第三章 転 節二 無効の泉 項一 結界
「あった!泉だ!あったよ、あった」
「うん!見つかったね」
剛が侑芽を抱きしめた。
泉は球場ほどの広さで、真ん中付近には小さな岩が浮かぶ透明で清らかな湖だった。
「朱鷺よ、言っていたのはここの事か」
「そう、ここじゃな」
剛と侑芽が丘を駆け降りていき、二人の後をサトが追っていく。
「おい!ここは魔境なんだぞ!あんまり離れるんじゃない!」
二人に叫ぶクロの横で、朱鷺がじっと泉を見つめている。
「クロ‥この景色ーー少し歪んでおるよな」
クロが泉を見渡す。
「おそらく‥結界じゃろう」
「だとすればーーまずいな」
クロが二人を追うように丘を降りていくが、二人はすでに泉の畔に辿り着きそうだった。
間に合わぬか‥。
輝く朱鷺の手に弓矢が現れ、泉に向かって矢を放つ。
矢が剛と侑芽の上を追い越し、泉に届こうとした時、何も無かった空間に青い波紋が広がり、矢は何かにぶつかったようにその場で消えていった。
「何だ!?」
それを見た剛が侑芽を庇いながら立ち止まる。
「今の‥何なの?」
「結界だ」
二人に追いついたクロが答える。
「結界?侵入禁止みたいになるあれの事か?」
「侵入禁止?まぁ、どんな結界かはまだ分からんーー入れない結界なのか、出さない結界なのか、あるいはその両方か」
「我の矢を拒んだのだから、何でも受け入れる結界でない事は確かじゃな」
遅れて朱鷺も丘を降りてきた。
朱鷺が手を広げたまま腕を伸ばし、ゆっくりと泉に近づいていくと、水際の手前で広げた手の周りに青い波紋が浮かび上がる。
「見えない壁か。これ以上は進めぬなーーどうやらこの泉、ただの泉ではなさそうじゃの」
「無効の泉で当たりって事か?」
剛が朱鷺に近づく。
「それはまだ分からぬがーーただ、その可能性は高そうじゃ」
「クロさんも朱鷺さんも知らない結界なのねーーこれって解除できるの?」
「正直、謎だらけだーーこれを解除するってのは難しいだろうな」
クロも水際に進み、前足で結界に触れてみるが結果は朱鷺と変わらない。
「くそっ!ここまで辿り着いたのに‥」
剛が結界に手を伸ばすと、青い波紋は現れたが、剛の差し出した腕は波紋の向こうへと入っていく。
「?俺は入れるみたいだ‥」
「剛!ダメだ!」
イケメンに姿を変えたクロが剛の体を掴んで引き戻す。
「入れたからといって、出られるとは限らない。焦るな」
「じゃあ、どうするんだ?このまま諦めるなんて俺は嫌だぞ」
重い空気が漂う中、朱鷺が侑芽に向く。
「侑芽。すまぬが剛と同じように結界へ触れてみてもらえるかの」
侑芽が水際に進み、剛と同じように結界へ手を伸ばす。
青い波紋が現れ、侑芽の手は見えない壁に阻まれた。
「剛だけが通れるか‥どうやら生ある魂だけ受け入れるようじゃなーー何のためか?‥ますます解せぬ」
「俺が生ある魂?」
「剛はまだ現世の人間じゃろ。他の者と違うのはそれくらいしか無いからの」
二人のやり取りをクロが黙って見ている。
剛が思い出したように折り畳まれた紙をポケットから取り出して広げる。
「何じゃ?それは?」
=マンゲツノヨルハンゲツヲミテシメサレタウサギノサキニタチトナエヨミチタヒカリケイヤクサレシシバリヲトキハナテ=
「泉があったら何かの手掛かりになるかもって、エルフの長老から渡されたんだ。これが何なのかは俺にも解らない」
「満月の夜 半月を見て 示されたウサギの先に立ち唱えよ 満ちた光 契約されし縛りを解き放て。そう読めるのーー何かの条件と詠唱のようじゃが‥」
「エルフの長老は大昔、尋ねてきた男に無効の泉を教え、この紙と同じ物を渡したって言っていたけどーーこうしてよく見ると、大昔というなら月もウサギも呼び方が違っていたんじゃないのかな?」
