第4話: 遊びは堕落
エミリアの手を握ったまま、朝の鐘を聞いた。
昨夜の泣き声がまだ耳の奥に残っている。二時間、あるいはもっと長く。あの叫びに似た泣き声と、それが少しずつすすり泣きに変わっていく過程を、背中をさすり続けた掌が覚えている。
エミリアはまだ眠っていた。泣き疲れたのだ。頬に残った涙の跡が乾いて、朝陽を受けてかすかに光っている。握られた指の力は、夜の間にゆるやかにほどけていた。
揺り籠のマティアスも眠っていた。昨夜は布端授乳を三度繰り返し、一度に五滴ずつ飲めるようになっていた。昼間の一滴から、たった一晩で。今朝はもう少し伸ばせるかもしれない。
ルーカスの寝台は空だった。
毛布が几帳面に畳まれている。七歳の少年が朝一番にすることが寝具の整頓だという事実に、胸の奥が痛んだ。前世の保育園で見たことがある。家庭環境が厳しい子ほど、自分の持ち物を正確に整える。乱れを作ると叱られることを、体が覚えているからだ。
窓辺に立つと、庭が見えた。ルーカスが中庭のベンチに一人で座っている。膝の上に何か載せている——本だろうか。朝の冷たい空気の中、コートも着ずに。
声をかけに行きたかったが、今はエミリアとマティアスから離れられない。
まず子供部屋の環境を整えよう。
前世で叩き込まれた基本——「環境が子供を育てる」。保育室のレイアウトが子供の行動を変える。壁の色、おもちゃの配置、光の入り方。物理的な空間が安心感の土台になる。
ここは貴族の屋敷の最上階の隅。大人の目が届きにくい場所に追いやられた子供部屋。壁は冷たい灰色の石、窓は小さく、暖炉は一つだけ。昨日までの酸えたミルクの臭いは拭き取ったが、まだ空気が重い。
窓を開けた。春の朝風が入ってくる。新芽の匂い。子供部屋に、初めてまともな空気が流れた。
寝具を干し、床を掃き、揺り籠の位置を窓寄りに動かしていた時だった。
足音が聞こえた。硬い靴底が石の廊下を叩く音。一定の間隔。迷いがない。
扉が開いた。
「あなたが新しい養育係ですか」
痩せぎすで背の高い女性が立っていた。灰色の髪を後頭部できつくまとめ、黒い服の上に白い襟を正している。右手に細い教鞭を持っていた。眉間に深い皺が刻まれている。五十歳前後——その皺は年齢だけではなく、長い年月の厳格さが彫り上げたものだろう。
笑顔はなかった。そもそも、笑った形跡が顔のどこにもない。
「ヒルデ・グラーフと申します。ヴェルナー公爵家の主任教育係です」
一礼する。背筋が定規のように真っ直ぐだった。
「フィオナ・メルツでございます。よろしくお願いいたします、ヒルデ先生」
「先生は不要です。私は教師ではなく教育係ですので」
訂正の速度が速い。言葉の使い方に厳密な人だ。——教育に携わる人間としては正しい姿勢だと思う。
ヒルデの視線が子供部屋を巡った。開け放たれた窓。位置を変えた揺り籠。干された寝具。
眉間の皺がわずかに深くなった。
「揺り籠の位置を変えましたね」
「はい。朝の光が差す位置に移しました。赤ん坊は自然光のリズムで睡眠周期が安定しますので」
「……根拠は?」
答えに詰まった。根拠は前世の保育学の教科書だ。この世界には存在しない。
「……経験でございます。以前、別のお子様をお世話した際に効果がございました」
嘘ではない。省略しているだけだ。
ヒルデは数秒、私の顔を見つめた。疑っているのか、値踏みしているのか、この人の表情からは読み取れない。
それから、教鞭で揺り籠を軽く示した。
「メルツ嬢。私はこの家で三十年、教育に携わってきました。ルーカス様の教育課程は来年から本格的に始まります。読み書き、算術、礼儀作法、歴史、地理。公爵家の嫡男にふさわしい教養を、七歳のうちから基礎固めいたします」
三十年。その重みは、私の前世の保育士歴八年を軽く凌駕する。
「あなたの仕事は養育——つまり身の回りのお世話です。食事、入浴、睡眠の管理。それ以上でもそれ以下でもありません。教育は私の領分です。ご理解いただけますか」
丁寧だが、隙がなかった。三十年の実績が一語一語に詰まっている。この人にとって教育とは「知識の伝達」であり、養育とは「身体の管理」だ。明確に分離されている。
前世の保育学では、養育と教育は不可分だった。食事も睡眠も遊びも、すべてが子供の発達を支える。分けられるものではない。
でも今、それを言っても通じない。
「承知いたしました」
