第8話 天使は存在しないはずの事件に出会う
夏の終わり。
アシュフォード子爵領は収穫祭の季節を迎えていた。
領都の広場には色とりどりの飾り付けが施され、屋台が並び、人々の笑い声が絶えない。
年に一度の大きな祭り。
領民たちにとって特別な日だ。
そして。
「いいにおいですわ……」
エミリアは焼き菓子の香りに釣られていた。
七歳である。
難しいことを考えていても、美味しそうな匂いには勝てない。
「お嬢様」
隣を歩くマリアが苦笑した。
「さっきもお菓子を召し上がりましたよね?」
「べつばらですわ」
「まだ七歳でその言葉を覚えてしまわれたのですね……」
少しだけ遠い目をされた。
◇◇◇
本来なら。
今日はただのお祭りだった。
原作にも収穫祭は出てくる。
だが重要なイベントではない。
攻略対象も登場しない。
事件も起きない。
平和な日常回。
それだけ。
だからエミリアも気楽だった。
(こういうのでいいのですわ)
王宮もない。
陰謀もない。
誘拐もない。
最高である。
そう思っていた。
その時だった。
「大変だ!」
広場の向こうから叫び声が聞こえた。
「倉庫が燃えているぞ!」
ざわり。
人々の空気が変わる。
「火事!?」
「どこだ!?」
「子供たちは下がれ!」
エミリアは顔を上げた。
遠く。
市場の裏手。
黒い煙が空へ伸びている。
火災だった。
◇◇◇
「火事……?」
エミリアは眉をひそめた。
おかしい。
そんな事件。
原作にはなかった。
少なくとも覚えていない。
マリアも緊張した顔になる。
「お嬢様、屋敷へ戻りましょう」
「はい」
それが正しい。
子供は避難。
危険な場所には近づかない。
平穏第一。
エミリアも理解している。
だから素直に頷いた。
その時。
「おかあさん!」
泣き声が聞こえた。
広場の端。
小さな女の子だった。
四歳くらい。
周囲を見回して泣いている。
どうやら家族とはぐれたらしい。
「……」
エミリアは足を止めた。
嫌な予感しかしない。
非常に嫌な予感しかしない。
だが。
「マリア」
「はい」
「あのこ」
「……」
マリアも気づいていた。
ため息をつく。
「お嬢様は本当に優しいですね」
「そうですの?」
「ええ」
そしてしゃがみ込む。
「お嬢ちゃん、お名前は?」
泣いていた少女に声をかけた。
◇◇◇
十分後。
少女は無事に母親と再会した。
感謝される。
泣かれる。
抱きしめられる。
エミリアは少し照れた。
「よかったですわ」
本心だった。
だが。
それで終わらなかった。
「エミリア様!」
今度は領兵が駆けてくる。
「ご無事でしたか!」
「?」
「火事の近くで子供を保護したと聞きまして」
話が大きくなっている。
嫌な予感がした。
◇◇◇
結局。
火災は大事には至らなかった。
倉庫一棟が焼けただけ。
怪我人も少ない。
不幸中の幸いだった。
だが。
エミリアは引っかかっていた。
「おかしいですわね」
部屋でノートを開く。
原作にはない。
絶対にない。
収穫祭の火災事件。
そんな話はなかった。
「本当に変わっておりますわ」
ここ最近ずっと感じている違和感。
少しずつ。
少しずつ。
未来が違っている。
◇◇◇
数日後。
その違和感はさらに強くなる。
「お嬢様、お手紙です」
「……またですの?」
マリアが苦笑した。
最近増えていた。
手紙が。
セドリックから。
ルークから。
そして。
今回は別だった。
「誰ですの?」
封蝋を見る。
見覚えがない。
だが。
名前を見た瞬間。
エミリアは固まった。
「ノア?」
灰色の髪の少年。
以前助けた子。
未来の天才魔導師。
「なぜですの!?」
今日二回目である。
◇◇◇
恐る恐る読む。
内容は短い。
『勉強を頑張っている』
『魔法が少し使えるようになった』
『エミリアに見せたい』
終わり。
たったそれだけ。
しかし。
「見せたい……?」
エミリアは頭を抱えた。
おかしい。
本当におかしい。
原作のノアはもっと孤独だった。
もっと人を遠ざけていた。
もっと心を閉ざしていた。
なのに。
今のノアは違う。
「……」
エミリアはゆっくり理解し始める。
もしかすると。
自分が助けたから。
あの日の出来事が。
少しだけ未来を変えたのかもしれない。
◇◇◇
その夜。
エミリアは窓の外を見上げていた。
月明かりが庭を照らしている。
静かな夜だった。
「原作が変わっている……」
確信に近かった。
もう偶然では説明できない。
セドリック。
ノア。
ルーク。
収穫祭の火災。
歴史の違い。
全部が繋がっている気がした。
未来は変わる。
それは良いことだ。
危険を避けられるかもしれない。
平穏に近づけるかもしれない。
だが。
同時に怖くもあった。
前世の知識が通用しなくなる。
未来が読めなくなる。
それはつまり。
頼れる地図を失うということだ。
「……」
小さな手で窓枠を握る。
そして。
ぽつりと呟いた。
「わたくし、本当に大丈夫ですの?」
返事はない。
けれど。
どこかで。
運命は静かに動いていた。
本来の物語には存在しなかった火災。
本来なら孤独だった少年の変化。
そして。
まだ誰も知らない新たな事件。
原作から外れ始めた世界は、エミリアが思っている以上に大きく姿を変えようとしていた。




