第一話:指切りの約束
放課後の教室は、どうしてこうも騒がしいのだろうか。
本日の授業がすべて終了したことを告げるチャイムの音が鳴り終わるか終わらないかのうちに、クラスの連中は一斉に立ち上がり、それぞれの交友関係の輪を形成し始めた。机を寄せ合い、大きな声で笑い、放課後の予定について中身のない議論を交わしている。連絡用のアプリを開いて誰かの家で遊ぶ約束を取り付けたり、駅前のファーストフード店で何時間も粘る相談をしたりしている。それは、俺からすればただの時間の無駄遣いにしか思えなかった。わざわざ疲れるだけの人間関係を構築し、他人に気を使ってまで群れる理由がわからない。一人でいることを恐れ、誰かとつながっていることでしか自分の存在価値を認められないのは、ひどく面倒な生き方だ。他人の顔色を窺い、場の空気を読み、自分を偽ってまで同調する。その労力に見合う対価が、果たしてその薄っぺらい関係性にあるというのだろうか。どうせ数年後にこの学校を卒業すれば、今連絡を取り合っている連中の大半とは顔を合わせることもなくなるのだから。
俺は自分の席に座ったまま、そんな周囲の様子を冷ややかな思考で分析していた。誰に声をかけることもなく、誰から声をかけられることもない。俺は他人に理解されたいという欲求を持たず、他人に期待することもない。そのため、クラスの中では徹底して一人で過ごす立ち位置を確立していた。無用な人間関係を避け、ただ与えられた時間をやり過ごす。孤立は孤独ではなく、自衛の手段だ。人間関係という不確定要素を排除すれば、人生は驚くほどシンプルになる。それが最も合理的な学校生活の送り方だと俺は考えている。
教室を出て、コンクリートで舗装された廊下を歩く。
周囲にいる生徒たちの集団を避けながら、進んでいく。誰も俺のことなど見ていないし、俺も彼らを見ていない。もし仮に、俺がすれ違う生徒の顔を記憶したところで、今後の人生において何の役にも立たない。俺が求めているのは、誰にも干渉されない平穏な日常だ。
階段を下りて、一階の昇降口へと向かう。多数の靴箱が規則正しく並ぶその空間は、部活動に向かう者や帰宅しようとする生徒たちでごった返していた。俺は自分の靴箱を見つけ、学校指定の靴から履き古したスニーカーへと履き替えた。
よし、これで今日も無事に誰とも関わることなく帰宅できる。そう思って昇降口の外へ出ようとした、その時だった。
「せーんーぱーいっ!」
背後から突然、弾むような高い声が飛んできた。
振り返るまでもない。俺の平穏な高校生活において、こんな風に遠慮なく、そして周囲の目を一切気にせずに声をかけてくる人間は一人しか存在しない。
「遅いですよ! 愛しの後輩を待たせるなんて、罪な人ですね!」
一つ年下の後輩であり、腐れ縁が続いている幼馴染、若菜ユイが小走りで近づいてきた。
俺がどれだけ人間関係の断捨離を徹底しようとも、幼稚園来の付き合いを理由に俺のパーソナルスペースを当然のように侵食してくる唯一の人類種だ。彼女は指定のブレザーをきちんと着こなし、肩まで伸びた髪を揺らしながら俺の隣に並ぶ。その顔には満面の笑みが浮かんでおり、俺の冷たい態度などまったく気にしていない様子だった。
「待てと頼んだ覚えはない。それに、お前のそのテンションはなんなんだ」
「なんなんだとはひどいです! 大好きな先輩と一緒に帰るためなら、地の果てまでお供する覚悟ですよ!」
若菜はそう言うと、俺の右腕に自分の両腕を絡ませてきた。
柔らかな感触と、彼女が使っているであろうシャンプーの甘い香りが、距離を無視して伝わってくる。周囲にいる他の生徒たちが、ちらちらとこちらを見ているのがわかった。常識的に考えて、学校の昇降口で男女が腕を組むなど、目立つに決まっている。
「おい、馬鹿。離れろ。歩きにくいだろ」
