第一章 起 節一 剛と侑芽
八月一日。
日本中で連日猛暑の報道が続いていた。
日差しに焼かれた街は夕方になっても気温が下がらず、それでも行き交う人達は思い思いの夢を抱いて今日も生活をしている。
下校途中の学生、買い物帰りの主婦、帰宅を急ぐ会社員。
チノパンにポロシャツ、黒縁眼鏡をかけ、国立駅ロータリーでバスを待つ。
この青年もそんな中の一人だった。
「バスは行ったばっかだな。次が来るまで後二十分か‥」
時刻表を確認して、バス待ち行列の最後尾に並ぶ。
俺の名は神谷剛。二十四歳。大学院に通い、公認会計士を目指している。
大学院は今日から来月二十日まで夏休みに入ったが、俺は今月に最後の論文試験があるため浮かれてはいられないのだ。
到着したバスに乗って、ここから自宅最寄りのバス停『波凪神社前』までは、およそ二十分。
最寄りバス停の名前にもある波凪神社は自宅マンションの側にあって、日本神話の神様が祀られているらしいが、俺は詳しい事など知らない。
バスを降りたここは国分寺市光町。坂道を上る途中にある十階建ての光台マンション、2LDKの505号室が俺の家だ。
「おかえり。剛」
帰宅した俺を出迎えたのが染井侑芽。二十一歳の大学三年。同じ大学の後輩で今は一緒に暮らしている。
「ん?なんかいい匂いがする」
「そうーーふんふんふん」
侑芽は機嫌よく部屋奥へと入っていった。
リビングにバッグを置いてからキッチンの方へ目を向けると、ダイニングテーブルの上は旨そうな料理でほぼ埋まっていた。
「剛。誕生日おめでとう」
キッチンに入ると侑芽が俺に微笑む。
「それでこんなに用意してくれたのかーーそれにしてもこの料理。全部、侑芽が作ったの?」
「そうだよ」
「このケーキも?」
「そうだよーーはい、これ。誕生日プレゼント」
ラッピングされた小さな紙袋と小さな箱を侑芽が差し出す。
「ありがとうーー開けてみていい?」
「うん」
ラッピングを解いて紙袋を開けると、お守りと破魔矢を模したチョーカーが入っていた。
「剛、今月勝負だから合格祈願のお守りと厄除けの破魔矢。国立の矢保天満宮に行って授かってきたんだ」
「最近ずっと暑かったのにわざわざーーよし任せろ。試験は絶対に受かってみせるからーーそれでこっちは」
箱の方には黒縁の眼鏡が入っていた。
「おお、これはーー今使ってるこの眼鏡、左フレームがぐらついていたんだ」
「そうでしょ。最近よく眼鏡を弄っていたから、アレって思ったんだーー前に眼鏡買った時の検眼結果も探したら見つかったし、これだ!って決めちゃった」
「うむ。ピッタリだし、見え方もバッチリだーーどう?」
「うん、前と何も変わんないね」
「えっ、それじゃなんでコレ選んだんだよ」
「似合ってるんだからいいじゃないーーじゃあ、座って。剛、ビールとワインどっちがいい?」
「暑いからな、ビールにしよう」
パエリア、サラダ、フライドチキン、そして手作りケーキが目の前に並んでいる。
「侑芽。どんどん料理の腕が上がっていくなーーこのパエリアもチキンも美味いよ」
「やった、褒められた、ふふっ」
今日あった出来事を話しながら、次々と二人で皿を空にしていく。
「試験二十一日からでしょ。あと三週間だね」
「そうだ。三週間。泣いても笑ってもな」
俺は必ずこの試験に受かって、侑芽にプロポーズをする。
最後のケーキを口に運ぶ侑芽を見ながら、グラスに残ったビールを一気に飲み干した。
「そうそう。私、今月はバイトお休みにしてもらったの」
侑芽は児童養護施設で育てられた孤児で両親も里親も居ない。
奨学金を使って施設から大学へ通っていたが、俺と付き合い大学二年になる頃には同棲を機に施設を出て、生活費を賄うために週三日レストランでアルバイトをしていた。
「俺は構わないが、侑芽は困らないのか?」
「うん。今までの貯金もあるから平気よ。今は剛を全力で応援したいの」
だって私は‥。
会計事務所で仕事をする剛の横で遊ぶ子供と、その子供を=ダメよ、パパは仕事中でしょう=と言って抱き上げていく、侑芽は頭の中でそんな未来予想図を描いていた。
「侑芽ーーありがとうーーそれじゃ、この試験が終わったら二人で思い切り遊ぼうか。ダイビングでも旅行でもグルメでもさ」
「うん!絶対だよーーだから受かってね、約束」
侑芽が小指だけを立てた手を差し出す。
「ああ。約束する」
その小指に俺の小指を絡める。
「明日も大学院のセミナー行くんでしょ」
「行くよ。やれる事は全部やっておきたいからな」
「うんーー剛のそういうところが私は好きよ」
二人だけの誕生日パーティを終え、風呂から出た俺は勉強部屋に移って勉強を始める。
後片付けを済ませ、風呂から上がった侑芽が十二時過ぎ、勉強部屋へ入って来た。
「今夜は何時まで?夜食はいる?」
バスタオルだけ体に巻いた侑芽が聞く。
「いや。今夜はもう切り上げようと思ってるから、夜食は大丈夫だよ」
勉強部屋から出て、リビングで侑芽とアイスティーを飲んだ後、侑芽を抱き上げベッドルームへ向かう。
ダブルベッドに入りキスをしながら、侑芽の体からバスタオルを外し、その細い体を抱きしめた。
二人の夏はまだ始まったばかりだった。




