表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「僕たちはフィオナ先生を選びます」——前世保育士の令嬢が追放された朝、公爵家の子供が全員いなくなりました  作者: 歩人


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
30/56

第26話: 最後の夜

 夜の子供部屋で寝台の縁に腰を下ろした時、膝の上に置いた五冊のノートの、いちばん下の茶色の表紙が、掌の下で五年分の重さを返してきた。


 重いというより、温かいの方に近い重さだった。昨日の夜に決めた。——今夜が、最後の夜だ、と。




 寝台の奥でエミリア様が枕の縁を薄く摘んで目を閉じていた。目を閉じるほんの少し前に、私は寝台の脇に膝を折った。


 「せんせい」


 エミリア様の夜の声は、いつもより半拍短かった。百八十夜のいちばん最後の夜の、寝息が深くなる直前のやわらかい張り方の声だった。


 「はい、エミリア様」


 「……きょう、うたって、くれる?」


 「……ええ。歌いましょう」


 栗色の巻き毛の、耳のうしろの一筋を、指の腹で枕の縁の方に静かに整えた。整えた先で私の指先は半拍止まった。止めたまま、もう一度、耳のうしろのいちばん薄い皮膚の温かみを指の腹に預かっておいた。


 子守歌の最初の低い一音を、喉のいちばん奥の方から出した。雷の遠い夜に毛布の壁の内側で濡れた瞼の上をゆっくり撫でるような音の幅。五年前の着任七日目の夜にこの子が初めて私の手首を自分の胸へ引き寄せて「ここ」と言った、あの夜の声の幅と同じものだった。


 旋律は一度も途切れなかった。歌になった息が、エミリア様の瞼の上の睫毛まつげの縁を、ゆっくり撫でた。


 歌い終わった時、エミリア様の灰色の瞳は半分だけ開いていた。


 「……せんせい」


 「はい」


 「……また、うたって、くれる?」


 寝台の脇の獣脂灯の、橙の芯のいちばん細い光のところで、私の喉の奥の薄い層が一度乾いた。乾いた先で、私は自分の指先に言葉を一つだけ置いた。——子供の前では嘘は許される。その一つだけは、許されている。


 「……もちろんよ、エミリア様」


 エミリア様の瞼が完全に閉じた。閉じた瞼のいちばん端に、小さな水分の光の粒が一拍留まった。留まった粒は落ちずに、睫毛のいちばん外側の毛の付け根の方へ滑って吸い込まれた。


 寝息が深くなるまで、私は膝を折った姿勢の高さを変えなかった。




 マティアス様は、寝台の足元の方の絨毯の上で、膝の間に両方の革靴を揃えて置いていた。麦わら色の紐の片端を、小さな右手の親指と人差し指で摘んでいる。


 「せんせい。もう、いっかい、やる」


 「ええ、マティアス様。やりましょうね」


 冬の午後のあの日から数えて、ひと月と半月。不揃いのちょうの片方の羽は、もう昨日の夜に大きく揃った。けれど結び終えるその最後の瞬間の左右の力の配分だけが、まだ片方に寄りがちだった。


 マティアスが小さな口の下唇を、内側に薄く引き込んだ。二歳の畑で人参の芽に水をやる時の、あの集中の癖。五歳の今夜も同じ角度で引き込まれた。


 指の先が紐の両端を摘んだ。交差して、右の紐が左の上に乗った。輪が指の下でゆっくり膨らんだ。膨らんだ輪の穴を、左の紐の先が目で確かめながら潜った。


 潜ってから、マティアスの短い親指と人差し指が紐の先を静かに押さえた。押さえた指の爪の薄桃色の下で、紐の先は揺れたまま抜けなかった。


 右手と左手の力の配分が、今夜は釣り合っていた。引き絞る最後の一拍で、右手の親指がほんの半ミリだけ先に離れた。離れた先でも結び目は崩れなかった。羽の片方が長くならず、もう片方も短くもならなかった。


 ——揃った。


 右と左のちょうの羽の長さが、揃った。


 「……せんせい」


 マティアス様の大きな青い瞳が、自分の指の結び目をじっと覗いた。覗いたあと顔を上げた。上げた顔の、頬のいちばん丸い所に紅の薄い色が昇ってきた。


 「……できた」


 「できたわね、マティアス様」


 「……ほんとに、できた?」


 「ほんとうよ。左のお羽と、右のお羽が、おんなじ長さ」


 マティアスは、自分の結び目の左の羽と右の羽を、小さな人差し指の先で交互に一度ずつ触った。触ったあと、両手を膝の上で静かに重ねた。重ねた手の甲の上に獣脂灯の橙の光が一粒のった。


