第2話 天使は努力を始める
前世の記憶を思い出してから一週間。
エミリア・アシュフォードは気づいてしまった。
平穏な人生というものは、思ったより難しい。
「お嬢様、朝でございます」
「……むにゃ」
「起床のお時間です」
「あとさんじかん……」
「無理でございます」
「ですよねぇ……」
前世の記憶が戻っても、五歳児は五歳児だった。
眠いものは眠い。
布団は暖かい。
起きたくない。
だがエミリアには重大な使命がある。
平穏な人生を勝ち取るという使命が。
「おきますわ……」
もぞもぞと起き上がる。
侍女のマリアが微笑んだ。
「偉いですね」
「わたくし、いそがしいので」
「何がですか?」
「へいおんのためですわ」
「そうでございますか」
マリアは深く考えなかった。
最近のお嬢様は少し不思議なことを言う。
しかし相変わらず可愛いので問題ない。
そんな認識だった。
◇◇◇
朝食後。
エミリアは自室の机に向かっていた。
目の前には紙。
そしてペン。
子爵夫妻が見れば感動して泣くレベルで真剣な顔をしている。
「まず、せんりゃくをたてますわ」
前世の記憶を総動員する。
原作の流れ。
攻略対象。
事件。
危険人物。
未来の出来事。
思い出せる限り書き出していく。
もちろん五歳児の字なので酷い。
ふにゃふにゃである。
だが本人は真面目だった。
『おうたいし』
『さらわれる』
『あぶない』
『にげる』
「よし」
何もよくない。
だがエミリアは満足した。
大事なのは方向性である。
「まず、れおなるどおうたいし」
原作最大の攻略対象。
そして全ての始まり。
七歳の王宮お茶会で出会う。
一目惚れ。
そこから物語が動く。
「つまり……」
エミリアは腕を組んだ。
「であわなければいいのですわ」
実にシンプル。
そして浅い。
だが五歳児にしては上出来である。
うんうんと頷いていると、ノックが響いた。
「お嬢様」
「はい?」
「旦那様がお呼びです」
◇◇◇
執務室。
父であるアシュフォード子爵は、愛娘を膝の上に乗せて上機嫌だった。
「エミリアは可愛いな」
「ありがとうございます」
「本当に可愛い」
「ありがとうございます」
「世界一可愛い」
「そうかもしれませんわ」
親バカだった。
重症である。
エミリアも慣れている。
前世の記憶が戻った今でも慣れている。
「実はな、エミリア」
「はい」
「王宮から招待状が届いたんだ」
エミリアの笑顔が凍った。
「……おうきゅう?」
「ああ」
「しょうたいじょう?」
「そうだ」
嫌な予感しかしない。
原作知識が警鐘を鳴らしている。
父は嬉しそうに続けた。
「来年行われる王宮のお茶会だ」
ゴーン。
脳内で鐘が鳴った。
終わった。
知っている。
それ知っている。
原作第一巻の冒頭イベントだ。
全ての元凶だ。
人生激変ポイントだ。
(きましたわーーーーー!!)
心の中で叫ぶ。
まだ一年以上先だと思っていた。
だが招待状は既に届いていたらしい。
当然だ。
貴族社会なのだから。
急な予定で動くわけがない。
エミリアは重大な事実に気づく。
(わたくし、のんびりしてるばあいではありませんでしたわ!)
フラグがもう目の前に迫っている。
「楽しみだな」
父はにこにこしている。
「王太子殿下も出席なさるそうだ」
「……へぇ」
「同年代の子供たちも大勢来るらしい」
「そうですの」
「友達もできるぞ」
できなくていい。
いや、友達は欲しい。
でも攻略対象はいらない。
その辺りの線引きが難しい。
「エミリア?」
「なんでしょう」
「嬉しくないのか?」
「……」
エミリアは考えた。
ここで行きたくないと言うべきか。
だが無理だろう。
王宮からの招待。
子爵家に断れるはずもない。
ならば――
戦うしかない。
「おとうさま」
「うん?」
「わたくし、がんばりますわ」
「おお!」
「とてもがんばります」
子爵は感動した。
愛娘がやる気を見せている。
微笑ましい。
実際のところ。
エミリアは違う意味で燃えていた。
(回避ですわ)
王太子との出会い。
絶対回避。
(ぜったいですわ)
決意は固かった。
◇◇◇
その日の午後。
エミリアは図書室にいた。
踏み台に乗り、本を引っ張り出す。
子供向けではない。
貴族の礼儀作法について書かれた本だった。
「お嬢様?」
マリアが目を丸くする。
「どうなさいました?」
「べんきょうですわ」
「えっ」
「べんきょう」
もう一度言った。
マリアは衝撃を受けた。
五歳児が自ら勉強を始めた。
事件である。
「お嬢様……!」
「?」
「なんて立派な……!」
なぜか感動された。
エミリアは首を傾げる。
だが本人は真面目だった。
(原作のわたくしは、あまりにもヒロイン力が高すぎましたの)
優しくて。
可愛くて。
礼儀正しくて。
誰からも好かれる。
だから攻略対象たちが次々と落ちた。
ならば。
「かんぺきなれいじょうになるのですわ」
マリアが瞬いた。
「それと王太子殿下と何の関係が?」
「……」
しまった。
口に出ていた。
「なんでもありませんわ」
「そうですか?」
そうです。
そういうことにしてほしい。
エミリアは本に顔を埋めた。
だがマリアは気づかなかった。
その小さな背中が、異様なほど真剣なことに。
◇◇◇
夜。
ベッドの中。
エミリアは天井を見上げていた。
静かな時間。
誰もいない。
だから本音が漏れる。
「……こわいですわね」
ぽつりと呟く。
前世では物語だった。
だから楽しめた。
でも今は違う。
自分の人生だ。
誘拐も。
陰謀も。
暗殺未遂も。
全部現実になる。
「いやですわ……」
小さな声。
五歳の少女らしい不安だった。
けれど。
すぐに布団を握りしめる。
「でも」
未来を知っている。
それは大きな武器だ。
「だいじょうぶ」
自分に言い聞かせる。
「わたくしは、しっていますもの」
原作を。
未来を。
危険を。
だから変えられる。
変えてみせる。
平穏な未来のために。
そう決意したエミリアは知らない。
この時すでに。
本来の物語にはなかった変化が、ひとつ生まれていたことを。
王宮。
王太子レオナルドの執務補佐をしていた侍従が、一枚の参加者名簿を見ながら呟く。
「アシュフォード子爵家の令嬢……ですか」
偶然。
本当にただの偶然。
だが、その名前は王太子の目にも留まった。
「エミリア・アシュフォード?」
何気ない一言。
本来なら出会うはずのない一年前。
それが、運命の歯車をほんの少しだけ動かし始めていた。
そして当の本人は。
「すぅ……すぅ……」
平穏を目指す決意を胸に。
ぐっすり眠っていたのである。




