第二章 承 節二 黄泉へ
侑芽を名乗る女が剛を見つめる。
「剛。必ず戻って来て。私ずっと待っているから」
「戻るさ。俺はそのつもりだーーしかし今のところ、俺自身でも何が事実なのかさっぱり分からないーーだから、俺がいない間は‥」
「わかってるわ。大学には行かないし、誰とも会わないようにする。剛が戻るまで剛の体を見守っているからーー私を信じて」
まだ半信半疑な侑芽を名乗る女に対して、頷くことはできなかった。
「ーーすまないがそうしてくれ」
剛が黒猫に向き直る。
「あんたの事は何て呼べばいい?黒猫だからクロでいいか?」
「俺に名など無いからな、好きに呼べばいいーーやはり行くつもりなのか」
「行くーーそれじゃあクロ。頼む」
「本当にいいんだな」
頷く剛を見たクロがベッドルームの方へ歩き出す。
「ーー仕方ない。だったらそこのベッドに寝ろ」
剛がベッドに上がり、いつも寝る位置で横になると、黒猫の体から黒い霧が出て、黒猫を包み始める。
やがて黒猫の姿が消え、黒い霧が剛を包んでいく。
「剛!」
側で侑芽を名乗る女が声を上げる。
黒い霧が剛から離れると侑芽を名乗る女の目の前には、ベッドの上で眠っているような剛の体が横たわっていた。
「私、待っているから‥」
侑芽を名乗る女が祈るように呟く。
黒い霧はそのまま部屋の壁をすり抜け、マンションの外へと消えていった。
=何処から黄泉へ行くんだ?=
=まぁ、何処からでも行けるんだがーー今は侑芽が開けた黄泉の入り口から入る=
黒い霧が波凪神社の社の中へ入っていく。
=ここで侑芽が死んだと言っていたな=
=そうだ。丸い桃の形をした大きい石が割れているだろーーあれは侑芽が落として割ったんだ=
=ここでどうして侑芽は死んだ?=
=祭壇の横にある脚立の上から落ちて、石に頭を打ったんだな=
剛が片付けられた社の中を見回し、侑芽が死んだという事故を想像していく。
=石を落としたと言ったよなーーどうして、それが今は祭壇の上に乗っているんだ?クロが戻したのか?=
=こっちの世界じゃ、俺には実体が無いから無理だぜ。戻したのは黄泉がえりした侑芽だよ=
=自分を侑芽だと言い張っているあの女か‥=
黒い霧が割れた石の前で静止した。
=もう一度だけ聞くーー本当にいいんだな=
=ああ。構わない=
=ーーわかったーー我は汝の名を知る。我を通せ、死の神イザナムよ=
割れた石の間から紫色の光が輝き始め、徐々に大きくなっていき、やがて黒い霧を飲み込んで消えていった。
ーーーーー。
剛から黒い霧は離れ、再び黒猫の形に戻っていた。
「着いたぜ」
「ーー待てよ。これの何処が黄泉なんだよ」
剛の眼前には、剛もよく知る現世と変わらない街並みが広がっていた。
「概念の世界だからな。黄泉はここに来た者の記憶から作られる世界なのさ」
概念の世界‥。
何となくもっと違った世界を想像していた剛には意外でしかなかった。
「侑芽はこの世界にいるんだよな」
「いるぜ」
この世界に居るのなら‥。
剛は侑芽と住んでいた光台マンションへ向かい歩いていく。
ここに来た者の記憶で作られる世界なら、俺と侑芽の記憶は重なる部分が多いはずだ‥。
光台マンションを見上げる。
505‥。
見慣れたドア、インターフォンを押す。
チャイムの音が響き、ドア向こうから人の気配がする。
「は〜い」
ドアが開き、中から出てきたのは侑芽だった。
「侑芽!」
「剛!‥何で!どうして来たのよ!」
思いもしない侑芽の言葉に返す言葉が出なかった。
呆気に取られる剛を見た侑芽が目を伏せる。
「‥‥来ちゃったなら、もう仕方ないわね‥‥さぁ、入って」
そこは剛の知っている自分たちの部屋そのものだった。
「ごめんなさい剛。さっきは取り乱しちゃって‥」
リビングのソファに座った剛の隣に、侑芽が座りながら言う。
「いや、いいーーそれより侑芽、お前本当に死んでいるのか?今、向こうの世界にも侑芽と言い張る女が一人居る」
「知ってる‥それは私の飾り魂を宿した私よ」
「?‥飾り魂?私の私?‥」
顔を顰める剛を見たクロがテーブルの上に飛び乗る。
「飾り魂ってのは、俺の言った魂のコピーってやつだ。それでお前の目の前にいる侑芽が本魂って事だよ」
目の前にいるのが本魂の侑芽だと‥。
「まだ理解ができないが、こんな事ってよくある事なのか?」
「こんな事がよくあったら向こうの世界が混乱するだろうよ。今回は彼女が死ぬ間際に死の神を封印していた石を割ったからだーー黄泉がえりは死の神にしかできないからな」
「死の神‥ここに来る時にあんたが唱えたイザナムという名か?」
「そうだ。お前達に解りやすい言葉でいうなら、イザナムは俺の上司さ」
イザナムがクロの上司‥。