「お前はここをどこだと思っている?ーーここじゃ過去も未来も大した意味はない。誰かが来れば世界が生まれ、そいつがいなくなれば閉じる。ただ、そこで起きた事だけは残る。だから俺達にとっては全部が大昔みたいなもんさ」
「生まれて、閉じるだけ‥の世界‥」
「何にせよ、結界を張った奴の真意が解らない以上、ここで議論しても無駄だ。解除できない時は壊すしかあるまい」
「壊すことならできるのか?クロ」
「俺には無理だ」
「死の神じゃな」
死の神?ーーイザナムだったか、クロが上司とか言っていた‥。
「そうだ。最高責任者だからな。結界の解除か壊し方くらい知っているかも知れない」
「では、仕切り直しじゃな」
「そうなるとここは危険すぎる。避難場所まで退避した方が安全だーー剛でも侑芽でもいい、避難場所を開いてくれ」
「私がやります」
侑芽の前の空間が開き、三人と二匹はお守りとアイアイ傘を目印にした避難場所へ移動した。
「我はサトと一緒にここに居るーークロは二人を連れて死の神のところへ行ってくるがよかろう」
「上司は人嫌いだからなーー俺だけで行ってくるさ。皆んなここで待っていてくれ」
「待ってくれクロ!俺も連れて行ってくれないか。今回のことは俺がクロに無理やり頼んだことだ。侑芽は一度会っているようだし、俺も会っておきたい、頼む!」
「ーーまぁ、一人くらいならいいか」
クロの記憶で開いた空間の中に立派な宮殿が現れた。
潮の匂いがするーー海が近いのか‥。
移動した先は大きな木々に囲まれ、その中に朱色の宮殿のような建物があった。
イケメンに姿を変え、宮殿の中へと入っていくクロについていく。
広間の奥、これまた古代の衣装を纏い、冠を被った女が派手に飾り付けられた椅子に座っていた。
その女の面前でクロは跪き、剛もそれに倣う。
「妾に何用か?」
クロと剛を見た女が聞く。
「死の神イザナムの御前に失礼いたしますーー」
「改まるでない。いつも通り話すがよかろう」
あの女が死の神イザナム‥。
イザナムの声は透き通るような穏やかな口調だった。
「なればーー黄泉がえりの侑芽と、侑芽を黄泉より連れ戻そうとやって来た、ここにいる剛らと無効の泉なるものを見つけましたが、何者かの意図により結界が張られ、手詰まりとなった次第」
「無効の泉に結界となーーほう。そのような事が起きておったか」
「結界は生ある魂は通すも、そう非ざるものを拒むものーーこれを破る知恵を賜りたく」
「結界を張った者など妾は知らぬ。故に結界を解くことは出来ぬーーが、しかし」
イザナムが剛に目線を向ける。
「剛と申すか。お主の事は侑芽より聞き承知しておる」
剛が頭を下げる。
「お主に一つ問おうーー死者を生き返らせる事が本当にその侑芽の為なのか」
「はい。そう信じています」
「徒労やも知れぬぞ」
「分かっています。それでも諦めたくないのです。それが自分の願いでもあるから」
剛を見ながら、問答の結果に薄笑みを浮かべたイザナムの手先が光り始める。
光が消えたその手の上には一本の独鈷所が乗っていた。
「解く事が出来ぬなら破ればよかろうーーこれを持って行け」
イザナムの手の上から独鈷杵が消え、それが剛の前に現れた。
「使い方は隣の者から聞くがよい」
「ありがとうございます。イザナム様」
イザナムから独鈷杵を受け取った剛が、クロと共に侑芽、朱鷺、サトの待つ避難場所へと戻っていった。
「思うより早かったではないか」
お守りとアイアイ傘のある木の下で朱鷺が二人を出迎えた。
「その顔なら首尾よしといった感じじゃの」
「結界を破る神器を授かったーーこれだ」
剛が手にしていた独鈷杵を掲げる。
「何?それ?見たこともない物ね」
「ほう。独鈷杵かーー侑芽に分かりやすく言うなら、結界を突き破る道具じゃな」