 「……じゃあ、ぼく、もう、どこにでも、いける?」


 五歳のいちばん素直な矢。


 冬の午後にこの子が一度放った同じ矢が、今夜もう一度、手の中に戻ってきた。その間のひと月と半月、指さんへの「ゆっくりね」の何十回の呼びかけを、私の指は全部覚えていた。


 膝の高さを、マティアスの目の高さにちょうど合わせた。五年間この高さでこの子の顔を見てきた。


 「ええ、マティアス様。もう、どこにでも、自分の足で、行けるわ」


 「せんせいのとこ、にも?」


 頬の内側のいちばん奥の粘膜の温度が、ほんの半分だけ上がった。上がった温度を喉の方へは逃がさないで飲み込んだ。飲み込んだあと、私はマティアス様の肩の骨の、薄いまだ柔らかい輪郭の上に右手をそっとのせた。


 「……ええ。先生のいるところ、にも」


 声の底のいちばん低い層が、少しだけ湿っていた。湿りをマティアス様の耳の薄い奥までは届けないように、息の速さをほんのわずかにゆるめた。


 マティアス様は、結んだ方の靴を寝台の下にそっと置いた。もう片方の靴は膝の間にまだ残っていた。残った一足の紐の端を指で摘みかけて、止めた。


 「……あさっては、もう、いっかい、やる」


 「ええ、もう一回、やりましょう」


 嘘がもう一つ重なった。重ねた嘘の端の方は、寝台の毛布の縁に静かに掛けた。掛けたまま、誰にも拾われない場所にそっと畳んだ。


 マティアス様が寝台に上がって、毛布を首の下まで引いた。星のスプーンは、いつものように寝台の下の、揃えた両足の靴の右隣に整列している。揃った靴紐のちょうの結び目が二つ、橙の光の中で静かに並んでいた。




 ルーカス様は、子供部屋の机のいちばん端の椅子に石板を置いて、夜の最後の升目に今日の二つ目の丸を入れようとしていた。


 「……ルーカス様」


 「……はい、先生」


 石板を閉じる前に、私は椅子の真横に立った。立ったままこの子の目の高さに自分の目を合わせるのに、もう膝を折らなくても良かった。


 「今夜、一つだけ、先生から、置かせてくださいね」


 「……はい」


 ルーカス様は、石板の升目の右下の、今日の最後の丸の位置から、視線を私の方へ移した。


 「あなたは、もう、自分の言葉で、話せる人になりました」


 「……はい」


 「誰の、前でも」


 「……はい」


 「父上の、前でも」


 ルーカス様の喉ののど仏の小さな骨の輪郭が、一度上下した。上下してから、この子は石板を机の端に静かに置いた。置いた石板の升目の右下の丸は、まだ閉じずに、開いた線で残されていた。


 「先生」


 「はい」


 「……きょう、先生は、いつもより、すこし、声が、薄いです」


 十二歳の耳の精度だった。私は自分の声の層のいちばん上の、薄くなっている一枚を指先で触ろうとして、触らずに止めた。触れば、この子の耳に嘘の厚みが増える。


 「……ええ。少し、疲れているのかも、しれないわ」


 「……そうですか」


 ルーカス様はそれ以上問わなかった。問わずに、自分の夜の手順を一つだけ変えた。石板のいちばん右下の、開いたままの丸の線の端に、小さなまっすぐの縦線を一つ足した。足した縦線は、丸の開口の閉じ具合のちょうど手前で止まった。


 ——今日の二つ目の丸の隣に、三つ目の印。


 それが何の印なのかは、私は聞かなかった。聞かないまま、私は右手をこの子の肩の骨の薄い輪郭の上に一度軽く置いた。置いた先で、ルーカス様の肩の奥の方の深い筋肉が、一度低く波を打った。


 波は音にはならなかった。ならないまま、この子の背中の真ん中の、背骨のいちばん下の辺りまで、静かに降りていった。


 「……おやすみなさい、ルーカス様」


 「……おやすみなさい、先生」




 三人の寝息が三つ揃うまで、私は窓辺の薄い絨毯の上に膝を折って待った。エミリア様の深い眠りの波。マティアス様の小さく短い、でも均等な息。ルーカス様の静かな、でも眠りのいちばん浅い層の、まだ少しだけ醒めている息。


