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「僕たちはフィオナ先生を選びます」——前世保育士の令嬢が追放された朝、公爵家の子供が全員いなくなりました  作者: 歩人


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第27話: 振り返らない

 門の前に立った時、夜の色はまだ東の稜線の向こうにほんの一段の層を譲っただけだった。


 馬車回しの石畳に降りた夜明け前の冷気の粒が、薄い革靴の底の皮の厚みをゆっくり通ってきた。


 門の脇の低い石柱の横にマルタが立っていた。右手に小さな提灯。橙の芯の光が、マルタのエプロンの縁の白い縫い目を一筋だけ照らしていた。




 「……お待ちしておりました、フィオナ様」


 マルタの声は冷気の上層を滑らずに、石畳の下の方へ静かに降りた。昨日の廊下の角であの告げ方をしたときと同じ種類の、水分の含み方だった。


 「……マルタ様。朝早くから」


 革鞄は一つ。着替えと筆記の道具と小さな手帖。観察記録の五冊は、棚の一段目の背表紙の名前の凹凸の下に、五年分の手順ごと預けてきた。荷の奥の方は軽かった。紐の端だけが掌の中で低い温度を返してきた。


 マルタが提灯を一段低くした。光の芯が石畳の上を流れ、私の靴の爪先の方へ一筋伸びた。


 「お荷物は、これだけでございますか」


 「……はい。これで、十分ですわ」


 マルタは頷かなかった。頷く代わりに、右手をエプロンの縁のいつもの位置に静かに預けた。




 「お行き先は、もうお決まりでございますか」


 マルタの問いは、問いの形にはなっていなかった。問いの底にはすでに、答えの場所の冷えた輪郭が一つ据えられていた。


 「……グリューネヴァルトに、まいります」


 声は自分の耳にも小さく乾いていた。前世の舌にはない音の並び。異世界の森の縁の小さな街の名前。イルマ様がいつか短い紹介状の一行に書き込まれた地名だった。


 「……何かあったら、手紙をいただけますでしょうか。マルタ様の、お手から」


 マルタのエプロンの縁に預けた指が、ほんの半分だけ布を握った。握ったまま声は出さず、喉の下の層で一度深く、頷いた息の形を立てた。


 「……必ず。必ず、お出しいたします」


 短い一言。マルタの五年分の全部が、その短い返事の下に積まれていた。


 私は革鞄の紐を肩に掛け直した。掛け直した先で、机のいちばん下の引き出しの奥の、冬から預かっている薄い布の包みの重さが、一粒分だけ掌の記憶の上を静かに通り過ぎた。


 「……あれは」


 口には出さなかった。出す前にマルタはすでに、エプロンの内側の縫い代のいつもの位置に、右手を深く預けていた。


 「……承知、いたしております」


 イルマ様の離れの寝室の、獣脂灯の明かりの下でマルタの喉に預けられた一言——「あの、記録を……いつか、の時に……」——その受け取り先の最初の一歩を、マルタはここで踏んでいた。




 門扉に手を掛けようとした、その時。


 背中のいちばん奥、子供部屋の方の廊下から、遠い絨毯を踏む薄い足音が一つした。


 マルタの提灯の光がふいに一度揺れて、石畳の上の私の靴の先を外れた。


 「……せんせい」


 寝起きの細い声。


 五歳の薄い目覚めの層の、まだ夢の縁にかかっている声。


 振り返らない、と昨夜、窓辺で自分の指に置いた。置いたその一語を、今、石畳の上で守ることはできなかった。


 半身、振り返った。




 玄関の重い扉はまだ閉じていた。その下の隙間から、廊下の奥の獣脂灯の橙の、いちばん遠い芯の光が、一筋だけ石畳の方へ漏れていた。


 光の漏れ口のいちばん内側の場所。


 小さな寝巻きの裾の、白い縁が見えた。


 裾の下の小さな足。片方は毛糸の厚い靴下、もう片方は裸足。慌てて寝台を降りてきた、その一歩の残りの片足だった。


 胸の前に両手で、小さな柘植つげの星型の柄が握られていた。三年前の秋に台所の片隅で、薄い欠片の匂いの下で私の指が削り出した形。掌の中の、棘のない五つの角の星。


 「……マティアス様」


 声のいちばん上の薄い一枚の層が、石畳の冷気の中で半拍震えた。震えを喉の下の層まで落とさないように、息の速さをほんの少しゆるめた。


 マティアス様は光の漏れ口の内側から、裸足の方の足で石畳の縁へ半歩出た。出ようとして、止まった。止まった先で、星のスプーンを胸の前でもう一段強く握った。握った指の爪の、薄桃色の下が白くなった。


