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「僕たちはフィオナ先生を選びます」——前世保育士の令嬢が追放された朝、公爵家の子供が全員いなくなりました  作者: 歩人


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第6話: はじめてのごはん

 マティアスが木のスプーンを押し返した。三度目だった。


 着任から三ヶ月。春が夏に変わり始めている。窓から入る風に若葉の匂いが混じるようになった。

 エミリアの夜泣きは続いている。百八十夜のうち、まだ九十夜ほど。でも泣き声は着任初日の叫びから、すすり泣きへ確実に変わった。ルーカスは相変わらず窓辺で本を読んでいる。子供部屋の隅で、エミリアの入眠後にそっと歌を口ずさむ夜を続けているが、あの子が歌に反応する様子はまだない。

 生後二週間で命の綱だった布端授乳は、今も続けている。一度に飲める量は増えた。初日の一滴が、今では布を三度替えるまで飲み続ける。頬に肉がつき、指先の冷たさも消えた。

 でも——いつまでも布端授乳ではいられない。


 前世の保育園では、生後五ヶ月頃から離乳食を始めた。十倍粥じゅうばいがゆから。米を十倍の水で炊いて、裏ごしして、ほぼ液体に近いペーストにする。

 この世界に米はない。でも麦はある。


 マルタに頼んで、厨房から麦の粉を少し分けてもらった。水で溶いて火にかけ、何度もして、限りなく滑らかなペーストにした。赤ん坊の舌は大人より敏感だ。ざらつきが少しでもあると、異物として吐き出す。

 指先で舐めてみた。味はほぼない。少し粉っぽいが、山羊の乳で溶けば滑らかになるはずだ。


 木のスプーンの先に、ほんの一滴分だけ載せた。


 「マティアス。ごはんだよ」


 同じ声、同じ距離、同じ高さ。布端授乳の時と何も変えない。変わるのはスプーンだけだ。


 マティアスの口元にそっと近づけた。


 ——顔をそむけた。


 小さな手が伸びて、スプーンのを掴み、押し返す。生後三ヶ月半の赤ん坊に、その力がある。嫌だという意志が、指先に込められていた。


 仕方ない。今日はここまで。




 翌日も拒否された。その翌日も。


 三日連続で麦粥むぎがゆを拒否するマティアスを見ながら、ノートに記録をつけた。


 エミリアが隣で私の袖を引いた。


 「……フィオナ、マティアス、やだって」


 最近、エミリアが短い言葉を話すようになっていた。まだ「まま」と寝言で呼ぶ夜があるけれど、起きている間の言葉は少しずつ増えている。この三ヶ月で、泣くこと以外の「表現」を覚え始めている。


 「そうだね。マティアスはお口が厳しいんだよ」


 エミリアが首を傾げた。「厳しい」が分からなかったのだろう。


 「好き嫌いが多いの。でも大丈夫。先生がなんとかするから」


 ——先生。

 自分でそう言ってしまった。この世界には「先生」という呼び方はない。養育係か教育係か、それだけだ。

 でも前世では保育士を「先生」と呼んだ。子供たちの前では、自然にそう出る。


 エミリアが不思議そうに私を見ていた。




 四日目。方針を変えた。


 拒否の原因を考える。前世の乳児保育で学んだことを引き出す。

 赤ん坊がスプーンを拒否する理由は三つ。一つ、味。二つ、温度。三つ、食感。


 味は問題ないはずだ。麦粥に山羊の乳を加えてある。布端授乳で慣れた味が混じっている。

 温度。——これだ。


 布端授乳では、布に染み込んだ乳は体温に近い。マティアスの唇に触れる時には、私の指の温度が布越しに伝わっている。人肌だ。

 スプーンは木だが、室温の麦粥を載せている。唇に触れた瞬間、「冷たい」と感じる。布端の温かさに慣れた赤ん坊にとって、それだけで異物だ。


 麦粥を暖炉の近くに置いて、人肌まで温めた。スプーンも温める。木のスプーンを温かい布で包んでおいて、使う直前に取り出す。


 もう一つ。食感。


 麦粥は漉したが、完全に滑らかではない。布端の山羊乳は液体だ。その差を埋めるために、麦粥をさらに乳で薄めた。ほぼ液体。それをスプーンに載せる。


 「マティアス。ごはんだよ」


 同じ声。同じ距離。温かいスプーン。


 マティアスの口元に近づけた。


 今度は——顔をそむけなかった。


 唇に触れた。反射的に舌が出る。温かい液体が舌の上に広がる。

 一瞬、眉が寄った。知らない味。でも——嫌ではなさそうだ。舌が動いている。液体を口の中で転がしている。


 飲んだ。


 一滴。たった一滴。


 あの日と同じだ。布端授乳の初日、一滴だけ飲んだあの瞬間。三ヶ月前の再現が、形を変えてここにある。


 「上手。上手だよ、マティアス」


 もう一滴。スプーンを傾けて、唇に。


 飲んだ。二滴目。


 三滴、四滴——布端の時より速い。舌がスプーンの感触を覚え始めている。




 エミリアが寝台の上から身を乗り出して、揺り籠を覗き込んでいた。


 「フィオナ、マティアス、のんだ?」


 「うん。飲んだよ。上手だったね」


 エミリアが小さく拍手した。誰かに教わったのではない。嬉しい時に手を叩く——三歳児が自然に覚える表現だ。三ヶ月前、ルーカスの膝の上で虚ろに丸くなっていた子が、弟の成長を喜んで手を叩いている。