 三つの波がひとつに重なって均されたのを、私は耳の奥のいちばん深いところで見届けた。見届けてから膝を立てた。




 棚の一段目。茶色、紺、深緑、黒、深い赤。五冊の背表紙が色の順に、指一本分の隙間も残さず並んでいた。


 机のいちばん下の引き出しから、私は柘植つげの端材用の、短い刃の小刀を取り出した。三年前にマティアスの星型のスプーンを削った日の、あの小刀。刃の端は、もう少しだけ丸くなっていた。丸くなった刃の先でも、革の表紙の上に名前の浅い線を刻むくらいはできる。


 一冊目の茶色を抜いて、表紙を仰向けに膝の上に置いた。


 茶色の革のいちばん上の段に、小さな細い文字で、名前を一つだけ彫った。


 《ルーカス》


 一画ずつ、刃のいちばん浅い層で革を撫でるように引いた。革の上にうすい線が一本ずつ刻まれていく。刻まれた線の底に、前世の連絡帳の鉛筆の、最初の一筆の薄い音の記憶が一度だけ重なった。ルーカスの「ち、ち……」の朝が、この一冊目の最初の数ページに眠っている。


 二冊目の紺を抜いた。紺の革のいちばん上の段にも、同じ大きさで名前を彫った。


 《ルーカス》


 紺のこの一冊の中ほどの、いちばん濃い鉛筆の跡は、ルーカス様の初夏の「ち、ち……」が「届いた」その一行。これは、ルーカスのための一冊。


 三冊目の深緑。


 《エミリア》


 表紙の角の小さな欠けの、指先の馴染みのいちばん深い場所の少し下の段に、細い刃で名前を彫った。百八十夜目の朝の「おはよう」。藤色のリボンの羽の長さを、指の腹で測る夜。この冊は、この子の夜の手順のほとんど全部を抱えている。


 四冊目の黒。


 迷った。迷ったあと、名前を二つ彫った。


 《ルーカス、エミリア》


 ルーカスの弁論大会の、壇上の一つの声がこの冊の最初のページに入っている。——「この子の三年は、この子だけのものです」。この書きたかった一行が、ルーカスの方に乗っている。けれどこの冊の半分から先は、エミリアの七歳の成長の手順。「おなじめ」と扇の内側を見抜いた春の夜。——二人の名前を横に並べて、間に小さな点を一つ打った。「、」の、短い息継ぎ。


 五冊目の深い赤。


 いちばん新しい表紙の、革の掌の馴染みのまだ薄い層の上の段に、ゆっくりと名前を彫った。


 《マティアス》


 靴紐の不揃いのちょうの、片方の羽の短さ。今夜の揃った羽の長さ。指さんへの「ゆっくりね」の、最初の自己交渉。おほしさまのスプーンと、おほしさまにんじん。——この一冊が、この子の五年分を全部抱えていた。


 五冊を棚に戻した。左から、茶色、紺、深緑、黒、深い赤。順番を変えなかった。背表紙の高さは今夜も揃った。棚の一段目の四冊目と五冊目の指一本分の空きは、もうなかった。五冊目の右端には、名前の小さな凹凸が、他の背表紙とはわずかに違う温度の、五本分の線として残った。




 机のいちばん下の引き出しの奥の、冬から預かっている薄い布の包みを、今夜も私は開けなかった。指一本分の塵の上に指先を一度置いて、すぐ離した。この包みは、私の手のものではない。マルタに預かってもらう。書面の渡し方が今日、私の中で決まった。