「えー? 歩きにくいですか? 私は歩きやすいですけど。それに、こうして腕を組んでいると、なんだかドキドキしませんか?」
「しない。ただの歩行の妨げだ。それに、学校の敷地内でそういう誤解を招くような行動は慎め」
「もう、先輩はいつもそういうひねくれたことばっかり言うんだから。もっと素直に照れてくれてもいいんですよ? 顔、少し赤くなってますよ?」
「なってない」
彼女は俺の腕にさらに体重をかけ、顔を下からのぞき込んでくる。
「じーっ。後輩の上目遣いっ!」
「おいおい、自分から言うなよ」
俺は呆れたように息を吐き出し、強引に腕を引き抜いた。
「えー、その先輩、その反応はダメですよぉ!もぉー!」
若菜は不満そうに口を尖らせた。
「はいはい、本当に騒がしい奴だな。さっさと帰るぞ」
俺が突っ込むと、すぐにまた元の笑顔に戻った。本当にコロコロと表情が変わる。
「違います!騒がしいのは愛情の裏返しです!さあ、帰りましょう。今日は私が先輩の夕食を作ってあげる日ですからね」
「そんな約束はしていない」
「さっき私が勝手に決めました。先輩の家の冷蔵庫、昨日見たときにはもう飲みかけの炭酸飲料とマヨネーズしか残ってなかったじゃないですか。あんな食生活を続けていたら、絶対に倒れますよ」
若菜の指摘は、残念ながら事実だった。
自分で料理をする手間を考えれば、スーパーで適当な弁当を買う方がはるかに安価でタイパが良い。
「俺は適当な弁当を買って食べるからいい。お前の世話になる理由がない」
「いいえ!愛が足りていません!その先輩の不健康な生活を正せるのは、私しかいません。さあ、先輩の家へ、ゴーです!」
若菜は俺の鞄の持ち手を掴み、強引に昇降口の外へと引っ張っていった。
俺は抵抗することもできたが、彼女のその強い力に逆らうのは余計に労力を消費すると判断し、大人しく引きずられることを選んだ。彼女の言う通り、自分で食事を用意する手間を考えれば、彼女に任せてしまった方が楽であるのも確かだった。
学校から駅へと向かう通学路は、帰宅する生徒たちや近隣の住民たちで賑わっていた。
道路の脇には様々な店舗が立ち並び、目立つ看板が自己主張を繰り返している。横断歩道の前に差し掛かると、ちょうど信号が赤に変わった。俺たちは立ち止まり、目の前を通り過ぎる車両の群れを見送る。多くの人間が信号機に従って、青になれば一斉に歩き出していた。
俺の隣に若菜がいると、彼女が絶え間なく話しかけてくるため、どうしても彼女を中心として意識を向けざるを得なかった。
「ねえ先輩、『大宇宙からの絶対存在』って映画知ってますか? 主人公がすごくかっこよくて!」
「見ていない。俺は映画やドラマなどという作られたフィクションに興味がない。どうせ都合の良い奇跡が起きて、予定調和の結末を迎えるだけだろ。時間の無駄だ」
「もう、またそんなこと言う。フィクションだからこそ、夢があっていいんじゃないですか。現実が厳しいからこそ、物語の中くらい幸せになりたいんです」
「現実逃避の手段としては安易すぎる。問題は現実で解決しなければ意味がない」
「そういう理屈っぽいところ、先輩らしいですね。だからこそ、私がそばにいてあげなきゃって思うんですけどね!」
「お前のその義務感はどこから発生しているんだ。こっちから頼んだ覚えはないぞ」
「愛です! 愛の力ですよ!」
若菜は悪戯っぽく笑いながら、俺の肩を軽く叩いた。
彼女のその根拠のない自信がどこから来るのか、俺には理解できなかった。前を歩く高校生のカップルが、楽しそうに手を繋いでいるのが目に入った。
「先輩、見てください。あそこの二人、すごく仲良さそうですね。うらやましいなあ」
「ただのホルモン分泌による一時的な錯覚だ。人間の感情など、脳内の化学物質の反応に過ぎない。数ヶ月もすればどうせ別れて、また別の相手を探すだけだ」