 「……せんせい。どこ、いくの」


 五歳の矢の、いちばん素直な問いの形。


 昨夜、寝台の上でマティアス様が「あさっては、もう、いっかい、やる」と言った。その「やる」の音の最後の深い息の底に沈んでいったものが、今、朝霧の一拍前の石畳の手前に、もう一度浮かんで来た。


 私は絨毯の光の縁の手前に膝を折った。五年前から同じ高さ。子供の目にちょうど合う位置だった。




 青い瞳の光が、朝の冷気の奥で一度揺れた。揺れた光の中に、問いの本当の端が見えた。——せんせいは、戻ってくる?


 その問いには、今朝の私は答えを持っていなかった。持っていない答えの代わりに、一つの嘘が喉のいちばん上の層に登ってきた。


 ——子供の前で、嘘はついてはならない。


 前世の指先に置いた鉄則の、いちばん古い一枚。


 ——けれど今、この嘘を飲み込まずに外へ出せば、この子の朝の、いちばん薄い瞼の下が折れる。


 鉄則のいちばん古い一枚と今朝のいちばん新しい判断と、ちょうどぶつかる縁のところで私の喉は一度乾いた。乾いた先で、私の指は昨夜、棚の深い赤の背表紙に彫った名前の凹凸の温度を思い出した。


 ——今朝の一つ分の嘘は、私が引き受ける。


 「……先生はね。新しい、お仕事を、するの」


 嘘の最初の一語。「先」の破擦音の、舌の先の角のところで、私の喉のいちばん上の層が一粒軋んだ。その軋みがマティアス様の耳の薄い奥まで届かないよう、次の音の息の速さをわずかにゆるめた。


 「……おしごと」


 マティアス様が繰り返した。繰り返した口の下唇の内側が、半分だけ引き込まれた。二歳の畑の集中の癖の、あの角度。五歳の今朝、この癖が戻ってきた。


 「ええ。遠いところで、子供たちのお世話をするお仕事なの」


 ——グリューネヴァルトの名前は出さなかった。辺境の地名は、五歳の舌のまだ知らない音だった。


 「……ぼくも、いく?」


 喉のいちばん下の層に、別の小さな熱の粒が一つ落ちた。


 「……マティアス様は、ここにちゃんといなくては、ならないの。おにいさまと、おねえさまの、そばにね」


 マティアス様の下の瞼の縁が一度引き下ろされた。五歳のこの仕草は「やだ」の一歩手前の最後の踏ん張り。冬の午後の靴紐の、五度目の挑戦の集中のあの輪郭だった。


 私はマティアス様の両手で握った星のスプーンの、握りのいちばん外側に、自分の右手の掌をひらりと重ねた。重ねた掌の下の皮膚のいちばん薄い層に、五歳の小さな指の爪の、薄桃色の下の白さが静かに預かられた。