ここで衝突しても得るものはない。まず信頼を積む。保護者対応の基本だ——いきなり正論をぶつけない。相手の立場を認めた上で、少しずつ隙間を作る。
午前中はエミリアの寝具を縫い直し、揺り籠の敷布を洗い、マティアスの布端授乳を二度した。ルーカスは庭から戻ってこなかった。窓から何度か様子を見たが、ベンチで本を読み続けている。春風がページをめくるたびに、細い指で押さえていた。
昼過ぎ。マルタが運んでくれた昼食をエミリアに食べさせ、マティアスに布端授乳をした後のことだった。
エミリアがぐずり始めた。食事の後、眠くなるのに眠れない。体が疲れているのに心が落ち着かない。三歳児にはよくある状態だ。
前世なら午睡の時間。保育園では子守歌を歌いながら背中をさすった。
自然に口が動いた。
「ちゅうりっぷのはなが ならんだ、ならんだ——」
前世の記憶の中にある歌。日本語の童謡。この世界の言葉ではないが、旋律は万国共通だ。穏やかで、繰り返しがあり、リズムが一定。子供を安心させる三つの要素が揃っている。
エミリアの瞬きがゆっくりになった。体の力が少しずつ抜けていく。歌の効果ではない——正確には、歌に乗せた声の振動と、一定のリズムが、呼吸と心拍を落ち着かせるのだ。
ルーカスが窓辺から振り返った。
その瞬間、扉が開いた。
「何をしているのですか」
ヒルデだった。教鞭が壁を叩く乾いた音が、歌を断ち切った。
「歌を……お歌をエミリア様に」
「歌?」
ヒルデの声に感情はなかった。怒りでも軽蔑でもない。事実を確認するような、乾いた問いだった。
「メルツ嬢。この家には家訓がございます。子供の遊びは一日一時間まで。それ以外の時間は学びに充てるべきであると」
「これは遊びではございません。エミリア様の入眠を——」
「歌は遊びです」
断定だった。議論の余地を残さない声だった。
「遊びは堕落の始まりです。三十年、この家で子供たちを見てまいりました。歌に浮かれ、踊りに興じ、手を叩いて笑う。その先にあるのは怠惰です。公爵家の子女が歌に合わせて体を揺らす姿を、来客が目にしたらどうお思いになるか」
遊びは堕落。堕落は恥。——三十年の実績に裏打ちされた三段論法が、この世界では完璧に通る。
エミリアの目が再び開いた。不安げにこちらとヒルデを交互に見ている。空気が変わったことを、三歳の体が感じ取っている。
「……失礼いたしました。以後、気をつけます」
引き下がった。今は。
ヒルデは一つ頷き、揺り籠のマティアスを一瞥した。表情は変わらない。赤ん坊を見ても、眉間の皺が深くも浅くもならない。
それから踵を返し、廊下に消えた。足音が遠ざかり、完全に聞こえなくなるまで待った。
奥歯を噛みしめていたことに気づいた。
エミリアが眠りかけていたのだ。あの子の瞬きがゆっくりになって、体の力が抜けていって——あと少しだった。あと少しで、この子は自分の力で眠れたのに。
悔しい。正しいことをしているのに、止められる悔しさ。前世でもあった。保護者に「遊んでないで勉強させてください」と言われた時の、あの喉の奥が熱くなる感覚。
でも——感情をぶつけても何も変わらない。それも前世で学んだことだ。
エミリアが私の袖を掴んでいた。小さな指が布を握りしめている。
「大丈夫よ。怒られたのは私であって、エミリアじゃないよ」
この子は怒鳴り声を恐れている。——いや、ヒルデは怒鳴っていない。声を荒げてすらいない。あの人は怒鳴らないのだ。教鞭を振り上げもしない。
暴力を振るわない。
それは、この世界の教育者としては珍しいことだった。前世の歴史でも、体罰が当たり前の時代は長く続いた。ヒルデが三十年間、一度も手を上げていないのだとしたら——あの人の中にも、子供を傷つけたくないという気持ちがあるのかもしれない。
ただ、その気持ちの表し方が、私とはまったく違うだけで。
夕方。マルタが夕食を運んでくれた後、エミリアが食べ終わるのを待って、ルーカスの隣に座った。
ルーカスは窓辺の椅子に腰かけ、分厚い本を読んでいた。タイトルが見える——歴史書だ。七歳の少年が読むには難しすぎる内容。でもページをめくる手は止まっていない。
「ルーカス様」
反応がない。本を読んでいるから、というよりも——声に反応することを止めているように見える。声を出すことが怖い子供は、声を聞くことにも壁を作ることがある。
「一つ、聞いてもらいたいことがあるんです」
