筋肉痛の月曜日
『あんた、どうしたの! その怪我!』
晩ご飯の始まりの声は母親のそんな言葉からだった。
『転んだぁ? まったくあんたは本当におっちょこちょいなんだから!』
晩ご飯のときに額にガーゼを当て、腕に包帯を巻いた幸彦の姿を見て、母親は完全に呆れた様子でそう言った。
『少しは裕を見習いなさいな。ああ、ミイラ男みたいになっちゃって。どんな勢いで転んだのよ』
「妖精から矢を放たれました」と言っても良かったが、双子の弟の裕とは違って母親は脳みその心配をするだろうなと判断して、幸彦はそのまま転んだ事にしておいた。
しかし矢が体の中に残ると言う事も無くて助かった。矢が刺さったまま転んだ事で抜けないのもあるのではないかと心配していたが。
「よもや五円玉の穴にあんな使い方があるとは……」
弟の裕は「おばあちゃんの知恵袋みたいなもんだよ」と笑っていたが、助かったのには間違いなかった。
まあ、後遺症が出なければ怪我も勲章である。人命救助ならぬ、妖精救助だ。
「まあ、不思議な思い出と言う事にしておこうか」
妖精の国へと繋がる不思議な額縁の前にあぐらをかいていた幸彦は、そう結論づけて、とりあえず入り口側を底にして額縁を伏せた。
重力がどうなるかは判らないが、これで妖精は入って来れないだろう。
「うむうむ」
幸彦は一先ず頷き、そして部屋の惨状を見渡した。
乱雑である。無国籍料理だってもう少し体裁を整えてくるに違いない。
端的に述べて汚い。
汚れているわけではない。
物がとにかく溢れている。幸彦の特技は押し入れの整理だった。
倉庫の物の仕舞い方には自信がある。その能力を全力で発揮すると、押し入れからはあら不思議、隙間が無くなるのである。
だがそうしてなんとか保っていた押し入れの中身が溢れている状態は見るに堪え兼ねた。
そんな部屋の中で洋服だけが一カ所に固めれている。
「……まあ、くたびれ儲けってだけじゃないよな」
些細な報酬を見て、ちゃぶ台を見れば針の刺さっていない針山と、箱から抜き出されたティッシュの束が乗っている。
時間はまだ早いが……もう寝てしまおう。
昨日とろくに寝てないからなぁ……ねむい。
山登りの往復を三回。そこから河原のハイキングだ。既に筋肉は疲労困憊。ふくらはぎと太ももと肩と腰にシップも張ってあるが……既に筋肉痛気味であり、明日が心配になる。
床に転がっている掛け布団を抱えて、幸彦はベッドに横になる。
そうすると、すぐに眠気はやってきた。
◆◇◆◇◆
夢もみずに朝がやってきたが、幸彦は良く寝たままだった。
目覚まし時計が鳴る。仰向けで寝ていた幸彦はうつぶせに寝返りを打ちながら、よたよたと右手を伸ばして目覚まし時計のベルを止めた。
そして不自然な姿勢のままで、再び意識を落として行く。
トントン。
軽めのノックの音がして、しばらく時間を置いてから部屋のドアが開かれる。
現れたのは制服を着込んだ裕だった。
「うわ……片付けてない」
学ランを着込んだ裕は部屋の汚さに顔をしかめながら、物を避けるようにして部屋の奥のベッドへと移動する。
ベッドの上には、今まさに目覚まし時計を止めたままの姿勢で寝ている兄が微動だにしていなかった。まるで写真の様なその姿に、変な筋を痛めそうだなぁと裕は内心思う。
「ほら、兄さん。朝だよ。起きなよ」
ゆさゆさと布団を揺すられ、幸彦はうめき声を漏らす。
幸彦は目覚めが悪い方ではないが、今日は嫌に目覚めが悪いと裕は思い……この土日であった事を思い浮かべる。
単純に疲れているんだろうな。とは思うが、しょうがないと眠らせておく権限は裕には無かった。
「ほら、起きないと」
あるいは、裕がもう少し薄情な人間であるならば寝かせておいたかもしれないが、遅刻をして困るのが兄である事を思えば見捨てられない。
裕の献身的な対応に、幸彦の意識が徐々に覚醒する。
「……眠い」
なんとか覚醒した意識で、幸彦はぼんやりと本能が訴えてくる申し出を口にする。
「それは見れば判るけど。ほら起きて。母さんが朝ご飯を作ってくれてるよ」
言われて幸彦の本能が食事を求めた。
「うー、むー」
うめき声を発しながら、幸彦はゆっくりと体を上げようとして、中途半端な姿勢で止まる。