 「……星のスプーンは、マティアス様の、お手についているわね」


 マティアス様は頷かなかった。頷く代わりに、両手の指の深い関節のところで、スプーンの柄をもう一段強く握った。


 「……ずっと、もつ」


 五歳の宣言。


 この子のいちばん素直な、手の形の誓いの置き方だった。


 私は掌を静かに離した。離した先で、マティアス様の両手の小さな輪郭の下に、星の形が戻って沈んだ。




 「マティアス様。お部屋に、戻りましょうね」


 「……せんせいは?」


 「先生は、ここからもう少し、遠くへ行くの」


 「……すぐ、かえる?」


 嘘の二つ目。一つ目よりも薄い嘘。薄い代わりに、細く硬い、鉄の味のする嘘。


 「……ええ。先生は、マティアス様の、ちょう結びの羽の長さを、覚えているわ」


 答えにならない答え。


 答えにならないまま、マティアス様の両手のスプーンの握りが半拍緩んだ。緩んだ握りの下で、星の五つの角の外側の一つが、寝巻きの毛羽の次の一筋の上にそっと沈み直した。


 「……うん」


 五歳の短い、納得の音。本当の底まではこの子は行っていなかった。


 マルタが提灯を一段高く上げた。橙の芯の光のいちばん外側の層が、玄関の扉の下の隙間の、光の縁のちょうど手前まで届いた。


 「マティアス坊ちゃま。お部屋に、お戻りくださいませ」


 マルタの声は、昨日の廊下の水分の含み方から、もう一段深い層に落ちていた。落ちた先で、マルタの右手が寝巻きの肩の輪郭の方へ一歩差し出された。


 マティアス様は半拍動かなかった。動かないまま、青い瞳は膝の高さの方をじっと覗いた。覗いた瞳の下の層で、水分の膜が一枚薄く生まれた。生まれた膜は睫毛の縁には上がらなかった。五歳の瞼の内側の深い層の方へ吸い込まれた。


 ——泣かせない。


 今朝、私が最後に守る鉄則の一枚。


 私は立ち上がった。立ち上がる膝の動きの中で、マティアス様の目の高さから、自分の顔をゆっくり引き上げた。


 「マティアス様。おやすみの続きを、お部屋で」


 「……せんせいのとこ、にも、いく」


 昨夜の寝台の足元の、「せんせいのとこ、にも」。あの問いの続きが今朝、朝霧の一拍前にもう一度生まれていた。


 三つ目の嘘は置かなかった。


 「……うん。いつか、ね」


 「いつか」の音の最後のところで、マルタの提灯の橙の芯の光が一度揺れた。揺れた光の下で、マティアス様の両手の星のスプーンの握りが、もう一度深くなった。




 マルタがマティアス様の小さな肩の輪郭に、右手をそっと添えた。


 「……参りましょう、坊ちゃま」


 マティアス様は頷かなかった。頷く代わりに、自分の足で半歩、光の漏れ口の内側の絨毯の縁の方へ戻った。戻ったあと、もう一度石畳の方へ青い瞳を向けた。その瞳の中に朝霧の薄い粒が二つ映っていた。映ったまま、マティアス様は星のスプーンを両手で胸の前にもう一段深く抱え込んだ。


 玄関の扉が内側から薄く閉じた。閉じる瞬間、扉の下の光の隙間に寝巻きの裾の白い縁が半分だけ残った。残った縁は扉の閉じる速度と同じ速さで薄く細くなった。細くなる前に、星のスプーンの握りの外側の角のひと擦れの音が、扉の木の層の内側に最後に残った。


 扉が、閉じた。




 提灯の光だけが、門の手前の石柱の横に残った。


 私は門扉にもう一度、手を掛けた。


 「……マルタ様」


 「はい、フィオナ様」


 「……あの子が朝、星のスプーンを手に持ったままでも、叱らないでいただきたいの」


 「承知、いたしました」


 「……それから。靴紐の右と左の羽の長さが揃わなくても、その日は揃わないままでいい、と」


 「……はい」


 「歌は。エミリア様の枕の下の、いちばん古い布の折り目に手が触れる夜は、よろしければ声の低い方の喉で、短い一節だけで構いませんから」


 マルタは最後の一言の水分の揺れを、提灯の光の外側の縁のひらりの揺れに、同じ速度で重ねた。


 「……承知、いたしました。フィオナ様のご指示は、わたくしが心得ております」


 マルタの右手が、エプロンの縁のいつもの位置にもう一度深く預けられた。預けた指の第三関節のところで、マルタの喉の下の層の水分の予備が、一粒分だけ静かに飲み込まれた。落ちなかった。




 門扉が、軋んだ。


 その軋みは、五年前の春の着任の朝にマルタが革鞄を受け取りに一歩進み出た時、門の内側から聞いた音と、まったく同じ高さの鉄の細い擦れの音だった。


 五年分の季節が、この一つの音の中で一度閉じた。


 私は石畳の外の乾いた土の道の上に、片足を置いた。置いた先で、右の靴底の縁の下の石粒の一つが小さく鳴った。


 ——振り返らない。


 昨夜、窓辺の硝子に掌の形の一拍の曇りを残したその下で、自分の指に置いた言葉。その言葉を今、門の外の土の道の最初の一歩の、靴底の当たり方の方へ吸い込ませた。


 吸い込ませた先で、後ろの玄関の扉の内側の、小さな星のスプーンの握りの一つ擦れの音は、もう聞こえなくなった。聞こえなくなったまま、私の次の一歩は前へ進んだ。


 背中の肩の骨のいちばん薄い輪郭の上に、マルタの提灯の橙の芯の光のいちばん遠い端の、ひらりの温度が一拍留まって、すぐ離れた。離れた先で、背中は冷気の深い層の方に静かに預けられた。