わかった事、まだわからない事を頭の中で整理していく。
「そのイザナムがどうして侑芽を黄泉がえりさせたんだ?」
クロに聞き返す。
「それはね、私がお願いしたからなんだ」
隣に座る侑芽が口を開いた。
社で起きた事が侑芽の頭の中で蘇っていく。
あの日、事故で死んだ侑芽の魂の前に、古の衣を纏い、煌びやかな冠を被った、神々しい姿をした女神が現れた。
=そこの死人よ。妾の封印を解いたのはお前か=
=貴女様は?=
=妾か、死の神とでも言っておこう=
=死の‥神様‥‥‥教えてください。やはり私は死んだのですか?=
=死んでおるな=
そう言われた瞬間、受験に打ち込む剛の姿が侑芽の心中に溢れていく。
今月こそ山場なのに‥もう剛を支える事が私にはできないなんて、そんな‥。
死の神が侑芽の魂を見透かし、薄笑みを浮かべる。
=なるほど愛した男がおるのか。随分と色濃く未練が残っておるようだなーーふむ、黄泉入りの女と現世に残された男か。よかろう、その願い妾が叶えてやろうか=
そうして侑芽の魂は白い光に包まれた。
侑芽が剛に向き直る。
「私は剛に夢を叶えて欲しかった‥だから黄泉がえりをお願いしたのーー死ぬのはもう仕方ない。受験の日迄でいい、試験に専念できるよう側で応援したかったの」
「侑芽‥お前‥」
「向こうにいる私の見た目が変わる事も知っているわ。でも向こうにいる私は間違いなく私なの」
なんて事だーーつまり神社の事故で侑芽が死に際にイザナムの封印を解いたーーそして俺を応援するために黄泉がえりを頼んだーーそれで向こうでは侑芽の見た目が変わり、イザナムを上司だというクロは俺の前に現れたーーそういう事なのか‥。
「わかってくれた?ーーだから私の事は考えずに剛は早く向こうへ戻って、今月の最終試験に専念して。夢を叶えて」
侑芽の頬が光る。
「侑芽、そこまでして俺を‥‥‥だが、無理だ、その話は聞けない」
「どうして!もう私は死んだのよ。その事で剛の夢が叶わなかったら、私は悔やんでも悔やみきれない」
「お前のいない世界で試験にだけ受かっても俺は全然救われない。俺はお前と幸せになる為に試験を受けるんだから」
「そんな子供みたいなこと言って困らせないで」
剛がクロを見る。
「なぁ、黄泉がえりってよくある話じゃ無いんだろーー黄泉がえりを無効にして、ここにいる侑芽を向こうへ連れ帰る事はできないのか?」
「剛‥」
侑芽が剛を見直す。
「死は死だ。覆せないな」
クロがまたそっぽを向く。
「待ってくれ。死んだ人間が数日後に生き返るとか現実でもあるだろうーー現に死んだ侑芽の体には飾り魂とかいうのが入って、向こうで息をしているじゃないか!飾り魂と本魂を入れ替えるだけだ。それでもダメなのか?」
「生き返る。それは先に死んだ体が蘇生し、黄泉から魂を強制的に引き戻すからだ。今向こうにいる侑芽の体は黄泉がえりの契約で蘇生しているに過ぎない。無理だな」
侑芽が僅かに微笑む。
「ありがとう剛。でも、もういいよ。その気持ちだけで私は十分だから‥」
剛が侑芽に向き直る。
「なぁ侑芽。俺が前に公認会計士を諦めようとした時、それがやりたい事なら最後まで悪あがきでも何でもやってみようーーそう言ったのはお前だぞ。試験なんか何度だって受けられる。でも、お前を救えるとしたら今しかない。俺は悪あがきがしたい」
剛が侑芽を抱き寄せる。
「そういう事だからーー何でもいい、何でもする。一緒に助ける方法を探してくれ、頼むクロ」
「無茶振りもいいところだな」
クロがテーブルから降りて床に寝そべる。
「こういう世界なら、そのなんて言うか長老みたいのとか、物知りな仙人とか、そんなの居たりしないのか?」
「それは向こうの世界でいう映画やアニメとかの話だろ。現実の黄泉はそんなに甘くないーーだが、まぁそうだな‥固有領域なら何か知ってる奴がいるかもな」
「何だ?固有領域って」
「今いるここはお前達の記憶で展開されている領域だと教えたよなーー固有領域はそれとは無関係に古から存在している場所だ。そこは無限領域とも言われていてな、俺やイザナムですら把握しきれない領域なのさ」
「どうすればそこへ行ける?」
「黄泉は記憶で世界が展開するからな。俺の記憶を使えば固有領域を展開させて入れるだろうよ。これでも俺は古参の死神だから、まぁまぁの世界は展開できるだろうさーーただし、固有領域は無限に広い、広過ぎて黄泉がえり期限に間に合わないって事も十分ありだぜ」
「それでもいい。連れて行ってくれ」
クロが床に座り直す。
「やれやれ。往生際の悪い奴だ」
「侑芽。必ず一緒に帰ろう」
「剛‥‥‥わかったわ。私も悪あがきしてみる」
二人は抱き合い、唇を重ねた。
目線を逸らしたクロは、足で耳裏を掻いていた。




