万に一つの可能性、いや、数億分の一の確率でもいい。

 あの騒がしい声が、そこにあるのだとしたら。


 俺は玄関のドアを開け、外へと踏み出した。


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