第1話 天使と呼ばれた子爵令嬢
アシュフォード子爵家の庭園には、春の陽光が降り注いでいた。
色とりどりの花が咲き誇り、噴水の水音が穏やかに響く。
その中心で、ひとりの幼い少女が楽しそうに笑っていた。
「まあ、お嬢様! そんなところまで走ってはいけません!」
「だいじょうぶですわー!」
ふわふわの金髪を揺らしながら駆ける少女――エミリア・アシュフォード、五歳。
アシュフォード子爵家の一人娘であり、領地でも有名な美少女だった。
大きな青い瞳。
雪のように白い肌。
愛らしい笑顔。
まるで絵本から飛び出してきた天使のようだと、人々は口を揃えて言う。
「エミリアお嬢様は本当に可愛らしいですねぇ」
「ええ。あの笑顔を見るだけで元気になります」
「まるで天使ですわ」
使用人たちの言葉に、エミリアは照れたように笑った。
「てんし?」
「はい。天使です」
「じゃあ、わたくし、とべます?」
「飛べません」
「そうですの?」
「残念ながら」
「ざんねんですわ」
ころころと笑う姿に、周囲も思わず頬を緩める。
本当に愛されて育った子だった。
父であるアシュフォード子爵も。
母である子爵夫人も。
屋敷の使用人たちも。
誰もが彼女を可愛がっていた。
だからこそ――
その日が訪れるまで。
誰も予想していなかったのである。
エミリアの人生が、大きく変わることを。
◇◇◇
「エミリア、お誕生日おめでとう」
「おめでとう、エミリア」
「ありがとうございます、おとうさま、おかあさま!」
五歳の誕生日。
家族だけの小さな祝宴。
大きなケーキの前で、エミリアは満面の笑みを浮かべていた。
子爵夫妻も幸せそうだった。
愛娘が健やかに育っている。
それだけで十分だった。
「願い事をしてから、ろうそくを消してごらん」
「はい!」
五本のろうそく。
エミリアは目を閉じる。
何を願おう。
新しいお人形?
もっと大きなケーキ?
それとも――
その瞬間だった。
頭の奥に。
何かが流れ込んできた。
知らない景色。
知らない言葉。
知らない人々。
知らない人生。
それなのに。
なぜか全部、自分の記憶だと理解できた。
「え……?」
視界が揺れる。
頭が痛い。
大量の情報が一気に押し寄せる。
学校。
スマートフォン。
電車。
コンビニ。
そして――
一冊のライトノベル。
何度も読み返したお気に入りの作品。
タイトルも。
登場人物も。
結末も。
全部知っている。
その世界が――
今、自分が生きている世界だった。
「……え?」
理解した瞬間。
エミリアは固まった。
「エミリア?」
母が心配そうに覗き込む。
「大丈夫かい?」
父も慌てて立ち上がる。
だがエミリアの耳には入らなかった。
なぜなら。
もっと大変な事実に気づいてしまったからだ。
(ちょっと待ってくださいませ)
心の中で冷静に整理する。
(ここはラノベの世界です)
うん。
(わたくしはそのヒロインです)
うん。
(王太子と恋をします)
うん。
(途中で誘拐されます)
……うん?
(暗殺未遂に遭います)
待って。
(王位継承争いに巻き込まれます)
待ってくださいませ。
(魔物暴走事件にも遭遇します)
いやいやいやいや。
(最終決戦では国の危機に立ち向かいます)
なんで?
ヒロインなのに?
普通の恋愛小説では?
恋愛だけしていれば良いのでは?
なぜ命を狙われるの?
なぜ事件の中心にいるの?
なぜ毎巻のように危険な目に遭うの?
思い返してみれば。
前世の自分は楽しんで読んでいた。
だが当事者になるのは話が違う。
全然違う。
ものすごく違う。
(嫌ですわーーーーーー!!)
心の中で絶叫した。
「エミリア!?」
子爵夫妻が慌てる。
外から見れば、急に顔色が変わったように見えただろう。
しかしエミリアの脳内は大混乱だった。
原作の流れを思い出す。
まず七歳。
王宮のお茶会。
そこで王太子レオナルドと運命の出会い。
そこから全てが始まる。
そして十歳。
誘拐事件。
十二歳。
暗殺未遂。
十四歳。
王宮陰謀編。
十六歳。
魔物暴走事件。
十七歳。
国の危機。
(忙しすぎますわ!)
もっと平和に生きたい。
昼寝して。
本を読んで。
お菓子を食べて。
のんびり暮らしたい。
そんな人生でいい。
いや、それがいい。
「エミリア?」
「……はっ」
気づけば両親が心配そうに見ていた。
「具合が悪いのかしら?」
「医者を呼ぶか?」
エミリアは慌てて首を振る。
「だ、大丈夫ですわ!」
「本当に?」
「はい!」
そして。
五歳とは思えない真剣な顔で宣言した。
「わたくし、けついしました」
「決意?」
「はい」
子爵夫妻は顔を見合わせる。
何を言い出すのだろう。
そんな空気の中。
エミリアは拳を握り締めた。
「へいおんなじんせいをめざします!」
「……は?」
「へいわで!」
「うん」
「しあわせで!」
「うん?」
「だれにもさらわれず!」
「さらわれず?」
「だれにもころされず!」
「ころされず!?」
「のんびりくらしますわ!」
高らかな宣言だった。
だが当然。
子爵夫妻には意味が分からない。
「エミリア……?」
「どうしたのかしら……?」
首を傾げる両親。
エミリアは真剣そのものだった。
(まず第一目標)
七歳の王宮お茶会。
(王太子との運命の出会いを回避しますわ)
フラグを折る。
徹底的に。
片っ端から。
へし折る。
それが未来の平穏に繋がるはずだ。
まだ五歳。
時間は十分にある。
だから。
この時のエミリアは知らなかった。
自分がフラグを折るたびに。
本来の物語が大きく変わっていくことを。
そして。
未来の攻略対象たちが、なぜか原作以上に彼女を気にし始めることを。
それはまだ。
少し先の話だった。
五歳の春。
天使と呼ばれた子爵令嬢の、平穏を目指す奮闘の日々が始まる。
――もっとも、その平穏は最初から前途多難だったのだが。