「これは、あかん……」
「どうしたのさ?」
変な姿勢で、関西弁でうめいた幸彦に、裕はそう訪ねてくる。幸彦はそれに首をゆっくりと動かしながら答えた。
「体が、すごく痛い」
「……間違いなく、筋肉痛だよ。ほら頑張って」
そう励まされて、幸彦はどうにかこうにか地面に立った。全身の筋肉がほぼくまなく痛いが、太ももの痛さが尋常ではない。
「しんどい」
「なんだか、生まれたての子鹿ちゃんみたいになってるけど……大丈夫?」
あんまりな兄の姿に裕が心配そうに声をかける。それに対して幸彦はゆっくりと首を横に振った。
「筋肉痛では休めん。皆勤賞がある」
「……皆勤賞なんて気にしなくて良いと思うけど」
「まあ……無理そうだったら、早退する」
「たどり着けるかどうかが問題だと思うけど……」
よたよたと老人のような動きで、パジャマを脱ぎ始める幸彦に、裕はそう思わず口に出していた。それに対して幸彦は大丈夫だと胸を張りかけて痛みで背中を曲げる。
「今日はバスで行く。自転車には乗れそうにない」
「それがいいよ」
苦笑い浮かべながら幸彦の意見に賛成した裕は壁にかかってる時計を見た。
「とりあえず、僕は先に出るから」
「おう、助かった」
「いいよ、それじゃ」
さっと部屋を出て行く裕を見送り、濃い藍色のブレザーの制服に着替える。
それから四苦八苦しながら階段を下りて、体が求めるままに食事を取る。そこまですると、昨日さっさと寝た事が幸いしてか、眠たさはいくらかマシになっていた。
「すくなくとも、今日一日はおとなしくしよう……」
無理をさせすぎた体を労りつつ、制服のネクタイを締めた幸彦は荷物を持って家を出た。
空は晴れていたが、風はどこか冷たかった。この天気が土曜日だったら、あの山登りも多少マシだったのだろうかなどと考えながら、お隣さんの郵便ポストにデジカメと、その他資料、そして鍵を入れる。
本来なら昨日のうちにしなくては行けなかったことをやり終えて、幸彦の肩から少しだけ荷が下りる。
まだ残っているような気がする肩の荷物にかんしては、リリィの事だった。
「気にしてもしょうがないよな……」
もう既に終わった事だと、頭を振って幸彦はそれで突っ張った筋肉の痛みをこらえながら学校に向かう為、バス停へと歩き出した。
◆◇◆◇◆
幸いがあるとすれば、月曜日には体育の授業が無い事か、あるいは居眠りがまったくバレなかった事か。もしくは筋肉痛を心配して購買に自分の分のパンも買いに行ってくれた友人が居る事か。
授業が始まり、挨拶をしてそして眠る。そんなことを朝のホームルームから繰り返して幸彦はお昼休みを迎えていた。
体が疲れている時は眠るだけ眠ってもまだ眠い。昨日は早く寝たのになぁと思いながら、友人が帰ってくるのを待つ。
俺は友人に恵まれてる。
元気だったらハグの一つでもしてやりたいと相手が迷惑するような事を考えていたら、教室の入り口から、その友人が二人戻ってきた。
ややポチャリでいがぐり頭のタッツンと天然パーマで眼鏡のイズモはそれぞれ購買で買ってきた品を持っていた。
「ほいよ。好きなパン三つ取れよ」
「飲み物も好きなのとるといいよ」
机の上に並べられるパンとジュースに幸彦は感謝をとりあえず返す。
「たすかるよ。タッツン、イズモ」
そう言って手を合わせる幸彦に二人は笑いながら口を開く。
「良いって事よ。ケガ人だしな」
タッツンのその言葉に幸彦は笑うしか無い。右手も、左手も包帯で、頭にはちょっと大きい絆創膏が貼られているのだ。
「それ今朝見た時は『邪気眼』にでも目覚めたかと思ったけど」
イズモはそう言ってクククと楽しそうに笑う。
「なんだ? じゃきがんって」
不思議そうに訪ねるタッツンにイズモが笑いながら答える。
「中二病ってやつだよ。うっ、封じられた俺の手に宿った魔物が! とか言うやつ」
そう言われて、幸彦は自分の手を見下ろした。なるほど。両手に魔物が封じられていると言うわけだ。
「自転車で転んだだけだ」
事前に考えてあった言い訳を口にする幸彦にイズモは判ってるとばかりに、手をひらひらと泳がせた。
「でもま、よっぽど急いでたんだね。電車代でもケチったの?」