 ——振り返らなかった。




 街道の最初の一里は、乾いたわだちのひと筋の上を歩いた。


 足音は革靴の底の縁のところから、静かに返ってきた。返ってきた音を私は数えなかった。数える代わりに、息の速さを朝霧の薄い層の粒の流れ方に合わせた。


 背骨のいちばん上の段のところに、昨夜、硝子の曇りの下で吸い込んだ薄い水分の膜が、ふいに上がってきた。上がってきた膜は、喉の上の層までは辿り着かなかった。辿り着かないまま、頬の内側の奥の層の方へ静かに戻った。


 ——泣かなかった。


 斜めの上りの小さな峠の手前で、私はもう一度、同じ言葉を指の先に置いた。


 ——嘘は、ついた。


 一つ目は「新しい、お仕事」。二つ目は「すぐ、かえる」。二つとも、五歳のいちばん薄い瞼の内側の深い層の方へ吸い込ませた。吸い込ませた先で、二つの嘘の重さは、これから街道の次の一里の上で、ひとつずつ引き受けていく。


 ——子供の前では、泣かない。


 ——子供の前では、嘘をつかない。


 二つの鉄則のうち一つを、今朝、初めて崩した。崩した鉄則の欠片は、乾いた土の轍のいちばん深い溝の底に、静かに落とした。拾わないまま、次の一歩は前へ進んだ。




 日が、森の稜線のいちばん上の杉の梢の先端を越えた時。


 振り返らなかった背中のいちばん遠い場所——王都の北門の、鉄の細い擦れの音の名残の最後の一粒が、耳の奥の深い層のところから静かに消えた。


 消えた先で、次の一歩は斜めの上りの細い土の道の、二本目の杉の根元の曲がりの方へ進んだ。


 辺境の森の縁の小さな街の名前——グリューネヴァルト——の最初の音が、喉の下の層のところで一度薄く鳴った。鳴った先で、音は朝霧の最後の粒のひらりの中に、静かに散った。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


 第二十七話「振り返らない」は、第三アーク「起」の三話目、退場の朝を書きました。


 早朝の門の前でマルタだけが待っている——この場面は構想の最初から、第一話冒頭の「早朝五時の門の前」のちょうど鏡像の位置に置くことを決めていました。五年後の門は三人の小さな影の出発の門。今朝の門は一人の足の退場の門。同じ鉄の軋みの音で、二つの門が五年分の季節の上に対称に立ちます。


 予想外だったのは、マティアス様が起きてしまうことです。早朝退場の静かな設計を、五歳の寝起きの一足が崩してしまう。星型のスプーンを両手で握ったまま、寝巻きの裾の白い縁を光の漏れ口の内側に立たせる——この一瞬が、フィオナの前世の指先に置いた二つの鉄則(「泣かない」「嘘をつかない」)の一つを、今朝、初めて崩させます。「先生は、新しい、お仕事をするの」「すぐ、かえる」。二つの嘘は、これからフィオナが辺境の街道の次の一里の上で、ひとつずつ引き受けていく荷物になります。


 「振り返らない」という題は、物語全体の第一話——ルーカス様がマティアス様を背負ったまま、一度も振り返らなかった朝——と静かに向き合わせたつもりです。子供が振り返らない門と、大人が振り返らない門。二つの門の同じ土の道の上で、靴底の当たり方だけが次の一歩を前へ進めます。


 次話「椅子を投げる子」では、三日後の辺境グリューネヴァルトへの到着を書きます。レオン・グリューネとの出会い、そして彼の手に負えない一人の子供——トビアス。保育チャレンジは、ここからもう一度、新しい畑の上に置かれ直します。引き続きお付き合いいただけたら嬉しいです。


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