第三章 転 節一 固有領域 項二 消えた集落
八月四日。
夜が明けると同時に剛、侑芽、クロは集落を探すため出発した。
山に囲まれた広大な高原を進んでいく。
「何だか長閑なところね。ハイキングでもしてるみたい」
「そうだな。これでランチバスケットでも持っていたらハイキングそのものだなーーそういえば‥」
剛が先を歩くクロを見た。
「なぁ、クロ。一応聞くけど、この世界って腹が減らないんだな。喉も渇かないし」
「だから概念の世界だと言ったろ。飲まず食わず眠らずでも何も問題はない。夢の中だってそうだろ、同じことさ」
「そっかぁ、夢と同じなんだねーー私も何か変だなって思っていたんだ」
「侑芽お前。俺より一日早くこっちに来てるんだろう、今頃かよ」
「だってぇーーあれ?でも眠くならないけど、寝れば寝れるのよね」
「向こうの世界で寝るのとは意味が違うぞ。魂だけの世界じゃ体を維持する必要が無いからな。物欲ってものと縁遠いのさ」
「そうか。先人が言った生きるという事はしがらみだらけってそういう意味か。何か納得した、俺」
たわいもない話をしながら、かれこれ出発してから三時間が過ぎていた。
「かなり歩いたよな‥集落のシの字も出てこないぞーーこれはもっと何か居そうな場所へ飛んだ方がいいんじゃないか、クロ」
「確かにこの先には山しか見えないな、集落のありそうな気配も匂いもしないーーそうだな、違う場所に移動してみるか」
そう言ったクロの目の前に深い森が展開した。
二人と一匹が同じタイミングで森の中へ飛び込む。
「ここは?」
「エルフ集落の近くだったかも知れん‥不確かだが」
クロが巨木に近づき太い幹を見上げる。
その視線の先には記号のような傷が彫られてあった。
「ビンゴだぜーーこれは俺が残した傷だ」
「傷ってのはこの記号みたいなものか」
「そうさ。俺の記憶もまだまだ捨てたもんじゃないな」
剛が木の幹に彫られた傷を手で撫でている。
「なぁクロ。その猫の体でどうやってこんな傷を彫ったんだ?」
「お前、気にするのがそこかよ!ーー全く仕方ないな」
クロの体から黒い霧が噴き出していく。
黒い霧が広がり、人の背丈くらいになると人型に変形し、黒い霧が晴れると長髪の若い男が立っていた。
「え〜何これ?すごい!クロさんがイケメンに変身したわ」
「何だ、侑芽。お前こんな男がタイプなのか」
「えっ?何なに?剛、妬いてるの〜可愛い」
再び黒い霧が噴き出し、今度は黒髪でセクシーな若い美女が現れた。
「お?おおぉ!ーー痛てっ!」
ニヤけて美女を見る剛に、ムッとした顔の侑芽が剛の足を思い切り踏んでいた。
「傷を彫るなんて簡単な事よ。わかったかしら」
微笑んだ美女に頷いた剛の足を侑芽が踏み直す。
こいつら何なんだ‥。
黒猫の姿に戻ったクロが息を吐く。
「記憶が正しければ、集落はこの森を抜けた先だ」
森を抜けると、サッカーコート一つ分くらいの広い場所で出た。
「本当だ。集落だ」
森との境界には低い塀が造られ、その塀に囲まれた中に集落の建物らしいものが見える。
「でも‥静かだな‥人の気配がしない‥」
集落入り口まで来ても人影は見えなかった。
吹き抜ける風が桶や筵を転がし、カラカラと乾いた音だけを響かせていく。
塀の中に入ると、集落の建物は至る箇所が損壊していた。
「ゴーストタウンみたいね」
侑芽がポツリと呟く。
「この壊れ方‥魔物に襲われたな」
クロが集落を見回す。
「ねぇ剛、あれは何?」
「んっ?‥何だ?まだ動いてる‥白い犬か狼か‥」
集落の中で一際大きい建物の入り口付近に、狼のような白い犬が倒れていた。
「やだ!すごい血!怪我してるわ」
駆け寄ろうとする侑芽をクロが止める。
「やめておけ、そいつは魔犬だ」
クロに言われ、よく見れば白い犬の額と両目の下には梵字のような赤い紋様があった。
「あの傷じゃ、そいつはじきに消えて無くなるーーそれにあんな傷、俺達じゃ助けられない」
「でも、まだ生きてるわ」
「この世界じゃ、留まるか消えるか、それだけだ。諦めろーーおい!」
クロの話を聞かず、侑芽が魔犬に近づいていく。
「ひどい傷‥ねぇクロさん、本当に何も方法はないの?」
「だから無いと言っているだろ」
侑芽はポケットから花柄のハンカチを取り出すと、魔犬の背中にある抉られたような傷口にそのハンカチを乗せ、その上から手のひらを重ねた。
「ごめんね。治してあげたいけど、私達じゃ何も出来ないみたい‥」
侑芽がハンカチの上から傷口を撫でた時だった。
「えっ?」
侑芽の掌が紫色に光り始め、魔犬の傷口を覆っていく。
間も無くして紫色の光は消えた。
侑芽がポカンとして剛を見る。
血の染みたハンカチを退かすと、魔犬の背中にあった傷が無くなっていた。
「きゃ〜待って待って、ワンちゃん」
起き上がった魔犬が侑芽にピッタリと体を寄せ、頬を舐めている。
「今のは何だ?クロ」
「知るか!ーー復元か回復の術のようだったがな」
「回復と復元って違うのか?」
「回復は治す、復元はそもそもを無かったことにする。そんな違いだ」
「それじゃ、あの犬は助かったのかーーでも、どうしてだ?」
「侑芽を黄泉がえりさせたのはイザナムだーーもしかするとイザナムの神力が関係しているのかもな、今はこれくらいしか言えん」
「ねぇ剛、どうしよ〜懐かれたぁ」
「魔犬と言ったよなーー危険は無いのか?」
「魔物の類だ、安全とは言い難いなーーだが魔犬にしても犬の習性は持っている。あの感じでは侑芽を主人と認識してそうだ」
「どうする?」
「人慣れはしているようだし、おそらくこの集落の番犬だったんだろ」
「そうか‥集落を守ろうとしたんだなーーしかし、集落は無人のようだけど‥」
「所々に血の跡がある。魔物にやられて消滅したか、どこかへ逃げ延びたかーーどっちにしてもここで情報を得るのは絶望的になったなーー!?」
その時だった。
ズズンッ‥ズズンッ‥。
「クロ、これは何の音だ?」
恐竜の足音くらいの音が近づき、魔犬が唸り声を上げ始める。
「まずいな。多分ここを襲った魔物だーー魔犬を騒がせるなよ」
クロの体がカラスに変わり、上空へ上がっていく。
「侑芽。魔犬を宥めてくれ」
「分かった」
侑芽が魔犬を抱き寄せ、頭を撫でている。
直ぐにクロは空から降りてきた。
「見た事もないデカさの魔物だ。俺達でどうにかなる相手じゃないーー森の中に逃げ込め」
カラスから黒猫に戻ったクロが言う。
集落から出て、二人と二匹が森の中を奥へ奥へと進んでいく。
「音がしなくなったなーー逃げ切れたのか、なぁ侑芽ーー侑芽?」
振り返った剛の視界に侑芽と魔犬の姿は無かった。




