第4話 天使は知らないふりができない
セドリック・ヴァレンティアと出会ってから数週間。
エミリアは深刻な顔で机に向かっていた。
目の前には一冊のノート。
もちろん五歳の頃に作った「へいおんノート」の最新版である。
現在の題名は少し進化していた。
『へいおんなみらいけいかくしょ』
六歳児なりに頑張っている。
その中には様々な内容が書かれていた。
『おうたいし まだあってない』
よし。
『せどりっく あってしまった』
よくない。
『でもいちどだけ』
たぶん。
きっと。
おそらく。
そう信じたい。
エミリアはペンを置いて天井を見上げた。
「……だいじょうぶですわよね?」
誰に聞いているのか分からない。
しかし返事はない。
当然である。
◇◇◇
その日の午後。
エミリアは母と共に領都へ来ていた。
新しいドレスの採寸。
そして買い物。
貴族令嬢らしい外出だった。
「エミリア、疲れていない?」
「だいじょうぶですわ」
「少し休憩しましょうか」
「さんせいですわ」
即答だった。
母が笑う。
結局、まだ子供なのだ。
二人は広場近くの休憩所へ向かった。
春の陽気は心地良く、人通りも多い。
商人たちの声。
子供たちの笑い声。
平和そのものだった。
(こういうのでいいのですわ)
エミリアは満足する。
王宮の陰謀とかいらない。
魔物暴走とかいらない。
こういう平和な日常こそ至高。
そう思った時だった。
「どいて!」
甲高い声が響いた。
次の瞬間。
何かが視界を横切る。
暴走した馬車だった。
荷馬車を引く馬が興奮し、御者の制御を振り切っている。
周囲が悲鳴を上げる。
「危ない!」
「逃げろ!」
人々が慌てて道を空ける。
だが。
ひとりだけ。
逃げ遅れた子供がいた。
広場の真ん中。
四歳か五歳くらいだろうか。
転んでしまったらしい。
立ち上がれず、恐怖で固まっている。
「っ!」
エミリアの顔色が変わる。
前世の記憶がなくても分かった。
危険だ。
間に合わない。
このままでは轢かれる。
周囲の大人も気づいている。
だが距離がある。
誰も間に合わない。
(どうしよう)
一瞬だった。
本当に一瞬。
だがエミリアの脳裏に原作の記憶が蘇る。
この場面。
見覚えがあった。
原作にはなかった。
だが似た出来事を知っている。
未来。
数年後。
平民出身の天才魔導師ノア。
彼が孤独になるきっかけ。
助けを求めても誰も助けてくれなかった幼少期の経験。
それが彼の心を閉ざした原因の一つだった。
そして――
目の前の子供。
灰色の髪。
青い瞳。
(まさか)
エミリアは目を見開いた。
(ノアですの!?)
原作攻略対象の一人。
将来、宮廷魔導師となる少年。
まだ幼い。
まだ何者でもない。
けれど間違いなかった。
「エミリア!?」
母の声。
だが。
エミリアはもう走り出していた。
◇◇◇
小さな足。
短い距離。
間に合うか分からない。
けれど。
体が勝手に動いた。
(フラグとかどうでもいいですわ!)
平穏は大事。
とても大事。
でも。
(見捨てるなんて無理ですもの!)
泣きそうな顔の子供。
助けを求める瞳。
そんなものを見て知らないふりなどできない。
エミリアはノアの手を掴んだ。
「にげますわ!」
「えっ」
勢いよく引っ張る。
転ぶ。
抱きつくように地面へ倒れ込む。
その直後。
馬車がすぐ横を通り過ぎた。
轟音。
悲鳴。
土煙。
全てが一瞬だった。
数秒後。
静寂が戻る。
「……」
「……」
二人とも無事だった。
エミリアは大きく息を吐く。
「た、たすかりましたわ……」
心臓がうるさい。
怖かった。
本当に怖かった。
今さら震えが来る。
だが。
「だいじょうぶですの?」
まず確認した。
少年は呆然としている。
「……なんで」
「?」
「なんで助けたの?」
幼い声だった。
だがどこか諦めたような響きがある。
エミリアは少しだけ眉を下げた。
「なんでって……」
そんなの決まっている。
「たすけたいからですわ」
それだけだった。
損得も。
打算も。
未来も。
関係ない。
ただ目の前で困っていたから。
だから助けた。
それだけ。
ノアは黙り込む。
何かを言おうとして。
言葉にならなくて。
ただエミリアを見つめていた。
◇◇◇
「エミリア!」
母が駆け寄ってきた。
顔が真っ青だった。
「よかった……!」
強く抱きしめられる。
エミリアは少し反省した。
心配をかけてしまった。
「ごめんなさい、おかあさま」
「怪我は?」
「ありませんわ」
母は涙ぐんでいた。
そして。
「ありがとう」
ノアにも頭を下げた。
「この子を巻き込んでしまって」
「……」
ノアは何も言わない。
ただ。
その視線だけはエミリアから離れなかった。
◇◇◇
その夜。
ベッドに潜り込んだエミリアは、盛大に頭を抱えていた。
「やってしまいましたわ……」
枕に顔を埋める。
分かっている。
助けたことは後悔していない。
あの場面でもう一度やり直しても、きっと同じことをする。
だが。
「のあまであってしまいましたわ……」
攻略対象その二。
遭遇。
しかもかなり印象的な形で。
絶対覚えられた。
間違いなく覚えられた。
平穏がまた遠ざかった気がする。
「うぅ……」
ごろごろ転がる。
本人は気づいていない。
原作のヒロインが愛された理由。
それは運命でも容姿でもない。
困っている人を放っておけないところ。
誰かのために迷わず動けるところ。
その優しさこそが、人の心を惹きつけていた。
そして。
どれだけ未来を知っていても。
どれだけフラグを避けようとしても。
エミリアのその本質だけは変わらなかった。
一方その頃。
領都の小さな家で。
灰色の髪の少年は、今日一日の出来事を思い出していた。
『たすけたいからですわ』
何度も。
何度も。
その言葉が頭に浮かぶ。
誰も助けてくれないと思っていた。
そう思っていたのに。
助けてくれた人がいた。
危険なのに。
迷わず。
当たり前のように。
「……エミリア」
小さく名前を呟く。
それはまだ恋ではない。
憧れですらない。
ただ。
初めて見つけた光を忘れたくないという気持ちだった。
そしてエミリアは知らない。
自分が平穏を目指して折ろうとしているフラグを。
自ら増やし続けていることに。




