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「僕たちはフィオナ先生を選びます」——前世保育士の令嬢が追放された朝、公爵家の子供が全員いなくなりました  作者: 歩人


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第5話: 百八十夜

 七日目の夜が来た。


 子供部屋の空気が変わった瞬間を、体が覚えている。日が沈み、暖炉の火が低くなり、窓の外の鳥が鳴き止む。その静寂がエミリアの体に染み込んでいく頃——決まって泣き声が始まる。

 初日から数えて七夜。一晩も欠かさず泣いた。


 観察記録ノートを開く。この七日間の記録を、もう一度たどる。


 第四日——夜間記録。泣き始め:日没後およそ二刻。持続時間:推定一刻半。入眠までの経過:叫び声→すすり泣き→しゃくり上げ→手を握ると呼吸安定→入眠。手を離すと再覚醒。

 第五日——夜間記録。泣き始め:日没後およそ二刻。ほぼ同時刻。持続時間:推定一刻。昨夜より短い。特記事項:泣き始める直前に体温が上昇する。額と首筋に汗。

 第六日——夜間記録。泣き始め:同じ時刻。持続時間:推定四半刻。昨夜よりさらに短い。すすり泣きから始まる。手に触れると呼吸が安定する速度が上がっている。環境調整の効果と思われる。


 パターンが見え始めていた。


 三歳のエミリアの夜泣きは、ただの「夜泣き」ではない。毎夜ほぼ同じ時刻に始まる。日没から二刻後——暖炉の火が最も弱くなり、部屋の温度が急に下がる時間帯だ。そして六日目、雷が鳴った夜は明らかに悪化した。

 前世の保育学が告げている。母の死と嵐の夜が重なった場合、複合トラウマになることがある。暗闇と急な温度低下と轟音——その三つが揃うと、失った安心の記憶が蘇る。


 これは「泣き癖」ではない。トラウマ反応だ。


 ならば、対処は環境から変える。




 四日目の朝から動き始めた。


 まず室温。子供部屋の暖炉は一つしかないが、火の管理を変えた。日中は弱く、夕方から少しずつ薪を足して、日没後に部屋が最も暖かくなるように調整する。急な温度低下を防ぐ。

 前世の保育園では空調があった。ボタンひとつで二十三度を保てた。ここでは薪の量と風の流れを自分の感覚で読むしかない。何度も窓の前に立ち、隙間風の通り道を確認した。夜の冷気が最も入り込む窓の下に、マルタに頼んで厚い布を詰めてもらった。


 次に照明。蝋燭が燃え尽きると部屋は完全な暗闇になる。それが問題だった。暗闇は恐怖を増幅する。三歳の子供にとって、暗い部屋は無限に広い。

 暖炉の残り火だけでは足りない。かといって蝋燭を一晩中灯し続ける余裕は養育係の分配にはなかった。


 マルタに相談した。


 「マルタ様。厨房で使い終わった獣脂じゅうしがありましたら、少し分けていただけないでしょうか」


 マルタは何も聞かなかった。翌朝、小さな壺に入った獣脂と、芯にする麻紐あさひもを黙って届けてくれた。

 獣脂の灯りは蝋燭より暗く、匂いもする。でも一晩中燃え続ける。子供部屋の隅に置けば、完全な暗闇にはならない。微かな光が壁に揺れる。それだけで、暗闇の輪郭が和らぐ。


 三つ目——寝具。エミリアの寝台は大人用で、三歳の体には広すぎた。広い寝台は落ち着かない。赤ん坊が狭い揺り籠で安心するように、幼い子供にも「囲まれている感覚」が必要だ。

 毛布を丸めて寝台の両脇に置いた。壁を作るように。エミリアの体が寝返りを打っても、柔らかい壁に触れる。誰かがいるような錯覚。それだけで体の緊張が違うはずだ。


 四つ目——就寝前のルーティン。


 これが最も重要だった。前世の保育園では、午睡の前に必ず同じ手順を踏んだ。絵本を読む、歌を歌う、布団に入る。毎日同じ順序で、同じ時間に。子供は「次に何が起きるか分かっている」と安心する。予測可能な世界は安全な世界だ。


 ヒルデが歌を禁じた。なら歌以外で作るしかない。


 夕食の後、エミリアの手を温かい布で拭く。指の一本一本を丁寧に。次に、髪をく。母アンネの代わりにはなれないが、誰かに髪を触られる感触は覚えているはずだ。最後に寝台に入り、毛布をかけて、額に手を当てる。