 マルタは明日の早朝、門のところに立っている、と昨日、静かに告げてきた。廊下の角の冬の立ち方の、少しだけ速い速度の、あの告げ方で。


 私はその一言に、今日、初めて返事を返す準備をした。




 窓辺に戻った。硝子の向こうは、夜のいちばん深い色に沈んでいた。庭の馬車回しの、石畳の水の筋は、もうすっかり乾ききっていた。


 掌を硝子にあてた。掌の下に、夜の硝子の冷たい温度がひらりと戻った。五冊の背表紙の名前の凹凸の温度を、硝子の冷たさの中に少しだけ移した。


 ——歌うと約束した。


 ——明日の、あさっての靴紐の練習を約束した。


 ——誰の前でも話せる、と渡した。


 約束と嘘の境目は、今夜の私にはうまく引けなかった。引けないまま、全部を引き受けることにした。


 硝子の上に、掌の形のうすい曇りが、一拍残って、消えた。


 薄い涙の膜が、目の縁のいちばん上にほんの一段だけ生まれた。生まれた膜は、瞼の内側のいちばん深い層の方へゆっくり吸い込まれていく。頬までは下りなかった。


 子供のいる部屋で、私は泣かない。——今夜も、その鉄則を守った。


 薄い膜の残りの水分だけが、硝子のいちばん細い筋のところに、もう一度うすく留まった。留まった水分は、夜の底に静かに沈んだ。


 寝台の方を振り返った。三つの小さな背中の、毛布の下の、均された息の線。この線を、私は明日の早朝に振り返らないと決めていた。今夜が、振り返っていい最後の夜だった。


 一冊ずつの名前を、棚の上でもう一度、指の腹で順になぞった。茶色のルーカス。紺のルーカス。深緑のエミリア。黒のルーカス、エミリア。深い赤のマティアス。


 ——いつか誰かがこの棚から五冊を抜く夜が来るなら、その時に間違わないように、名前を背表紙にも置いた。


 指の腹を、五冊のいちばん上の段から下ろした。


 暖炉の遠い火の音が、一段低くなった。寝台の三つの寝息は、揃ったまま、子供部屋の暗闇の中で静かに続いていた。


 ——明日の早朝。


 私は窓辺の絨毯の縁に、もう一度腰を下ろした。下ろしたまま、夜のいちばん深い時間がゆっくり進むのを、指先の冷たさの方で数えた。数えた指の先の、爪のいちばん薄い層のところに、三つの寝息の波が一つずつ静かにのっていった。


 明日の朝の荷の縁の場所は、もう決めていた。荷の奥には、五年分のどの手順も入れなかった。手順は全部、棚の五冊の背表紙の名前の下に預けた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


 第二十六話「最後の夜」は、退場の前夜の子供部屋を書きました。


 フィオナは、三人の子供たちに、それぞれ違うものを、最後に、置いていきます。エミリア様には、子守歌と、「また歌ってくれる?」への「もちろんよ」。この「もちろんよ」は、子供の前でだけ、許される、優しい嘘として、書きました。子供の、いちばん柔らかい瞼を、今夜、守る嘘は、明日、必ず、代償を、誰かが、引き受けることになります。その代償を、フィオナは、自分一人で、抱える覚悟で、今夜、この一言を、口に、出します。


 マティアス様の靴紐は、冬の午後の、不揃いのちょうの、片方の短い羽の日から、ひと月と、半月。ようやく、左右の羽の長さが、揃います。「できたね。もうどこにでも、行けるよ」——この一語は、第一話の、早朝五時の門の前の、五歳の足の、自分で結んだ靴紐に、直接、繋がる言葉です。マティアス様は、三日後、この靴紐を、自分の、小さな指で、自分の足に、もう一度、結んで、門の方へ、歩き出します。


 ルーカス様には、「あなたは、もう、自分の言葉で、話せる人になりました」という一語を、渡します。七歳の、「ち、ち……」の、二音節未満の朝から、十歳の、壇上の、二百秒のスピーチを経て、十二歳の今夜、この子の声の回路は、もう、閉じていません。誰の前でも、父上の前でも、話せる——フィオナが、最後に、この子に、置いていく確信は、のちに、第一話の、門番ハンスの前での「僕たちはフィオナ先生を選びます」という一言の、いちばん深い土台に、なります。


 五冊のノートの表紙に、刃で、名前を、彫り添える所作は、この作品全体の、いちばん静かな儀式の一つに、なりました。茶色の「ルーカス」、紺の「ルーカス」、深緑の「エミリア」、黒の「ルーカス、エミリア」、深い赤の「マティアス」——この五つの名前の置き方が、第三アーク後半で、ある一人の子供の掌の中に、どのように、届くのか。その順序を、次話以降、少しずつ、書いていきます。


 次回、第二十七話「振り返らない」では、早朝の退場の場面を書きます。マルタの、門の前の立ち方。星型のスプーンを握った、起きてしまった五歳の手。そして、フィオナの、最後の嘘。引き続き、お付き合いいただけたら嬉しいです。


☆評価・ブクマ・感想をいただけると次話の励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