第一章 起 節二 波凪神社
八月二日。
剛を見送った侑芽が午前中に買い物を済ませマンションへ帰ると、マンションのエントランスでマンション大家がオロオロと周りを見ていた。
「こんにちは、大家さんーーどうかしたんですか?」
無視するのも憚りがあり、侑芽が大家に声をかけた。
「あ〜侑芽ちゃん、買い物の帰りかい?」
「はい、暑くなる前に買い物を済ませちゃおうと思って」
「侑芽ちゃんは偉いなぁーーそれに引き換えウチの氏子はまったくけしからん」
「氏子さんがどうかされたんですか?」
「いやさ、氏子達の持ち回りで毎月二日、神社の中を簡単に掃除して貰っているんだが、当番が来ないし連絡も取れないんだよーー儂も自治会の集まりで出かけなきゃならんから、ギリギリまでこうして待っているんだけど‥」
「神社って、そこの波凪神社のこと?」
「そうさ、社の中を掃く程度なんだけどねーーもう仕方ないな、時間切れだ」
「ーー困っているなら私が行きましょうか?午後なら少し時間ありますよ」
「いや、さすがにそれでは申し訳なさすぎる」
「大家さんには今年、私も剛も自治会役員を免除して貰ってますからーー掃除くらいの事なら平気です」
「そうかい、済まないなーーそれじゃこれが社の鍵で、掃除道具は社の中にあるものを使って。終わったら鍵だけそこの101号室の集合ポストに入れておいてくれればいいから」
大家はそう言うと、いそいそと自治会へと出かけて行った。
まぁ、掃き掃除くらいなら。
侑芽は部屋に戻り、買ってきた雑貨や食材を片付け、昼食のサンドイッチを食べ終えると、ジーンズとTシャツに着替え、マスクと帽子、それに大家から預かった鍵を持って波凪神社へと向かった。
光台マンションから少し坂を下った先に波凪神社のバス停がある。
そのすぐ近く、木々に囲まれた境内の奥に一つだけ社があった。
ここね‥こんな近くで見るのは初めてだわ。
賽銭箱の後ろに三段ほどの階段があり、上がった先に南京錠の掛かった格子戸がある。
木々に囲まれているせいか、十二畳程度の社の中は想像したより暑くない。
社の最奥には腰ほどの高さの段が作られてあり、神様を祀る小さな内陣と、その手前にバスケットボールくらいの丸い石を乗せた祭壇が置かれてある。
大家の言った通り、社に入った手前側の角に掃除道具は置かれてあった。
「お掃除をいたしますね」
侑芽は祭壇に一礼をすると、帽子を被ってマスクをし、ホウキを手に取った。
結構、年季の入ったお社よね。何の神様を祀っているのかしらーーあれ?これは何て言うんだっけ?鎮守の石?‥よく見るとこの石、桃の形?してるわね‥。
侑芽はあまり埃を立てないよう静かに、風で吹き込んだ土砂や虫の死骸を集めてはゴミ袋へ入れていく。
そんな作業で三十分程経った時だった。
「どう?侑芽ちゃんーー会合が終わって前を通ったら、社の戸が開いてたんで見に来たんだよ」
大家が外から社の中を覗きながら声をかけてきた。
「大丈夫ですよ。もうすぐ終わりますから」
「そうかい。手伝いたいところなんだけど、この後も行く所があってね。今日は本当に助かったよ、ありがとうーー最後、鍵だけは忘れずに掛けておいてね」
大家はそう言って何処かへ消えて行った。
「これくらいでいいかな。それじゃ、そろそろ片付けして私も帰ろうーーあっあれ?」
社の中を見回すと、社の壁の上を囲むように張られた白い布の一部、祭壇の上部が外れていた。
きっと風か何かが吹き込んで外れたのね‥仕方ない、それだけ直して帰るか。
侑芽は掃除道具を片付けてから、その側に置かれてあった脚立を内陣のある祭壇ギリギリ近くまで運んでいく。
あの釘に幕のフックを掛ければいいのね。
脚立の上段に上がり、手を伸ばすが釘まで届かない。
あと少しなのにーー。
思い切り手足を伸ばした瞬間だった。
「きゃっ!!」
脚立がガタッとズレて、バランスを崩した侑芽の体が仰反るようにして落下し、祭壇に置かれてあった石に頭を打ち、大きな音と共に床に倒れ込んでいく。
祭壇にあった石もその衝撃で床に落ち、侑芽の体の側で二つに割れていた。
あ〜あ‥やっちゃったぁ‥。
侑芽が目を開けると、床に倒れ込んだ侑芽と、その側で割れている石が見えた。
ん?‥どういう事?私が私を見てる?‥。
社の中を見回す。
祭壇の側に置かれた脚立と床に倒れている侑芽、その側で割れている石。
やはり私はバランスを崩してあの脚立から落ちたはず‥‥‥まさか‥そんな‥私‥。
侑芽の視界と意識が白い光に包まれていく。
直後、割れた鎮守の石から人の形をした揺らぎが現れ、間も無くして消えていった。
その日の夜。バスを降りてからマンションに向かう剛が、いつもの癖で505号室を見上げると、普段なら明かりの点いている部屋は暗かった。
買い物に行ったか‥。
「ただ今、侑芽」
鍵を開けて中に入っても、侑芽の返事は無かった。
ーー帰っていないのか?めずらしいな。
部屋に入り、リビングにバッグを置く。
部屋を見て回るが、やはり侑芽の姿はなく、テーブルの上に伝言メモとかも見当たらない。
侑芽に電話してもコール音のみ、ラインを送るが既読にならないまま時間だけが過ぎていく。
時計は二十二時を回っていた。
俺、侑芽を怒らせるような事を何かしたのか‥いや、昨日は機嫌良かっただろーーまさか何かの事故に‥。
その後も侑芽とは連絡がつかないまま。
剛は侑芽の友人で、自分のスマホにも登録がある碧と穂乃香に電話をしてみたが、何の情報も得られなかった。
こんな事は付き合ってから一度も無かったのに‥。
続けて剛が友人の真也に電話をする。
「こんな時間にどうした?剛」
「真也、お前、今日ウチに来たか?」
「何だよ急だな。行くわけ無いだろ、こんな試験前にーー何かあったのか?」
「いや、来てないなら別に‥」
「お前、人に聞いといて話やめるなよ」
「ーー侑芽が帰ってなくてさーーお前、突然ウチ来たりするから侑芽と一緒かなと思ってな」
「いや待て、失礼な奴だなーーいくら俺だって友達の彼女を黙って連れ出したりしないぞーーう〜ん、さっきまで遼と瑞姫とは一緒にいたけど、侑芽ちゃんの事は何も言ってなかったしな」
ーーここも空振りか‥事故にでも遭ったのか‥いやいや、侑芽のスマホは緊急連絡先が俺になっているんだから、何かあれば病院でも警察でも連絡が来るはずだ‥」
悪い事ばかりが頭の中で生まれてキリがない。
侑芽への電話は繋がらず、ラインも既読がつかないままだった。




