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「僕たちはフィオナ先生を選びます」——前世保育士の令嬢が追放された朝、公爵家の子供が全員いなくなりました  作者: 歩人


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第3話: 泣くことは表現

 泣き声が闇を裂いた。


 春の夜はまだ冷える。子供部屋の隅に広げた毛布の上で目を開けた。——いや、眠ってなどいなかった。着任初日の夜に眠れるはずがない。

 蝋燭はとうに燃え尽きていた。暖炉の残り火だけが、壁に赤い影を揺らしている。


 声の主はエミリアだった。


 昼間は兄の膝の上で虚ろに丸くなっていた三歳の少女が、寝台の上で体を丸めて泣いている。声というより叫びに近い。言葉にならない悲鳴が石壁に反響して、子供部屋を満たしていく。

 「まま」とも聞こえるが、意味のある言葉ではなかった。三歳の子が感情の洪水に飲まれた時に出す、あの音だ。


 前世でも何度も聞いた。保育園の午睡ごすいの時間に突然泣き出す子。夢の中で母を呼ぶ子。目が覚めても泣き止まない子。

 あの頃は、隣に先輩がいた。手が足りなければ園長先生が来てくれた。

 今は私一人だ。


 毛布をはねのけ、エミリアの寝台に駆け寄った。


 「エミリア。大丈夫、ここにいるよ」


 体に触れた瞬間、分かった。汗でびっしょりだ。寝間着が背中に張りついている。額にも首筋にも汗が浮いて、蒸れた布の匂いがする。体温が高い——熱ではない。泣き続けて体が熱くなっているのだ。

 エミリアは私の声に反応しなかった。目を固く閉じたまま、両手を握りしめて泣いている。呼吸が浅く速い。


 前世の知識が動く。

 まず、体勢。仰向けのまま泣くと喉が詰まる。上体を少し起こす。次に、温度。汗をかいているから寝間着の首元を緩める。そして——触れ続ける。背中に手を当てて、一定のリズムで撫でる。


 泣き止ませようとしてはいけない。


 保育士になりたての頃、先輩にこう言われた。

 「泣いてる子に『泣き止みなさい』って言う大人が一番多いの。でもね、考えてみて。泣くことは、あの子たちの言葉なのよ。言葉を取り上げたら、何が残る?」


 泣くことは表現だ。

 三歳の子供に母の死は理解できないだろう。「死」という概念がまだないはずだ。ただ、いつも隣にいた温かいものが突然消えたことだけは——前世で何度も見てきた。あの年頃の子供は、それだけを全身で分かっている。呼んでも来ない。探しても見つからない。その恐怖と混乱が、夜になると溢れ出す。

 昼間はまだ気を紛らわせるものがある。窓から差す光。誰かの足音。けれど夜は何もない。暗闇と静寂だけが残って、消えたものの不在が輪郭を持つ。


 この世界では、子供が泣けば「わがまま」か「甘え」だ。泣き止ませるのが養育係の仕事とされている。

 違う。この子は今、自分の感情を必死に表現しているのだ。言葉を持たない三歳児が使える唯一の手段で。


 「泣いていいよ。泣いて、いいからね」


 背中を撫で続けた。途切れさせない。一定のリズムで、てのひらの温度を伝え続ける。


 前世の保育園で、同じことをした夜があった。母子分離が辛くて午睡のたびに泣く三歳の女の子。毎日毎日、背中をさすって「泣いていいよ」と言い続けた。三週間かかった。ある日ふと、泣きながら私の手を自分の背中に引き寄せた。「まだやめないで」と言うように。