クロが黒猫に戻る。
「よくイザナムが神器など出してくれたのう」
「そうだなーーだが事の始まりはイザナムがした黄泉がえりだ。これくらいの責任は取って貰わないとな」
「まぁ、結果良しじゃなーーそれよりのう、剛ーーこれは何じゃ?お主が彫ったそうではないか」
朱鷺がニヤニヤしながら木に彫られたアイアイ傘を指差し、侑芽が側で赤くした顔を手で覆っている。
「知っておるぞ。これは自分の名の横に好いた女子の名を書くアイアイ傘と言うのであろうーー侑芽に聞いても答えてくれん。すると何だな、剛は妻問婚をしておるのじゃな、週に何度夜這いするのじゃ?」
「妻問婚?夜這い?」
「剛、妻問婚は今で言うなら通い婚の事だーー朱鷺よ。お前は一体いつの時代の話をしてるんだ。今時、夜這いなんか誰もしてないぞ」
「朱鷺さん、この木を見てからずっとこうなんです」
「通い婚か。だったら侑芽、別に気にせず答えてやればいいのにーー妻問婚なんてしてませんよ。同じ家に住んでるから」
「何と、そんな若くして同居とな!」
驚くことなのか?この人の基準って‥。
「そのへんにしておけ朱鷺。現世ならセクハラで訴えられるぞ」
三人と二匹は避難場所で野営して、翌日早々に泉の畔へ移動した。
八月八日。
「それじゃあ、やるよーー死の神イザナムが命に応じ、理の鎖を解き放て。解!」
剛が唱え、独鈷杵を結界の見えない壁に突き入れる。
青い波紋に亀裂が走り、一瞬の輝きと共に結界は消滅した。
「通れるわ」
侑芽の体が水打ち際まで進んでいく。
「さすが神器よの」
「だが、本当に解らないのはここからだーー何をすればいいんだ」
剛は再びエルフの長老から渡された紙を取り出し広げた。
「書いてある通りでいいのか、これ?」
「最初はそこから考えるしかなさそうよね」
「満月の夜に半月見てってーーいきなり無茶だぞーーちなみに今夜は何月だ?」
「満月じゃぞ」
「ねぇねぇ、それじゃ月を何かで隠して半分だけ見るんじゃないの」
「‥‥‥確かにそれなら満月の夜に半月見れるなぁ‥それならここは一旦それでいいとして次ーー示されたウサギの先に立ち唱えよーーこれは」
「これはやっぱり月のウサギちゃんじゃないの」
「待てよ。月のウサギちゃんの先にどうやって立つんだよ」
剛と侑芽が真剣に紙を見ている。
「朱鷺よ。現世にはお笑いコンビって言葉があるの知ってるか」
「失礼じゃな、そのくらい聞き覚えあるぞーー今、この二人がやってるのがそのボケとツッコミじゃろう」
クロと朱鷺がクールな目で二人を見ていた。
「謎解きはその辺にして、いろいろ試してみた方が早いんじゃないか?」
「そうじゃの?まずは泉を飲んでみるとか、被ってみるとかーー何なら裸になって泳いでみても良いぞ」
「絶対に泳ぎません」
侑芽が朱鷺に文句を言った時だった。
!!?‥。
地響きのような音が森の方から聞こえ、同時にサトが唸り声を上げ始めた。
ズズンッ‥ズズンッ‥。
「クロ、この音‥まさか」
「ああ、集落で聞いたアイツの足音だ」
森の樹々から抜き出た魔物の頭が見え始める。
「間違いない!集落で見たヤツだーーどうしてここにいる?結界を破ったせいか?」
「それは解らぬが‥これはマズいのーー簡単にはヤラれてくれそうにない大きさじゃーー二人の武具では歯が立たぬ、下がっておれ」
侑芽を守るようにサトが寄り添い、剛とともに後退していく。
「朱鷺。援護してくれ」
「心得ておるわ」
‥‥‥とは言ったものの、この大きさ‥天王石を使うしかないの‥。
朱鷺が懐から薄緑色の石を取り出した。
クロが黒龍に姿を変え、魔物と対峙する。
その後ろで朱鷺の両手が輝いて、薄緑色の石が弓矢へと錬成されていく。
ガウォォォ!
耳を塞ぎたくなるほどの魔物の咆哮で水面がざわついていた。