ルーカスの手が止まった。目は本に向いたまま。でも、ページをめくらなくなった。聞いている。
「さっき、私が歌を歌っていたの、聞こえましたか?」
沈黙。
「あの歌を、ルーカス様にも聴いてほしいなと思って。もしよければ、少しだけ——」
ルーカスが本を閉じた。
こちらを見た。昨夜の暗がりの中で見たのとは違う目。昼の光の下で、茶色の瞳がはっきりと見えた。母親のアンネ譲りだろうか、柔らかい色をしている。
でも今、その瞳は拒絶の色を帯びていた。
ルーカスは首を横に振った。
一回。はっきりと。
それから立ち上がり、本を脇に抱えて部屋を出て行った。足音は静かだったが、速かった。逃げるように、ではない。——拒否の意思を、行動で示している。声が出ないから、体で伝えている。
扉が閉まった。
エミリアが不安そうに私を見上げている。マティアスは揺り籠の中で指をしゃぶっている。
座ったまま、膝の上に手を置いた。
予想していた。拒否されることは、分かっていた。
前世の保育園でも、新しい先生の歌遊びを最初から受け入れる子のほうが少ない。まして、声を失った七歳の少年に「歌を聴いて」と言うことが、どれほどの暴力になりうるか。
自分が出せない声を、他人が自由に使っている。それを目の前で見せられることの残酷さを、私は分かっていたはずだ。
——分かっていた、つもりだった。
でも実際に拒否されると、胸のどこかがきしむ。保育士として何年やっても、この痛みには慣れない。慣れてはいけない。拒否は「まだ早い」というサインであって、「もう来るな」ではない。
ノートを開いた。
第三日——午後記録。
ルーカス(七歳):歌遊びの提案を明確に拒否。首振り+退室。声を出すことへの忌避が強い。歌を「聴く」ことすら受け入れられない段階。アプローチを変える必要あり。音楽への導入は段階を踏む——まず環境音として遠くから流す。近づけるのはルーカスの判断に任せる。
ヒルデ主任教育係との方針確認。歌・遊びは「堕落」と位置づけ。直接対立は避け、まず子供の変化で示す方針。
ペンを止めた。
ヒルデの言葉が頭に残っている。「歌は遊びです」。あの人にとって、歌も踊りも笑い声も、すべて「遊び」という一つの箱に入っている。遊びは堕落。堕落は排除すべきもの。
三十年間、そう信じてきた人を、言葉で説得することはできない。
でも——子供が変わった時、目の前の事実を否定できる人はいない。
今日の失敗を記録に残す。明日、別の方法を試す。失敗も記録する。その繰り返しだ。
ルーカスが本を読んでいた場所に、一冊だけ本が残されていた。歴史書ではない。——薄い絵本だった。表紙がすり減って、何度も読まれた跡がある。
開いてみると、最初のページに小さな文字が書いてあった。
「ルーカスへ ママより」
閉じた。元の場所に戻した。
この本を、あの子は毎日読んでいるのだろう。声が出なくても、母の言葉を目で追うことはできる。それがあの子にとっての、母と過ごす時間なのだ。
窓の外が夕焼けに染まっていた。公爵邸の屋根の向こうに、春の雲が薄紅色に広がっている。
今夜もエミリアは泣くだろう。マティアスには布端授乳を続ける。ルーカスには——近づきすぎない。
遠くから歌う。この部屋のどこかで、私が歌っていることだけを、空気に染み込ませる。
聴いてくれなくていい。ただ、歌が鳴っている場所に、この子がいてくれればいい。
それだけで、最初の一歩になる。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
ヒルデを書くのが予想以上に難しかった。「悪役」にしてしまえば楽なのですが、それは違うと最初から決めていました。この人は三十年間、自分なりの正義で子供と向き合ってきた人です。暴力を振るわないという一点だけで、彼女の中に「子供を傷つけたくない」という芯があることが伝わればいいなと思いながら書きました。
ルーカスが残していった絵本——「ルーカスへ ママより」という一行は、プロットにはありませんでした。書いている途中で、あの子が毎日声を出さずに母の本を読んでいる姿が見えて、そのまま書きました。声を失った子供にとって、文字は最後に残された声なのかもしれません。
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