 歌えないなら、手の温度を伝える。声の代わりに、てのひらで。


 「おやすみなさい、エミリア。明日も会おうね」


 毎晩、同じ言葉で締める。同じ手順で、同じ順序で。




 五日目の夜。泣き始めの時刻は変わらなかった。


 でも——泣き方が変わった。


 初日の叫びのような泣き声ではなかった。すすり泣きから始まった。体を丸めてはいるが、拳を握りしめてはいない。指が開いている。

 前世で学んだサイン。拳を握るのは恐怖。指が開いているのは不安。恐怖と不安は似ているが違う。恐怖は逃げたい。不安は誰かにいてほしい。


 手を差し出した。


 「ここにいるよ」


 エミリアの指が私の手に触れた。握るのではなく、触れた。昨夜までは爪が食い込むほど握りしめていたのに。


 これは進歩だ。小さな、けれど確実な。


 六日目の夜。雷が鳴った。


 泣き声が跳ね上がった。体が震え、両手で耳を塞ぎ、膝を抱えて丸くなった。三歳の体が、あの夜を思い出している。母がいなくなった嵐の夜を。

 すべての環境調整が一瞬で吹き飛んだ。暖炉の火も、獣脂の灯りも、毛布の壁も——雷の前には無力だった。


 記録をつける手が震えた。六日分の努力が水泡に帰したような気がして、奥歯を噛んだ。

 ——違う。水泡に帰したのではない。雷という外的要因で後退しただけだ。環境調整は平常夜に効いている。雷の夜は別の対応が要る。

 冷静に記録する。感情ではなく、事実を書く。それが保育士の仕事だ。


 第七日——特記。雷鳴による急激な悪化。複合トラウマの可能性が濃厚。母の死と嵐の夜の記憶が結びついている。暗闇+温度低下+轟音の三要素が重なると、通常の夜泣きとは質が異なる反応を示す。対策要検討。




 そして七日目。


 いつもの時刻に泣き始めた。だが今夜は雷がない。暖炉は十分に燃えている。獣脂の灯りが壁を照らしている。毛布の壁がエミリアの体を包んでいる。


 すすり泣き。体を丸めているが、昨夜ほど硬くない。


 寝台の横に座り、手を差し出した。いつもと同じ距離で、同じ高さに。


 エミリアが泣きながら、目を開けた。暗がりの中で、灰色の瞳が濡れて光っていた。私を見ている。焦点が合っている。

 昨夜までは目を固く閉じていた。初めて——泣きながら目を開けた。


 小さな手が動いた。


 私の手に向かって——ではない。私の手首を掴んだ。そして、自分の胸に引き寄せた。


 「……ここ」


 かすれた声。泣き声の合間に、初めて言葉が混じった。「ここ」。ここにいて。ここを離さないで。

 三歳の子供が泣きながら掴んだ手首を、自分の方に引っ張る。その力は弱い。でも意志がある。昨夜までの「握りしめる」とは違う。あれは反射だった。これは選択だ。


 ——この子は今、自分で私を選んだ。


 涙が出そうだった。子供の前では泣かない。それは前世からの鉄則だ。でも喉の奥がきつく締まって、声がうまく出なかった。


 「……うん。ここにいるよ。どこにも行かないよ」


 エミリアの手首を握る力が、少しだけ緩んだ。完全には離れない。でも、爪が食い込む握り方ではなくなっていた。

 しゃくり上げの間隔が広がっていく。泣きながら、呼吸が深くなっていく。泣くことと眠ることの境界で、この子の体が少しずつゆるんでいく。


 ルーカスの寝台から、微かな気配がした。

 振り返らなかった。でも分かる。あの子はまた、見ている。


 エミリアの指が完全にほどけたのは、それから一刻ほど後だった。


 ノートを開いた。


 第八日——夜間記録。

 エミリア(三歳):泣き始めは同時刻。今夜は雷なし。環境調整(室温・照明・寝具・ルーティン)の効果と思われる変化あり。泣き方が軟化(叫び→すすり泣きスタート)。特記:初めて泣きながら目を開け、私の手首を自分の胸に引き寄せた。初めての言葉「ここ」。反射的な握りしめから、意志的な「引き寄せ」への変化。重要な転換点。


 ペンを止めた。


 七日。たった七日。残り百七十三夜。

 でも今夜、この子は初めて「ここにいて」と自分の言葉で言った。泣きながら、それでも言った。


 百八十夜かかるなら、百八十夜ここにいよう。


 窓の外で、春の風が木の枝を揺らしている。遠い夜鳴き鳥の声が聞こえた。

 エミリアの寝息は穏やかだった。寝台の両脇の毛布に守られて、小さな体が安心の形に丸くなっている。

 獣脂の灯りが壁に静かな影を揺らしていた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


この話を書くために、実際に乳幼児の睡眠環境ガイドラインを調べ直しました。室温、照明、寝具、就寝前ルーティン——現代でも基本とされるこの四つを、蝋燭と獣脂と毛布だけで実現しようとするフィオナの工夫は、書いていて胸が熱くなりました。空調のボタンひとつで済む世界から、薪の量で室温を読む世界へ。道具が変わっても、子供を守る知恵の本質は変わらないのだと思います。


六日目の雷の夜は、当初プロットでは「順調に改善していく」だけの予定でした。でも書いている途中で、そんなに簡単ではないだろうと思い直しました。六日分の努力が一発の雷で吹き飛ぶ現実。そこで折れずに「雷の夜は別の対応が要る」と記録に向かうフィオナの強さは、泣かないことではなく、泣きたい夜に記録をつけ続けることなのだと気づきました。


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