 あの瞬間に分かった。この子は泣くことで、私を呼んでいたのだ。泣くことで「ここにいて」と伝えていたのだ。


 エミリアの泣き声が少しずつ変わっていく。叫びから、すすり泣きに。すすり泣きから、しゃくり上げに。呼吸の間隔が広がる。


 「……ま、ま……」


 目を閉じたまま、小さな指が空を掴んだ。いない人を探している。

 その手を、そっと握った。


 「ここにいるよ」


 ママではない。でも今この子に必要なのは、ここにいる誰かの手だ。


 エミリアの指が握り返してきた。爪が食い込むほどの力で。三歳の手に、それだけの力が残っていた。泣き疲れても、誰かの手を離さない力が。


 しゃくり上げの間隔がさらに広がる。呼吸がゆっくりと深くなっていく。泣き疲れて、意識が沈んでいく。

 手は離さなかった。握られたまま、寝台の横に座り続けた。


 暖炉の残り火が完全に消えた。部屋の空気が冷えていく。春の夜気が窓の隙間から忍び込んでくる。

 エミリアの指の力が少しずつ緩んでいった。完全には離れない。握るというより、触れている。その触覚だけが、この子と私をつなぐ細い糸だった。


 額に張りついた巻き毛をそっと払った。泣き腫らした目元が赤い。頬に涙の跡が幾筋も残っている。

 この夜泣きは、今夜だけでは終わらない。明日も泣く。明後日も泣く。母を失った三歳の子が、その喪失を体で消化するには時間がかかる。

 何夜かかるか分からない。でも——毎夜、この手を握る。それだけは決めた。




 エミリアの寝息が安定するのを確認してから、揺り籠に向かった。


 マティアスが目を開けていた。

 泣いていない。姉の叫び声がずっと響いていたはずだが、この子は泣かなかった。生後二週間の赤ん坊が泣かないのは、良い兆候ではない。泣く力が残っていないか、泣いても誰も来ないと学んでしまったか——どちらにしても、胸が痛む。


 マルタが夕刻に届けてくれた山羊の乳を、清潔な布の端に染み込ませた。


 「マティアス。ごはんだよ」


 布の先端をそっと唇に当てる。昼間と同じ手順。同じ声の高さ。同じ距離。赤ん坊は環境の一貫性で安心する。変わらない手順が、この世界は安全だと教えてくれる。


 舌が動いた。昼間より反応が早い。


 一滴。二滴。

 ……三滴。


 昼間は一滴がやっとだった。今夜は三滴。

 たった三滴。でも私には分かる。この差がどれほど大きいか。前世の乳児保育室で、ミルクを十cc多く飲んだだけで保育士全員が拍手した日がある。傍から見れば誤差でしかない。でもあの十ccには、赤ん坊が「飲んでみよう」と決めた意志が詰まっていた。


 四滴。五滴。

 布を替えて、また一滴目から。


 気づけば、昼間の倍近く飲んでいた。マティアスの頬に、かすかに赤みが差している。冷たかった指先に、血の温度が戻り始めていた。


 ふと、気配を感じた。


 顔を上げる。


 ルーカスが起きていた。


 部屋の隅の寝台——七歳には大きすぎる寝台の端に腰かけ、膝を抱えてこちらを見ている。

 昼間の虚ろな目ではなかった。暗がりの中でも分かる。あの瞳に光が灯っている。微かだが、確実に。焦点が合っている。私を見て、エミリアの寝台を見て、揺り籠を見て、また私に戻ってくる。