「そんなことないんじゃないですか?卒業したらそのまま結婚しちゃうかも!」
「はぁ、学生時代の恋愛が結婚関係に発展するのは統計的に4%だ。それっぽちの関係を永遠の愛だの何だのと勘違いしている連中は、ただ現実が見えていない」
「……先輩って、本当にそういうロマンチックな話を台無しにする天才ですよね。どうしてそんなにひねくれちゃったんですか?」
「事実を述べているだけだ。俺は嘘をつくのが嫌いなんだ。永遠などという非科学的な概念は信じない」
「ふふっ、でも私は信じてますよ。先輩との関係が、ずっと続くって」
「そうか、そうか」
俺は適当にうなずきながら、視線を前に戻した。
彼女の口から次々と飛び出す話題は、俺にとってはどれも取るに足らないものばかりだった。しかし、俺がどれだけ論理的にそれを切り捨てても、彼女は決して黙ることはなかった。一人で無音の道を歩くよりは、彼女の賑やかな声を聞きながら歩く方が、時間の経過を早く感じさせるのは事実だった。
「よし、じゃあ今日は私の特製ハンバーグでどうですか。先輩の胃袋を完全に掴む作戦です」
「ハンバーグは手間がかかるだろ」
「そういう話じゃなくてですね!」
「簡単なやつでいいだろ、野菜炒めとか」
「もう、またそうやって理屈で返す! いいから、今日は私の手作りハンバーグを楽しみにしていてくださいね。愛を練りこんで、絶対においしいって言わせてみせますから!」
しばらく歩くと、大通りに面した大型スーパーマーケットが見えてきた。
入り口の周辺には多数の自転車が停められており、店内からは宣伝の放送が聞こえてくる。若菜は迷うことなくその店舗へと足を踏み入れた。俺もその後を追って自動ドアを通る。
店内は、夕飯の買い物客でごった返していた。
野菜売り場や精肉売り場には、特売品の札が至る所に掲げられており、それを求める人間たちが群がっている。
「先輩、カゴを持ってください」
若菜は入り口に積まれた買い物カゴを一つ手に取ると、当然のように俺に差し出してきた。
「はいはい」
「先輩、早く!早く!品物がなくなっちゃいます」
「なくならないだろ。そんなに騒ぐなよ」
俺は文句を言いながらも、彼女からカゴを受け取った。彼女が重い荷物を持って歩くのが遅くなれば、それだけ俺の家に着く時間も遅くなる。それは非効率だ。そう自分に言い訳をして、俺はカゴを下げて彼女の後ろを歩き始めた。
若菜は精肉売り場で足を止め、手際よく品定めを始めた。
「今日は合い挽き肉がお買い得ですね。玉ねぎと卵と、パン粉は先輩の家に……絶対ないですよね」
「あるわけないだろ」
「それは分かっています!だから買っていきますよ」
彼女は俺の意見など聞くこともなく、次々と商品をカゴに入れていく。
その顔は真剣そのもので、頭の中ではおいしいハンバーグを作成中のようだった。
「あ、玉ねぎがこの値段はちょっと高いですね」
「俺は何でもいいと言っているだろ。もやしでいい」
「もやし!ハンバーグにもやしですか、先輩!」
「何か問題か?食えばいっしょだろ。前に作ったが、意外と旨かったぞ」
「……はぁ、ハンバーグにもやしはないです。ピーマンを入れましょう。先輩、ピーマン嫌いじゃないですよね?」
後輩はあきれ顔だ。本当に失礼な奴だと思った。俺のもやしハンバーグを馬鹿にするとは。
「好きでも嫌いでもない」
「いちばん困る返しですね……。まあいいです、好き嫌いがないのは良いことです。じゃあ、これもカゴに入れますね」
若菜は楽しそうに笑いながら、ピーマンの袋をカゴに入れた。
俺はため息をつきながら、その後ろ姿を眺めていた。
「あ、先輩! ポテトチップスを買いましょう!」
「夕食の買い物に来ているのに、なぜお菓子を買うんだ。太るぞ」
ペチッ!