 記録しなければ。この瞬間を。




 翌日から、少しずつ麦粥の濃度を上げた。乳で薄めた液体から、ゆっくりとペーストへ。毎日ほんの少しだけ。赤ん坊の舌は一日で変化を受け入れない。三日かけて、一段階。


 七日目。麦粥がペーストと呼べる固さになった日のことだった。


 いつもと同じ手順で、温めたスプーンに麦粥を載せた。マティアスの口元に運ぶ。

 唇が開いた。もう拒否しない。この七日間で、スプーンは「異物」から「ごはんの合図」に変わった。


 ペーストが舌の上に載った。


 マティアスの顔が変わった。


 眉が寄る——でも、嫌な顔ではない。知らない食感に驚いている顔だ。口の中でペーストを転がしている。舌で押し、歯茎で触り、もう一度舌で押す。

 全身で「これは何だ」と確かめている。


 そして——口の端が、持ち上がった。


 笑った。


 声はなかった。音のない笑顔だった。口の端が上がり、頬の肉が丸く盛り上がり、目が細くなった。生後三ヶ月半の赤ん坊が、食べ物を口に入れて、笑った。


 前世の乳児保育室で、ミルク以外のものを初めて口にした赤ん坊が見せる表情を知っている。驚きと困惑が混じった、あの独特の顔。でも笑う子は少ない。多くの子は泣くか、吐き出すか、無表情でいる。

 この子は笑った。生まれてから三ヶ月半、母の乳を一度も飲めなかった子が。三人の乳母に見放された子が。布の先端からしか栄養を取れなかった子が——初めてのごはんを口にして、笑ったのだ。

 笑ったということは、この子は今、「新しいこと」を楽しいと感じている。世界はまだ怖いものばかりではないと、この小さな体が覚え始めている。


 もう一口。スプーンを差し出す。


 マティアスの手が伸びた。スプーンを押し返すためではなかった。スプーンの柄を握った。自分の方に引こうとしている。

 「もっと」と言っている。声が出ないから、手で伝えている。


 ルーカスの時もそうだった。エミリアの時もそうだった。声にならない言葉を、体で伝えるこの子たちの強さに、何度救われただろう。


 「もう少しだけね。食べすぎるとお腹が痛くなるよ」


 三口目を食べさせた。四口目はやめた。初めての食事で食べすぎると、消化不良を起こす。前世で何度も見た失敗だ。嬉しくて食べさせすぎる保育士がいた。私もそうだった。


 マティアスがスプーンの柄を握ったまま、もう一度笑った。今度は声が出た。「あ」とも「う」とも聞こえる、短い発声。笑い声と呼んでいい。


 ノートを開いた。


 麦粥への移行七日目。スプーン授乳からペースト食への段階的移行に成功。初めての固形物(ペースト状)摂取。三口。特記:摂食中に自発的笑顔。発声を伴う。摂食中の笑顔は初回(普段の社会的微笑は一ヶ月前から確認済み)。食への肯定的反応と認められる。


 ペンを置いた時、指が震えていた。嬉しさで。

 この三ヶ月、一滴ずつ積み重ねてきた。布端の一滴が五滴になり、五滴がスプーンになり、スプーンがペーストになった。一滴ずつ。一口ずつ。


 窓辺で、ルーカスが本を読む手を止めてこちらを見ていた。

 目が合った。一瞬だけ。ルーカスはすぐに目を逸らしたが——その一瞬、口の端がほんの微かに動いたように見えた。

 笑ったのかどうかは分からない。でも、眉間の皺が少しだけ浅くなっていた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


実はこの話で一番苦労したのは、麦粥の作り方でした。この世界に米はないので、十倍粥が使えません。麦を粉にして、漉して、乳で溶いて……前世の知識を異世界の素材に翻訳する作業が、書いていて楽しくもあり、フィオナの苦労を追体験する時間でもありました。


マティアスの笑顔は、書いている最中に不意に来ました。ペーストを口に入れた瞬間の「これは何だ」という表情を描いている途中で、この子は笑うだろうなと。泣く子も吐き出す子もいる中で、笑った。その事実が、この子の持って生まれた明るさなのだと思っています。星型の人参を大好きになる未来が、ここから始まっているのかもしれません。


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