 この子は——ずっと見ていたのだ。


 エミリアが泣き始めた時から。私が駆け寄った時から。「泣いていいよ」と言った時から。マティアスに布を当てて「上手だね」と声をかけた時から。全部。


 七歳の少年は二週間前に母を失い、声を失った。父は名前を間違え、乳母は逃げ、大人は来ては去った。この子にとって「大人」とは、いなくなるものだ。

 だから黙って見ている。この新しい大人が、いつ態度を変えるのか。いつ匙を投げるのか。


 でも——この子が見ているのは、本当はそれだけではない。


 前世の保育園にも、こういう子がいた。新しい先生が来るたびに遠くから観察する子。近づいていいのか、何日もかけて見定める子。

 あの子たちが本当に見ていたのは、「この大人は、僕を見てくれるかどうか」だった。


 ルーカスは今、それを確かめている。


 「ルーカス様」


 小さく呼びかけた。返事はなかった。でも、目が逸れなかった。


 「起こしてしまってごめんなさい。エミリアは眠りましたよ。マティアスも、少し飲めました」


 なぜ七歳の少年に報告しているのだろう。けれど自然だった。この子は弟と妹を守ろうとしている。ならば、守る者に状況を伝えるのは当然のことだ。

 七歳に背負わせてはいけない荷物だと分かっている。でも今は、この子が自分で下ろすまで待つしかない。無理に取り上げれば、最後の支えを奪うことになる。


 ルーカスの唇が微かに動いた。声は出なかった。

 でも、口の形は読めた。


 ——ほんとう?


 頷いた。


 ルーカスの肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。膝を抱える腕がわずかに緩んだ。


 それだけだった。声のないやりとりが暗い子供部屋を行き来しただけ。

 でも——これが始まりだ。

 子供が大人を信じ始める瞬間は、いつもこんなふうに静かだった。劇的な何かがあるのではなく、「見ていてくれた」という事実がただ積み重なる。それだけでいい。




 窓の外がうっすらと白み始めた頃、観察記録ノートを開いた。


 第二日——夜間記録。


 エミリア(三歳):深夜に激しい夜泣き。推定二時間。叫び声から始まり、すすり泣き、しゃくり上げを経て入眠。手を握ると呼吸が安定する。触覚による安心が有効。継続対応。睡眠環境の改善が急務——室温管理、寝具の見直し、就寝前の手順の確立。

 マティアス(〇歳):布端授乳二回目。昼間の倍量を摂取。反応速度が向上。頬に赤みあり、指先の体温が微上昇。継続。

 ルーカス(七歳):夜間覚醒。こちらの対応を最後まで観察していた。発語なし。ただし口の動きで「ほんとう?」と問いかけあり。視線に焦点。進展。


 ペンを置いて、窓の外を見た。

 春の朝陽が稜線りょうせんの向こうから昇り始めている。庭木の新芽が朝露を纏って、淡い光に輝いていた。


 初日の夜が終わった。

 何も解決していない。エミリアはまた今夜も泣くだろう。マティアスの授乳はまだ綱渡りだ。ルーカスの声は出ない。


 でも、昨日より一滴分だけ進んでいる。


 この一滴を、積み重ねていくしかない。百日かかるかもしれない。二百日かかるかもしれない。

 それでも——この子たちが泣いている夜は、ここにいる。


 ルーカスの寝台から薄い寝息が聞こえた。ようやく眠ったらしい。壁の一点を凝視していた昼間とは違う。今は天井を向いて、静かに呼吸している。


 この屋敷には課題が山積みだ。子供に無関心な父親。「遊びは堕落」と断じるらしい主任教育係。唯一の理解者であるイルマ様は病で動けない。

 でも今は——目の前の三人だけを見る。


 明日の夜もここにいる。その次の夜も。

 百八十夜かかるなら、百八十夜ここにいよう。


 まだ知らなかった。その数字が、冗談ではなく現実になることを。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


「泣くことは表現」——保育の現場では基本とされる考え方ですが、書きながら改めてその深さに気づきました。言葉を持たない三歳児が感情を伝える唯一の手段を、「わがまま」の一言で片付けてしまう大人がいる。この世界に限った話ではないのかもしれません。


ルーカスが闇の中でフィオナを見ていた場面は、最初のプロットにはなかった場面です。書いていたら勝手に出てきました。声を出せない七歳の少年が口の形だけで「ほんとう?」と確かめる。あの瞬間に、この子の強さが全部詰まっている気がしています。


百八十夜という数字が最後に出てきましたが、これがどういう意味を持つかは——もう少し先のお楽しみです。


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