そのとき、俺の頭が叩かれた。
「先輩!失礼ですよ!太るなんて!」
後輩が口の先を尖らせている。
「ああ、そうだな。若菜はやせてるしな」
俺は、謝罪の言葉を口に出しながらも、心の中でなんだ、こいつと思っていた。
「食後のデザートは別腹なんです! それに、二人で映画でも見ながら一緒に食べるの、楽しくないですか?」
「別、俺はお前と映画を見る約束などしていない」
「今したじゃないですか! ねえ、いいでしょ?いいでしょ? カゴに入れますよ!」
若菜は俺の返事を待たずに、ポテトチップスの袋をカゴの中に放り込んだ。
「おい、そんなに買って食べきれるのか。腐らせたら無駄になるぞ」
「大丈夫ですよ。作り置きして冷蔵庫に入れておきますから。先輩、ちゃんと明日も食べるんですよ。勝手に総菜とか弁当とか買っちゃダメですからね」
「あー、はいはい」
「私の愛の結晶ですよ?もっと、喜んでください!」
若菜はそう言って、得意げな顔をした。
買い物を終えてレジの列に並ぶと、前の客が財布から小銭を探すのに手間取っていた。俺は待たされる時間を無駄だと感じていたが、若菜はまったく気にする様子もなく、自分のスマートフォンの画面を操作して準備を整えていた。
「ポイントカードのアプリ、出しておかないとですね」
「お前はいつもそんな細かいことを気にしているな。ポイントとかな、企業が顧客を囲い込むための罠だぞ。結局は不要なものを買わされているだけだ」
「いいじゃないですか。これでちょっとでも節約できれば、次にまた買えるんですから」
彼女はスマートフォンの画面を見せてきた。
俺はその単純な思考に呆れながらも、それ以上反論することはしなかった。彼女がそれで満足しているのなら、俺がわざわざそれを否定する必要はない。
会計を済ませ、スーパーを出る。
買った商品は持参したエコバッグに詰め込まれ、それは当然のように俺が持つことになった。そこそこの重さがあるが、俺にとっては苦になるほどではない。俺が荷物を持ち、若菜が隣をぴったりとくっつく。その並び方で、俺たちは再びアパートへの道を歩き出した。
俺の住むアパートの部屋は、単身者用の狭い間取りだった。
実家はこの街の中にあり、通学に不便はない。それにもかかわらず俺が家を出たのは、年を重ねても異常なほど仲が良い両親が、夫婦水入らずの生活を満喫するために俺を体よく追い出したからだ。「一人暮らしなら若菜ちゃんをいつでも部屋に呼べるだろう」などという的外れで押し付けがましいセリフとともに用意されたこの部屋は、彼らの過剰な干渉の産物でしかない。
当然、俺はそんな思惑に乗るつもりはなかった。玄関のドアを開けると、そこには生活感のない殺風景な空間が広がっている。家具は最低限の実用的なものしか置いておらず、趣味の物などは一切存在しない。他者を招き入れることを想定していないこの部屋は、俺が一人で静かに時間を消費するためだけの場所だった。
しかし、両親の思惑もあってか、当の若菜が来るようになってから、その状況は強制的に変えられていっていた。
「お邪魔します!」
彼女は慣れた様子で靴を脱ぎ、俺よりも先に部屋の中へと入っていく。
俺はドアを閉め、彼女が買ってきた食材の入った袋を台所のカウンターに置いた。
「先輩、そういう時はただいまーって言うんですよ」
「俺の家だぞ。お前がお邪魔しますだろ。なぜ俺が自分の家でただいまと言わなきゃいけないんだ」
「細かいことは気にしない! そういうシチュエーションが大事なんです。ほら、ただいまは?」
「……ただいま」
「はい、おかえりなさい、あなた! ご飯にする? お風呂にする? それとも……」
「おいおい!その先は言わせないぞ」
「ちぇっ、ノリが悪いですね」
若菜は持参したエプロンを手際よく身につけ、冷蔵庫を開けて食材の整理を始めた。俺はその指示に従い、部屋の中央にある小さな机の前に座った。
机の上には、俺が普段使っているノートやペンが乱雑に置かれている。そして、部屋の隅の窓際には、小さな緑色の葉をつけた鉢植えが置かれていた。