そう言われて、幸彦はなんと言ったものか少し考える。
「まあ……人助けかな?」
その言葉に二人は「なんだよ、それ」と声を揃えて笑う。
三人は銘々、パンに手を伸ばす。
「ユッキーはあれだな。お人好しだからなぁ」
「すぐ電車とかの席を譲るもんね」
パンの袋を開けながら、そう話す二人に幸彦はコロッケパンの包みをはがしながら、不満げに口を尖らせた。
「席譲るのは悪い事じゃないだろ」
「……まあ、胸を張って言えるところがユッキーの良いところだよね」
「女には弱いけどな」
「それはお前等もじゃないか」
幸彦がそう言うと、タッツンとイズモは揃って顔をそらした。
しばし気まずい沈黙が流れる。
「しかし我らモテない三銃士もそろそろ返上したいところだな。もうすぐ冬だし」
最初にそう切り出したのはタッツンだった。声が切実だった。
「むっつり三賢人じゃなかった?」
「だが賢人と言うほど頭は良くないだろ」
「保険体育の点が良いから良いんじゃないかなぁ」
「……なんにしてもむなしい」
自然と三人は溜め息を吐き出す。
三人には鉄の誓いが合った。彼女が出来たら報告する事、そして祝福する事である。
ちなみに報告の儀式が行われた事は無く、当然祝福も行われていない。
「……この話は止めない?」
イズモのその提案に残った二人は悲しげに同意した。心無しか、口に含んでいるパンがしょっぱい。
「なにか明るい話題を」
「ええっとね……そうだ。マシコマシコさんの新曲聞いた?」
イズモがポンと手を叩いて話題をひねり出した。
それに食いついたのは幸彦だった。
「マシコマシコさんの新曲が出たのか!?」
「……だれだ? マシコマシコって?」
反対に首をひねったのはタッツンだった。
「ほら、機械に歌わせる奴を作る人だよ。その有名人」
イズモの説明に、タッツンは思い当たり、「ああ、あれか」と声を漏らす。
「ユッキーがハマってる奴か。パソコンでポチポチする」
「それそれ。ユッキー、聞いてなかったんだね」
「昨日と一昨日は疲れて寝てたんだ。しまったなぁ。新曲、いま聞けないのか?」
「携帯から見れるけど……でもあれだね。昼休みは先生の見回りがあるから」
「ダメか」
ひどく残念がる幸彦は落ち込んだ様子でコロッケパンの最後の一口を齧る。そんな様子にタッツンは物珍しそうに訪ねる。
「そんなにすごいのか? その人。テレビとかにも出るのか?」
「テレビとかには出ないよ。動画配信では、そこそこってだけで……普通の歌手の人と比べても、音楽の市場としては小規模だしね」
「ふーん、ローカルアイドルみたいなもんだな」
納得したとばかりに頷くタッツンに、イズモはそんな感じかなと適当に頷いた。
それに幸彦が被せる。
「だけど、分野としてはこれからなんだ。音楽の分野としては、音痴の希望の星だ」
幸彦の熱い思いのこもった言葉に二人は彼の歌声を思い出して、声を出して納得する。
「ユッキーもそこそこなんだっけ? その機械に歌わせる奴」
「そこそこだ。でも、ファンも居るぞ」
ふふんと胸を張る幸彦に、二人は大したもんだと感心する、
「人から認められるってのはすごいよな」
「どっちかと言えば苦手分野なのにねぇ」
「うむ、執念。ここに極まりって感じだな」
うむうむと感心されてはいるが、なんだか腑に落ちない。そんな気分になった幸彦はクビをひねった。
「……なんだか馬鹿にされてるか? 俺」
「いやいや、本気で感心してるんだぜ。苦手な事から逃げないってのはすごいぜ」
「そうそう。新作は作らないの?」
「構想はあるんだ。聴くか?」
「おお、お昼に音楽とは良いな」
「うちの放送部はさぼり気味だからねぇ」
促されて幸彦は機嫌良く咳払いをして喉の調子を整える。
その様子を見て二人が慌てた。
「まって、歌わないで」
「まて、歌うつもりか」
素早く止める二人に、幸彦が何を言ってるんだと言わんばかりの顔をする。
そんな幸彦に、二人の親友は呆れた様子で溜め息を履きながら口を開いた。
「やめてくれ、せっかくの昼休みなのに」
「ユッキーって、あれだよね。恐れを知らないよね」
そんな心ない言葉に幸彦は憮然とした表情を浮かべた。