それは数週間前、彼女が部屋が暗すぎるという理由で勝手に買ってきたものだった。
「先輩、また部屋が散らかってますよ。少しは片付けたらどうですか」
「俺はどこに何があるか把握している。この部屋は俺にとって最適化されている」
「それはただの言い訳です! ほら、このプリントとか、いつのテストですか。捨てますよ」
「勝手に触るな。後で俺が整理する」
「絶対しないパターンのやつですね。仕方ないなあ、私が後で片付けてあげますから感謝してくださいね」
若菜は呆れたように笑いながら、台所の水道から小さなカップに水を汲み、窓際の鉢植えに慎重に水を注いだ。
「ほら、元気にしてる。新しい葉っぱも出てきましたよ。先輩も見に来てください」
「見に行く意味がない」
「もう、本当に可愛くないですね。少しは愛着を持ったらどうですか。私がいない間に枯らさないでくださいよ」
「だから最初から俺は責任を持たないと言っている。面倒なものを持ち込むな」
俺は冷たい言葉を投げかけたが、若菜はまったく気にしていない様子で植物をじっと見ていた。
自然のものをわざわざ人間の管理下に置いて、狭い部屋で育てることの不自然さを俺は指摘したかったが、彼女にとってはそれが生活に彩りを与えるという重要な行為なのだろう。俺はそれ以上追及するのをやめ、台所で作業を始めた彼女の後ろ姿を眺めた。
まな板の上で包丁が規則正しい音を立てている。
彼女の手際は良く、玉ねぎをみじん切りにし、ひき肉と混ぜ合わせてこねていく。若菜は作業をしながら、楽しそうに何か歌を歌っていた。フライパンに油が引かれ、コンロの火がつけられる。やがて、部屋の中に肉が焼ける香ばしい匂いが広がり始めた。
俺はただ、その光景をぼんやりと見つめていた。
「できましたよ! 若菜特製、愛情たっぷりハンバーグです!」
若菜が明るい声を上げ、机の上に二つの皿を並べた。
湯気を立てる料理は、確かにコンビニの弁当よりは見た目が良い。彼女は台所の棚から、二つのマグカップを取り出した。一つは無地のグレー、もう一つは黄色の花柄が描かれた派手なものだ。
それも彼女が勝手に買ってきたものだった。もともと、俺の部屋には紙コップしかなかったため、彼女が強引に自分用と俺用の専用カップを用意したのだ。
「お茶も淹れましたから、熱いうちに食べてくださいね」
彼女は自分の花柄のカップと、俺のグレーのカップを机の上に置いた。
俺たちは向かい合って座り、箸を手に取った。
「いただきます」
若菜が両手を合わせて明るく言い、俺もそれに倣って食事を開始した。
ハンバーグを箸で切り分け、口に運ぶ。
手作りの温かさと、肉の旨味が口の中に広がる。俺が黙って咀嚼していると、若菜は身を乗り出すようにして俺の顔をのぞき込んできた。
「どうですか? おいしいですか?」
「……ああ、悪くない」
「素直じゃないですねえ。もっと褒めてくれてもいいんですよ? お前が作った飯は世界一だ、とか」
「誰がそんなこと言うか。これは公平な評価をすることにしてるんだ。これは、標準的な家庭料理の域を出ていない」
「はいはい、標準的で結構です。愛情というスパイスがたっぷり入ってるんですからね!」
「変なものを入れるな」
「もう、本当に先輩は……!でも、残さず食べてくれるところは好きですよ」
「俺は出されたものは食べる主義なだけだ。ほら、お前もさっさと食べろ。冷めるぞ」
「あ、そうだ。先輩、あーん、してあげますよ。ほら、あーん」
若菜は自分の箸で切り分けたハンバーグの一切れを、俺の口元に突き出してきた。
「何を馬鹿なことをしているんだ。自分で食べられる」
「いいじゃないですか、新婚ごっこですよ! さあ、恥ずかしがらずに!」
「恥ずかしいとかそういう問題じゃない。どうかと思う」
「私の箸だから汚いって言うんですか!? ひどい!」
「そういう意味じゃない。食事は一人でゆっくり味わって食べるべきだと思っているんだ、俺は」
俺が頑なに口を開かないでいると、若菜は諦めたようにハンバーグを自分の口に放り込んだ。
「はいはい、いつもの屁理屈ですね。いつか絶対にデレさせてみせますからね」
彼女は嬉しそうに笑い、自分の食事を進めた。
食事中も、彼女の口は止まることがなかった。学校の教師の理不尽な宿題について、友達とのくだらないトラブルについて、次々と話題を提供してくる。俺はそれに短い返事だけを返し続けた。彼女にとって、俺が真面目に話を聞いているかどうかは問題ではないらしい。ただ、自分が経験した出来事を言葉にして出力し、俺という存在がそれを受け止めているという形式そのものが重要なのだろう。
食事が終わり、彼女が手際よく食器を洗って片付けてくれた。
俺は自分のベッドに背中を預け、ただその様子を眺めていた。部屋の隅にある小さなテレビの電源が、若菜の手によってつけられる。俺は普段テレビなどまったく見ないが、彼女がいる時だけは、この部屋に電子的な音声と映像が流れ込む。
画面には、有名な芸能人が出演するバラエティ番組が映し出されていた。
「あ、この人たち、最近すごく人気なんですよ。面白いですよね」
若菜は机の前に座り直し、テレビ画面を指さして笑った。
俺は画面に目を向けたが、そこに映っている人間たちの行動に何の価値も見出せなかった。
「作られた笑いってやつだろ。台本通りに動き、あらかじめ決められたように演じているだけだ。編集された笑い声とテロップ。そんなものを見て何が面白いんだ」
「またそんな冷めた分析をして。何も考えずに、ただ笑えばいいじゃないですか」
「俺は自分が操作されていると感じるのが不愉快なんだ。彼らは金のために自分の尊厳を切り売りして、視聴者はそれを見て優越感に浸っている。馬鹿馬鹿しい」
「先輩って、世の中の娯楽のほとんどを否定してますよね」
「事実を言っているだけだ」
「まあ、先輩がそうやって文句を言いながらも、ちゃんと一緒に見てくれるところは嫌いじゃないですよ」
若菜はそう言って、スーパーで買ってきたポテトチップスの袋を開け、俺の口元に差し出してきた。
「ほら、先輩も食べますか?」
「いらない」
「遠慮しないでくださいよ。はい、あーん」
「だから、そのあーんはやめろと言っているだろ」
俺は手で若菜の腕を軽く払い除けた。彼女は楽しそうに笑いながら、自分でポテトチップスを口に運んだ。
彼女の自然な笑い声が、テレビから流れる作られた音声を打ち消して、俺の部屋に広がっていく。俺はテレビの内容などまったく頭に入っていなかった。ただ、彼女がそこで笑っているという状況そのものを、一つの事実として受け止めていた。
そして、テレビの番組がニュースに切り替わると、彼女は鞄の中から高校の教科書とノートを取り出し、机の上に広げはじめた。
ニュースはつまらないんだろう。なんとも欲望に忠実な奴だ。
「先輩、そろそろ勉強教えてください。明後日、数学の小テストがあったんですよ、そういえば」
彼女はそういって、シャープペンシルを握った。
彼女は数学が苦手らしい。どうやら、彼女の感覚的な脳はうまく数学ができないらしい。俺は、彼女の隣に移動してノートをのぞき込んだ。
「二次関数のグラフか。何がわからないんだ」
「全部です」
「公式に数字を当てはめれば、必ず一つの答えが出る。そういう風に初めから調整されている。これほど単純で明快なものはないだろ」
「先輩にとってはそうかもしれないですけど。まず、この式がどうしてこういう形になるのか、まったく理解できなくて」
彼女はノートに描かれた数式を指でなぞりながらため息をついた。
俺は彼女の手からシャープペンシルを取り上げようとして、誤って彼女の手の甲に触れてしまった。若菜は一瞬ビクッと肩を揺らしたが、すぐに照れ隠しのように笑った。
「あ、先輩、今わざと触りましたね? セクハラですよ!」
「わざとじゃない。お前が変な持ち方をしているからだ」
俺は冷静さを装ってペンを受け取り、ノートの余白に計算の過程を書き込み始めた。
「こういう感じで変形する。あとは暗記すればいい」
「暗記って言われても……人間は機械じゃないんですよ」
「だからお前はテストの点数が悪いんだ。事実を事実としてそのまま受け入れろ。余計なことを考えるから間違えるんだ」
「うぅ、先輩の教え方は厳しすぎます。もう少し優しく、段階を踏んで教えてくださいよ」
「明日のテストまで、時間がないだろ。俺のせいにするな」
俺がそう言って突き放すと、若菜はノートに突っ伏して大げさな声を上げた。
「うううう~!もう、先輩のいじわる!先輩が数学セクハラ攻撃してくる!」
「なんだそれ、セクハラなのか、数学ハラスメントなのか…」
「全部です!」
そうして一しきり、泣きまねをした後に、彼女は顔を上げ、俺の書いた計算過程を睨みつけた。そして、何度かため息をつきながらも、自分の手で文字を書き写し始めた。
「こうして書けば…」
「そうだ、そうだ。書いていけば覚えられるだろ」
「もうーヤダ。先輩のお嫁さんになる。専業主婦に就職するぅ」
「おいおい、話の飛躍が大きすぎるだろ。俺はお前の将来の面倒まで見るつもりはないぞ」
俺は彼女が公式を暗記したり、問題を解いたりするのを見ていた。彼女の丸みを帯びた文字が、白い紙の上に並んでいく。
ペンの芯が紙を擦る音が、静かな部屋に聞こえてくる。彼女は時折、難しい顔をしながら計算を間違え、消しゴムで力強く文字を消しては書き直していた。
一時間ほど勉強に付き合わされた後、彼女はようやくノートを閉じた。
「あー、疲れました! 少しは理解できた気がします。ありがとうございます、先輩」
「気がするだけだ。明日には忘れているだろうな」
「そんなことありません!」
若菜は教科書とノートを鞄にしまい、スマートフォンの画面で時間を確認した。
「もうこんな時間ですね。そろそろ帰らないと、親に怒られちゃいます」
彼女は立ち上がり、制服のスカートの皺を伸ばした。
俺も立ち上がり、玄関まで彼女を見送るために歩き出す。若菜は靴を履きながら、ふと顔を上げて俺を見た。
「今日もおいしかったです。いつもお前ばかりに作らせるのも悪いな」
俺は不意にそんな言葉を口にしていた。
若菜は靴に足を入れたまま、目を丸くして俺の顔を見つめ返した。
「えっ? 先輩、どうしたんですか急に。悪いものでも食べましたか?」
「お前が作ったものを食べた直後に言うセリフじゃないだろ。常識的に考えろ」
「あ、そっか。えへへ」
「俺だって、料理くらいはできるんだぞ。お前が毎日来るから、自分が作る機会がないだけだ」
「本当ですか!? 先輩が生焼けのハンバーグを作っている姿しか想像できません!」
「失礼な奴だな。料理くらい人並みにできる。だから、明日は俺が作ってやる」
俺がそう言うと、若菜の顔にぱっと明るい色が広がった。
「えっ……! ほ、本当ですか!? 先輩の料理が食べられるんですか!?」
「ああ。俺が料理を作るからな。まあ、期待するな」
「期待しますよ! 変なもの作らないでくださいよ! 絶対ですよ! 約束ですからね!」
若菜は俺の前に手を差し出し、小指を立てた。
「ほら、指切りしましょう!」
「小学生かお前は」
「いいから、早く!」
彼女の勢いに押され、俺は自分の小指を差し出して、彼女の指と重ねた。
彼女の指の柔らかさと、確かな体温が伝わってくる。
「絶対ですよ。破ったら怒りますからね」
「ああ、約束は破らない主義だ」
「はい! 楽しみにしています!」
若菜は玄関のドアを開け、外に出た。
夜の冷たい空気が、部屋の中に流れ込んでくる。廊下の照明に照らされた彼女の顔は、この上なく嬉しそうな笑みを浮かべていた。
「それじゃあ、おやすみなさい、先輩!」
「ああ。気をつけて帰れ」
俺が短く返すと、彼女は何度も手を振りながら階段の方へと歩いていった。
彼女の足音がコンクリートの階段を下りていくのが聞こえ、やがてまったく聞こえなくなった。




